24 少女の指は淫らに蠢いて

 自身の発狂を仄めかす親友、顔色が悪くて額に汗を浮かばせている彼女を放っておくことなど朋香にはできなかった。


「汗拭くよ。じっとしていて」


 朋香は一度は言われるがままに渡したタオルを茉莉花の手から取り戻す。

 掴んで離さない素振りがあったが今の茉莉花に抵抗する力はそれほどない。


「イヤ、やめて」


 それでも茉莉花は口で抗う。朋香の慈愛に。朋香は落ち着き払った声で諭す。


「そう。本当に嫌なら無理強いしないよ。でもね、茉莉花。もし、ただ単に恥ずかしがっていたり、私に対して借りを作る後ろめたさがあったりするだけなら。……この際言わせてもらうと、そういうのは全部捨ててよ。今日こうして会いに来たのは私が会いに来たかったからだもの。現にあなたは呼ばなかった」


 話していくうちに朋香は自分でも納得のいかない苛立ちを感じた。

 なにも茉莉花が誰かに対して従順とは真逆の態度をとるのは珍しくもないのに、そのときは思いどおりに動いてくれない彼女にいらいらしてしまっていた。

 朋香のある種の抗議、表明に茉莉花はその面持ちを疲れさせた。


「朋香がもしも来なかったら、次に学校で会えた時に嫌味のひとつ、ふたつでも言うわ。わたし、そんな子なのよ。お願い。独りにして。そのタオルで朋香がわたしの隅々まで拭くだなんて想像させないでよ。言ったでしょ、狂ってしまいそうなんだって」


 叫び声を上げてしまうのを堪えるような表情で、茉莉花は懇願した。


「狂ってしまう?」


 朋香は二度目にして、彼女の発狂というのが脅しではなく、つまりでまかせではなくて現実に起こり得る事象、少なくとも茉莉花にとっての実感としてあるのだと理解した。それはたとえば、気の短い彼女が平手打ちしてきて、朋香の頬を打つのとはまた違う感触。触れられないのに、そこにある確実。狂いの予兆。


「どういうことなの」

「いかれたことを、あんたに白状しちゃいそうになっているの」

 

 茉莉花が顔を両手で覆った。

 歯ぎしりとやがて嗚咽が茉莉花から漏れてくる。朋香はパニックに陥った。容赦なく後頭部を棍棒か何かで殴られたみたいに。

 本当にあの茉莉花が涙をこぼし、声を抑えられないでいる。二週間前とはまるで立場が逆だった。


「教えて、茉莉花」


 良くも悪くも慎み深いと言われてきた朋香が、その時は大胆にも本心を茉莉花にぶつけた。もちろん、と朋香は紫苑に語ったが、茉莉花の指示通りに部屋を出る選択肢もあった。そうすれば後日、風邪から快復した茉莉花と学校で会って、それまでと変わらない日々を過ごせたのだろう。

 熱があったから、何かおかしなことを口走ってしまったけれど忘れなさい、と茉莉花が言って、朋香は、そうねそうしておくわねと平然と返していただろう。

 

 しかしそうはならなかった。

 朋香が求めた答えを茉莉花が口にするまでずいぶんと時間がかかった。

 それでも朋香からは催促しなかった。ようやく顔から手を離し、朋香を見やった茉莉花。その目元には涙が流れた痕跡があり、その眼は充血していたが、けれどもう涙はなかった。額に掻いていた汗も引いている。

 

 それは奇妙な表情だった。朋香はそこに恐ろしい静謐を目にした。

 嵐の前の静けさなのだと気づいた時には遅く、つまり朋香は覚悟を半端にしたまま、茉莉花の言葉を受けた。


「知りたいの?」

 

 そこには朋香の知らない茉莉花がいた。

 ゆっくりと、その口許に微かな笑みが浮かぶ。それが朋香を凍らせた。だが、そこにいるのは茉莉花でしかないのも朋香は頭でわかっていた。だから「うん、知りたいよ」とかろうじて答えられたのだ。


「朋香が来る前から、私は起きていた」

 

 茉莉花の告白はそこから始まった。


「朝から浅い眠りと覚醒の繰り返しだった。あんたが来る一時間前ぐらいに、弟が帰ってきて、柄にもなく私の心配をするから、なんだかさらに調子が狂った。それで、朋香がたぶん来るだろうから、居留守はしないよう言って部屋から追い出した。ああ見えて、小さい頃はお姉ちゃん、お姉ちゃんって可愛いやつだった。

 そうしてまた独りになると、見飽きた天井も、喉に絡む何か汚いものも嫌になって、それからはあんたのことだけ考えていた」

 

 茉莉花が顔をそらす。朋香を見まいとする。


「それでね、あんたのこと考えながら……一人でいたの」

 

 くらりと朋香の中で揺れるものがあった。

 頭の中。テーブルの上に置かれた円柱状の物体―――なんでもいい、ドレッシングの入った容器でも、リップクリームでも、乾電池でも―――が指で小突かれて、揺れて、倒れる。そうしてくるくると、あるいはもっと鈍い音をたてながら、テーブルの端へ端へと進んでいく。その運命的な落下を朋香は止められない。たとえばそれが蓋を外したドレッシングだったとしたら、テーブル上に、そして床にその液と匂いをまき散らす。幻想だ。でも不意に匂いが強まった。茉莉花の匂い。

 

 気がつけば茉莉花が朋香の瞳を覗き込んでいた。


「自分のじゃないみたいにいやらしく蠢く指。

 それを止められたのは、インターホンの音が耳に入って、数秒してから。それがあんたが私に会いに来たのを知らせるのだと確信すると、怖いぐらい濡れた。それから背中を冷たい汗、ううん、寒気っていうか、恐怖そのものが首筋から足先まで撫でていった。ほとんど脱ぎかかっていた下着をちゃんと履き直して、ティッシュで指を丁寧に拭いた。ついさっきまで別の生き物だったそれは、折れて地に落ちた枝や干からびた抜け殻みたいになった」


 朋香たちは見つめ合った。

 それにもかかわらず、朋香はそのときの茉莉花の表情をよく思い出せないでいる。それは頭が記憶するのを拒んでいたのか、記憶を出力できない状態におかれているかであり、紫苑もまたそれについては想像するしかなかった。


 茉莉花が朋香に話し続ける。


「初めてじゃないの。そう、初めてじゃなかったのよ。

 毎日のようにってわけじゃない。週に二日、ゴミ出しみたいに定期的にってのもちがう。でも、そうね、そういうときがこれまでにもあったの。何度か。いいえ、何度も。どうにもならない昂ぶりっていうのが。

 現代に生きている無宗教の、十代の女の子なのだから、その行為自体を咎められる筋はないし、自分でも行為そのものに対する恥じらいや否定的な心情ってあんまりなかったと思う。

 客観視って得意よ。だいたいは遅れてから、するものだけれど。

 ただ、問題とするのなら、ねぇ、わかるでしょう? こういうのって広い世界ではありなのかもしれないけれど、私の狭い世界じゃ、とんでもないことだったの。西原朋香、私の唯一無二の親友。それをこんな形で汚しちゃうってのは。極めてプライベートな性愛に巻き込んじゃうってのは。

 いいえ、私、あんたを神格化しているのではないのよ。この行いに高貴さはなかった。ひたすらに欲求を満たそうと、そのためにあなたの指とか肌とか、髪や唇、それから乳房や性器まで思い描いて、全部を利用していたの。物として。

 そうよ―――――わたしに幻滅しなさいよ! わたしは、あんたを自分だけのものにして、めちゃくちゃにしてやりたいのよ!」

 

 茉莉花は途中から朋香を見ていなかった。

 そう思う、と朋香は紫苑に語る。

 

 それは視点や視線からの推測ではなく、より本質的で、だからこそ抽象的なもので、つまりは茉莉花の心は目の前の朋香にはなかった。

 しかしながら、茉莉花がしていたのは、そこに物質的に存在する朋香への形而上の告白であり、懺悔であった。それが叫びとなって、狂いとなって茉莉花から放たれ、それを直に朋香は浴びたのだった。




「ところでお兄ちゃん。懺悔というのは自分の行いを罪と認めてそれを告白することなんでしょう? 神や仏、その代理者なんかに」

 

 僕はたぶん頷いた。代理者というのはおそらく牧師や司祭、修道士、修道女等々を指しているのだろうが、それが正確な言い回しであるかなど知らない。「そして赦しを乞うんだ」と僕は言う。「赦し」と紫苑は反芻し、溜息をつく。


「……重要なのは、茉莉花さんが、朋香を想って一人で自慰に耽っちゃっていたのを罪と思うかどうかなんだろうね」


「だろうな」


 自信なさげに僕は返す。


「お兄ちゃんだったら、幻滅する?」

 

 考えてみる。

 この場合、誰で考えればいいんだろう。数少ない同性の友人で? 彼が僕を想って自慰していたら?

 幻滅どころか嫌悪だった。直感的に、生理的に、その想像は僅かであっても充分に不快だった。

 でも、それを紫苑にそのまま伝えるのは憚った。僕はべつに、同性愛者を差別しないという主義をもっともらしく掲げたいのではない。ただ、電話の向こう、僕の知る彼女を傷つけたくないだけだった。僕の想像と感じたことを口にしてみても彼女が傷つかない可能性は大いにあったけれど、でもやっぱり僕は「僕がもしも西原さんの立場だったとしたら」とあくまで仮定の中に自分を押し込めた前置きをした。

 それは紫苑が言った「お兄ちゃんだったら」の前提をある意味で覆しているのかもしれない。


「幻滅しないと思う。驚くだろうけれど」

「そっか。ねぇ……試しに私も朋香を想って一人でしてみたら、いろいろなことが、わかるのかな。星と星とを結んで、星座をつくるみたいにさ」


 そんな紫苑の姿を想像させないでくれよ、と僕は黙ってしまった。そこにあったのは嫌悪でなかったことに、嫌悪した。




 目覚まし時計は痛かった。朋香は紫苑にそう話した。


 茉莉花が朋香に幻滅を求め、そのことで思考を停止させてしまった朋香を部屋から追い出すために、茉莉花は奇声を上げて、枕元の目覚まし時計を朋香に向かって投げた。幸いにも、と言うべきだろう、それはかする程度で済んだという。ごく近距離であるのにぶち当たりはしなかったのだから、茉莉花も理性の一端は残っていたのだと推測はできる。


 そうでなければ、鼻が折れるのを免れない硬さを有した目覚まし時計だった。

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