23 患う少女と見舞う少女

 夏休み初日。

 

 紫苑は終業式のときにぼんやりと眺めていた朋香のうなじを思い出しながら、どうやって彼女とふたりきりになって話したいことを話し、聞きたいことを聞くかを思案していた。


 電話かメールで彼女に直接、会えるか否かを確認するのが現実的な手段であった。そうわかっていながらも、それを実行できたのは夜になってからだった。朝から悩んでいたというのに、そして時間が過ぎれば過ぎるほどに決心が鈍り、後悔してしまいそうと予感していたにもかかわらず、それでも紫苑は時間をかけたのだった。


『会って話したいことがあります。それに前の続きも聞きたいのです』


 紫苑はそんな他人行儀の文面を朋香宛てに送った。

 軽薄でうわべだけいつもの自分を装った文字列であれば、彼女に届かないと思った。真剣に、紫苑は朋香を想っていた。応えられない、とあの日はっきりと拒まれた想いを今なお募らせていた。


『明日でいい?』


 その返信は予想外だった。

 何日か空けてから、だと勝手にみなしていた。たしかに夏休みに入っていてお互いにスケジュールが比較的自由だとはいえ、夜に誘ってみて、次の日になんてと臆する紫苑だった。とはいえ、天文部の活動は夏休み中に一切なさそうだから、それを理由に断れないし、そもそも仮に部活や他の用事があったとして、朋香を優先する。したい。


 紫苑は密やかなおしゃべりに向いている場所を検討した。

 はじめ、茉莉花の存在を知ったあのカフェでまた落ち合うのもいいのではと考えたが、しかし夏休みに入っていて、誰かと遭遇する可能性もあるし、そうでなくても他の誰かの耳に入る環境であってほしくなかった。

 ともすれば、ふたりでいられる部屋でないといけない。お互いの家の位置は、ショッピングモールを訪れた際に把握していて、近くない距離である。紫苑から朋香の家へと出向くのはやぶさかでないが、それを彼女は許してくれるだろうか?


 結局、紫苑はカラオケを選んだ。ふたりで話すための空間ではないが、それが可能な空間である。隣室があまりにうるさかったら、と懸念はある。でもそれは回避したくてもできないときが多い。人生における多くの苦難と同じだ。




「暖炉や小鳥のさえずり、花火大会なんてのもあるんだね」


 迎えた当日。

 朋香が選曲用の端末をいじりながら言った。お互いに歌う気分ではない。待ち合わせ場所とした駅から最低限のやりとりだけをして、カラオケまでやってきた。

 一曲も予約されていない状態では、画面上で延々と特定のバンドの宣伝であったりカラオケ店の紹介であったりが流れるので、環境音でも流しておこうという話になった。

 あの日四人でカラオケに行った時、朋香はそういったアンビエントやヒーリング音楽を好んで聴くと言っていた。それを思い出した紫苑は、同時に暗い気持ちになった。あの日以降、教えてもらった曲というのを聞く機会は増えたものの、音楽の趣味以外で朋香の好みについてあまり多くを知ることができていない。

 いくら教室で、彼女の一挙一動を目で追っていたとしても、四人でのお昼休みの際に彼女が珍しく話し手となったときにどれだけ耳を傾けていたとしても、西原朋香を自分はまだまだ知らないのだと改めて思い知った。

 

 それに、と紫苑は最近の昼休みのことも思い出す。すなわち、茜がいない昼休みを。公園で告白されて以来、夏休みに入るまでの数日間、茜とはまともに話していない。響子からは「喧嘩したの?」と聞かれて「そんなところ」と返していた。夏休みに入る前に仲直りしたほうがいいよ、きっと響子はそう言ってくれるだろうから、先んじて「夏休みまでには仲直りしないとね」と紫苑が言った。その前向きな姿勢に安堵したのか、それ以上は触れてこない響子に後ろめたさはあった。


 仲を直す。元通りになる。それって無理だろうなと。昼休みを独りで過ごし始めた茜、彼女が教室を出ていくその背中に紫苑はそう感じたのだった。

 もしも追いかけて、追いついて、彼女ともう一度、真っ向から話し合う状況が作れても、何を言えばいいかわからない。

 

「波の音でいい?」

「え、あ、うん」


 茜や響子のことを頭に思い浮かべていたせいで、朋香の確認に反応するのがワンテンポ遅れた。


 波の音が流れる。浜辺の映像と共に。 

 紫苑が思い出したのは僕と海辺にいった日のこと。そのときに歩いた砂浜、そのとき聞こえた波は、もっと静かで、それから潮の匂いがした。

 

 紫苑は朋香から話をしてくれるよう頼んだ。茉莉花の話は途中だったから。


「どこまで話したかな」

「朋香が転校を打ち明けて、泣いちゃって、それで…………互いが恋しているのだと気づいたところ」

「そっか。ある意味で、そこがはじまりでもあり、終わりでもあるんだよね」

「というと?」

「私たちは恋人にはならなかった。結論を言うと」

「それが結論でいいの?」

「うん。そこが終着点だと思う」

「聞かせて。ふたりのこと。また泣かないって約束はできないけれど」

「ねぇ、紫苑」

「なに?」

「茜とは仲直りできた?」

「どうして今、それを聞くのよ」


 響子と違って夏休み前に、聞いて来なかったのに。

 なんで今、朋香と茉莉花の話の続きを聞くときになって、それをわざわざ確かめるのだ。


「原因って私にあるのかなって」

「私と茜の喧嘩が?」

「ほんとうに喧嘩なの?」

「あのね、朋香。私の口から言えないこともある。言いたくないこと、言うべきではないこと。あなたの優しく、聡明なところが好きよ。心から。けれど、時には察しがついても知らないふりをしていたほうがいい場合もある。そう思わない?」

「ごめんなさい」

「ううん、私のほうこそ」


 どさくさまぎれに好きだと言って悪いわねと、紫苑はそれを心の中に留めた。


「――――茉莉花はよく微熱を出した。短気だからなのかな」


 朋香はそう話し始めた。




 あっさり休んでしまうと癖になってしまいそうだから、と茉莉花は学校を丸一日休むことは少ない。たしかに彼女の微熱は、授業を一つ休ませたり、時には早退させたりするけれど、登校日数は他の健康な生徒と大差ない。

 出会った小学生の頃から、茉莉花が休んだときに朋香はお見舞いによく行ったものだった。大抵はぐったりと寝込んでしまっているか、流行性感冒の類が感染してしまうのを彼女の母親が恐れて、会わせないかだった。

 つまり家まで行ったはいいが話せなかったり、顔を見るのもなかったりした。大事に至っていないが確認できればそれでいい、そんなスタンスだった。

 

 朋香が茉莉花に転校の件を明かして、半月後。

 九月の下旬に差し掛かる頃。茉莉花は例によって微熱を出したが、登校してこなかった。朋香はお見舞いに出向く。今までそうしてきたように。しかしその足取りはいつもとは異なる。あの日以来、どことなく気まずい空気が二人の間にありつづけている。いっそまた平手打ちでもしてくれたら、それを頬で受けてあげるのに、と朋香は思う。本気で。

 

 その日は玄関口に彼女の弟君が現れた。珍しい。どうやら今、家には彼女たち二人以外はいないらしい。しばらく会わないうちに、顔つきや体つきに男の子らしさが出ていた。最初に知り合ったときは、彼は小学校中学年で、服と髪さえ整えれば妹みたいになったのに。


「やっぱり来てくれましたね」

 

 弟君は朋香の姿を見て、そう言った。


「今、母さんたちいないんです。ちょっと頼まれてくれませんか? 僕、ちょっと用事があって外に出たいんですよ」


 弟君の余裕のある表情と飄々とした態度から、茉莉花の容態はそう悪いものではないのだとわかった。彼が頼んできたのは、姉の汗の始末、着替え等だった。


「茉莉花が私にそうしてほしいって?」


 朋香は、玄関で靴を脱ぎ、揃えながら訊ねる。

 私の到来は弟君でも予期していたのだから、茉莉花自身がしていないわけがない。


「ちがいますよ。あいつ、むしろそういうの朋香さんに頼むのは嫌がるんじゃないかな」


 それはそうかもしれないと思う一方、場合によっては不器用にお願いしてくるだろうとも想像した。


「実の姉弟でも、えっと……気まずいものなの? 裸を見たり、拭いたりっていうのは」

「家族だろうが、うちでは服を着て生活しているのが普通だから。普通じゃないところを見たり、したりっていうのは抵抗があって当然だと思いません?」

 

 なんとなく、鼻についてしまうというか、挑戦的な物言いは姉譲りなのだなと朋香は感じつつ「そうね、そうかもね」と返しておいた。茉莉花の裸体が実弟である彼を性的に魅了するかどうかなんて、興味はなかった。

 それならなぜ訊いてみたのだろうと自問する。何か普通ではない答えを少し期待したのかもしれない。たとえば「俺はそんなのどうも思わないですけど、もしかして朋香さんは緊張するんですか?」なんて。


 弟君はあらかじめ用意していたのだろう、朋香にタオルや飲料を渡すと「着替えは、たぶんタンスやクローゼットを漁れば適当なのがあるはずですから」と彼や朋香でなくとも言える台詞を最後に、鍵を持って家を出ていった。

 言われたとおり、朋香は内側から施錠して茉莉花の部屋へと向かう。


 朋香は茉莉花の部屋の前まで来ると、控え目にノックをした。反応の有無は関係ない。とりあえずノックはする。そうしてほしいと、いつか微熱の茉莉花に言われた。それがマナーなのだと。

 ノックの音で起こしてしまったらと考えなかったわけではない。弟君からの頼まれごとを達成するには起きているほうが断然いいに決まっていたし、余程深く眠っていない限りは起こすつもりですらあった。「どうぞ」と声がして、いくらなんでも眠る彼女の服を脱がしてどうこうするのは……と朋香は進みかけた想像をなんとか振り切って、部屋へと入った。


「ごきげんよう」


 そう口にしたのはベッドの上の茉莉花だった。部屋に入った朋香を認めて、入る前から上半身を起こしていた彼女は非日常的挨拶で迎えてくれたのだった。

 熱っぽい表情。生気はある。


「その分なら、月曜日には来れそうね」


 朋香は持ってきていた学校での配布物等々を、茉莉花が学習する際に使用している机の上に置く。そして、弟君の頼みごとをそのまま茉莉花に伝える。「自分でできる」と恥ずかしげに言う彼女に、朋香は迷う。「ほら、タオル貸して。うつらないうちに早く帰りなよ」と彼女の機嫌が悪くなるのがわかる。


「着替えは? どこから取り出したらいい?」

 

 病床の茉莉花に全部任せるわけにはいかず、自分がしていいことを探す朋香。寝間着姿の茉莉花は運動着がある位置を口頭で伝える。


「下着はどこだっけ」

「……その右下。下だけでいいよ。どれでもいい」

「他に必要なものある?」

「ない。早く帰って」

「急かさないでよ」

「顔を見れてもう安心したから」

「茉莉花が?」

「おかしい?」

 

 病床に伏せば誰だって多かれ少なかれ気落ちするものだから、それはおかしくない。そうわかっていても、自分が安心したくてやってきた朋香としてはなんだか妙な感じだった。


「私も。身体はともかく、あとはいつもどおりの茉莉花で安心したたよ。ねぇ、やっぱり」


 私が汗拭こうか、と提案するつもりが茉莉花の「そんなことないよ」という呟きがそれを止めた。「え?」と朋香は訊き返す。何に対する否定?

 

 茉莉花が黙ってしまったので、朋香は手にもった着替え類を彼女のすぐ近くまで持っていった。無論、勝手に脱がすにもいかない。彼女は上半身を起こしたまま、なぜか目を瞑って考え事でもしている様子で沈黙している。朋香は立ちっぱなしでもいるのもひどく間抜けに思え、ベッドのそばにぺたんと座る。

 

 そのまま時間が過ぎていった。それは十秒ぐらいだったかもしれないし、五分ぐらいだったかもしれない。目を開いた茉莉花が朋香のほうを見た。脚のそこそこ長いベッドの上の病人と床に座った少女とでは、茉莉花の側が上だった。彼女の顔を下から目にするのは新鮮だった。立ちあがれば逆転してしまう関係。「朋香」と茉莉花が名を呼ぶ。そうして朋香は彼女の瞳から逃れられなくなる。


「いつもどおりのわたしなんかじゃない。狂っちゃいそうなの。早く出ていって」


 掠れた声で茉莉花が訴えかけてくる。

 朋香はなぜだかいっそう愛おしく感じた。

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