22 友達のままでいてほしいと少女は願う

 七月下旬の夕方前は十二分に暑い。木陰が日除けになっていたとしても、じんわりと汗ばむ。

 

 茜のたとえばの話は紫苑の耳に届いていたが、紫苑がその内容を理解するまでには時間がかかった。そして理解できても、茜の意図は掴めなかった。茜の顔をまじまじと見つめ、そこに冗談めいたものを探した。

 たしかに茜は時折、真顔のまま冗談をさらりと言ってのける。だったら笑い飛ばしてしまえばよかっただろうか。


「今、なんて?」


 結局、笑わずに訊き返した紫苑だ。茜の表情は変わらない。彼女も笑っていない。


「あたしが、さ」


 茜はそこで一度口を閉じ、それから前を見た。隣の紫苑から視線をわざわざ外した。


「紫苑とキスしたいって、そんなふうに思っていたら。やっぱ、気持ち悪いか」


 さっきと言い方が微妙に違うじゃないの。

 紫苑は思ったことを口にしなかった。それが何も解決してくれないとわかっていたから。紫苑は確かめる。


「ねぇ、茜。それってつまり、誰かとキスするのに興味はあるけれど、かといってその好奇心を満たすためだけに、よく知らない男子に頼んだり、そのためだけに彼氏を作ったりするのは嫌で、だから友人である私に頼んだ。そういうことなの?」


 恋に恋する少女の知的好奇心、あるいは性的探究心のはたらきによって生じたもの。紫苑はそう解釈した。

 すらすらと、その合理的に思える見解を茜相手に流暢に提示できた自分を自分で褒めてやりたくなった。


「そうじゃない」


 短い返事には、紫苑の説を打ち消す力があった。かくして恋に恋する少女説は否認された。


「じゃあ、なによ」

「紫苑ならわかっているはず。なぁ、気持ち悪い?」

「なんでよ」

「あたしが紫苑のことをそういう目で見ていたら、気持ち悪くない?」


 茜の声が揺れた。

 紫苑はその横顔、もう見飽きたってぐらい何度も見てきたはずのそこに、痛ましさが浮かんだのを目にした。それでしかたなく、ふたり揃って前を眺めた。寂れた公園。汚れた遊具。蝉の鳴き声。うるさい。


 そういう目ってなによ。紫苑はそれが訊けなかった。わかっていたからだ。

 紫苑にとっても、そういう目で見ている女の子がいるのだから。


「……どうして私なのよ」

「なんでだろう。やっぱ、初めての相手だから?」

「は?」

「あれだよ、キス。でも、あのときはなんとも思わなかった。事故だった。紛れもなく」

「じゃあ……」

「響子が付き合い始めたのがきっかけだったかも。気づいちゃったんだよ」

「何に」

「あたしが紫苑を誰にも取られたくないってこと」

「けれど、それは友情の範疇よ。私はそう思う」

「そうだな。それだけだったら。女友達同士の嫉妬? あるよな。中学のときもあった」

「でしょ?」

「うん。でもさ、響子が彼氏とキスしたって話、聞いてずっと考えていたわけ。

 あー……いや、頭から離れなかった感じ。考えようってしていたんじゃなくて。自然と? どうしようもなく。思い浮かんだ」

「私との、ってこと?」

「うん。あたしが紫苑とそうするのを望んでいるって。それに他の誰かとはしてほしくない。なぁ、本音で答えて。あたし、気持ち悪くない?」

「気持ち悪くない」


 即座に答えた。何度も何度も、茜から出てくる「気持ち悪い」という言葉は、普段、ちょっとしたことに悪態をつく場合の「キモ」などとはまるで重みが違っていた。そんな直感や上辺だけの、思考を一切停止させた種の感情表現ではない。


「でもさ、あたし、正真正銘の女の子だ。こう見えて」

「そうにしか見えないわよ」

「見かけなんてどうでもなるだろ」

「あんたが言いだしたんでしょ」

「……紫苑だって、女の子だ」

「そうよ」

「あたし、女の子に恋している。

 友達面してきたのに、好きになっちゃっている。キスしたいって、本気でさ、そう思っている。もしかしたらそれ以上だって。おかしいよ」


 消え入りそうな声で茜は。


「茜は、あんた自身がその立場になるまでずっと、性的マイノリティーの人たちをおかしな人って認識していたの?」

「無関心だった。地球の裏側で飢えに苦しんでいる人と同じだよ」

「それは違くない?」

「いっしょだよ。周りにいなかったら、自分がそうでなかったら、自分に直接影響がなければ存在しないのと何も違わない。こういう考え方って、紫苑のほうが得意だろ」

「得意じゃないわ。物事をウェットよりはドライに捉えるようにしているってだけ」

「なぁ、紫苑」


 茜が紫苑の手に触れる。紫苑が膝上に置いていたその手を、紫苑を見ないまま、探るようにしてそっと彼女の手を重ねた。握りはしない、絡めもできない。ただ温度を感じたくて、浅くとも繋がりたくてその手が紫苑に触れたのだった。

 

「あたしじゃダメか?」

「どういう意味よ」

「紫苑が好きだ」


 茜が紫苑に向いた。それは察した。紫苑は顔を前に向けたまま。

 親友の視線を横顔で受ける。彼女を見つめ返してあげられない。


「友達のままじゃ嫌なんだ。あたし、紫苑の恋人になりたい。紫苑と特別になりたい」

「……もしも受け入れたら、茜は私にキスをせがむ? それとも強引に唇を奪う?」

「わかんない」

「そっか」


 紫苑は重ねられた茜の手を優しく握ると、そのまま彼女をようやく見て、そしてその手を彼女の膝へと乗せ直した。お行儀よく。紫苑の膝の上でもなく、手の中でもなく、その位置にあってほしいと紫苑は示した。

 手を離すと茜の顔がひきつる。


 紫苑は立ち上がる。額を拭うと、じっとりと汗を掻いていた。


「私の答えはこう。茜とは友達でいたい。あなたとは特別になれない」


 茜を見下ろして紫苑は彼女の望まない答えを与えた。

 

 そして茜に背を向け、数歩足を踏み出すも、一旦止まる。

 振り向くか悩んで、振り向かないまま言う。


「女同士を理由にフッたわけじゃないわ」


 そしてまた歩きはじめる紫苑。一歩、一歩、進みながらその神経は背後に集中している。もしも、と紫苑は思わずにいられない。

 

 茜が私を追いかけてきたら。

 

 もし仮に、私を後ろから抱きしめて愛を、さっきよりも深く囁きでもしたのなら、万一、私がそれに絆されてしまったのなら、そして想い届かぬあの子よりも、茜を選んでしまったのなら――――?


 紫苑は止まらなかった。

 二度目の停止は、終止符を打つことのように感じた。いくつかのことに。

 もう止まったらいけないのだと言い聞かせ、公園を出た。




「ねぇ、お兄ちゃん。

 茜だったら話していいかなっていう気に、なっていたのよ、私」


 紫苑は公園での出来事、一時間余り前にあった少女二人のやりとりについて話し終えると、僕の感想なんかを待たずに話題をずらした。


「西原さんに恋していることについて?」

「そう。前までは絶対話さないと思っていたわ。そうするべきではないって。

 でもね、気持ち悪く思われて、友達でなくなってしまうとは考えていなかった。むしろ、茜だったら『へぇ。なんか手伝おうか』ぐらい言ってくれそうだって、そんなふうに信じていたのよ。『いいじゃん』とは言ってくれなさそうだけれど、協力してくれるんじゃないかって。

 それはあくまで、私と朋香の間のことで、彼女は第三者で、つまりどこまでいってもただの友達。だからこそ気軽に、できる範囲で力を貸してくれそうなんて。あいつは、そういうやつなの。

 たぶん、一年の頃につるんでいた連中は知らないんでしょうね。茜って、私なんかよりずっとドライなの。友達想いってのはあの子を表すのに不適切な言葉なのよ。茜は居心地がいいと感じる場をいくつか作って、そこを転々として、崩れてしまえば、さっさと離れてしまう、そういう人間なのよ。

 そう、わかったつもりになっていたの。だからこそ、友達でいられた。気取らず、変に遠慮せず、仲のいい友人関係を築けた。

 今日、それが誤解だったって、わかった。

 公園から離れて、家に帰ってきて、蝉の声が聞こえないこの部屋で、私は自分が後悔しているのに気づいたわ。彼女の想いに応えられなかったことに、私は後悔してしまったのよ。でもだからといって、ねぇ、わかるでしょう? その後悔と今の私が茜を朋香みたいに好きになれるかは別なのよ。

 違うの。朋香に対する想いと茜への今抱えている想いは、どうしたって違うのよ」


 友情の域を出ることのない感情。ほとんど初めから友情の域に入らなかった感情。茜と朋香。

 もしもと僕が思うのは、ふたりのうち少なくとも一方が紫苑にとって同性ではなく異性であったら、話はもっと単純になっていたんじゃないかってこと。

 いや、とすぐに撤回してみせる。今だって複雑なんかじゃない。そこに性別は関係ない。

 三角関係があるだけだ。それだけなのだ。それをどうして男とか女とかの尺度で在り方を変えようとする。しなくていいじゃないか。


 異端が在るとすれば、それは僕だ。

 紫苑の相談する相手として僕の存在は適切な自信がなかった。それを決めるのは紫苑自身であり、現に僕を相手として選んでいるのだけれども。


「お兄ちゃん?」

「どうした。聞いているよ。ぜんぶ、聞いていた」

「参考までに意見を言ってみて。私と茜は友達として、これからも過ごせると思う?」

「すぐには無理でも、できると僕は思う」

「つまり?」

「紫苑にその気があって、新堂さんにもそういう気持ちがあれば、というよりそういう気になれば、友達でいられるんじゃないか。

 恋が冷めて友情に変わることだってあるはずだ。新堂さんの場合、話しぶりからすると、紫苑に一目惚れしたってふうではないし」

「でもね、お兄ちゃん。一度フラれたからって、それで諦めない子だっているわけでしょ」

「紫苑みたいに」

「そう」

「たとえば、新堂さんが明日以降、それまでの関係を投げ捨てて紫苑を求めにきたのなら、周囲がざわつく程度に紫苑に愛を叫んだら、どうする?」

「どうしよう」


 茜はそんなことしない、とでも非難されるかと思いきや、そうではなかった。

 紫苑はまだまだ惑いの中にいたのだ。僕は誰をどう応援したらいいか悩んだ。もちろん、紫苑が幸せになるのが一番だろう。僕にとって、兄としての役目として、それを優先しないわけにはいかない。

 片思いで渋滞するよりも、紫苑と茜とが結ばれるのがハッピーなエンディングとなるのではとそう想像してしまった僕がいる。現実にエンディングはないのだから、仮にその二人が交際し始めて愛を育んだからといって、何もかもがうまくいく保障はないのだが、このままだと誰も幸福でないのはわかる。誰一人もだ。


「どうしたらいい?」

「紫苑がしたいようにしかできない」

「茜を傷つけたくない。偽善者かな」

「嘘つきだよ。だって紫苑は新堂さんよりも大切に想っている人がいる。その人を振り向かせるのに、新堂さんの涙が必要だったら、紫苑は諦めるのか」

「必要なの?」

「避けられない過程であって、それが要るってわけじゃないかも。というより、既に新堂さんは傷ついているはずだろ。紫苑は彼女の告白を保留もせず、その場で断ったんだから」

「私は嘘つきだけれど、いつでも嘘をつける人間じゃない。あの時は、あの時の心にあったそのままを伝える、それが誠実であると信じたのよ」

「それならもう嘘つきはやめだ。新堂さんが明日以降、どう生きていくかってのは最終的に、ちがうな、最初から彼女自身の問題だよ。

 たとえば彼女に再び告白されたのなら、紫苑はもう一度同じことを言うか、あるいは西原さんへの想いを打ち明けて、新堂さんを一番にできないのを伝えるしかない」

「ねぇ、お兄ちゃん。ひどいこと言っていい?」

「それが必要なら」


 沈黙があった。でも、数秒後に紫苑はそれを破った。


「今日は聞いてくれてありがとう。私一人で考えてみる。そうしないといけないだろうから。最初から私の問題なのだから」

「それがひどいこと?」

「オブラートに包んでみたわ」

「僕は、べつに紫苑から役立たずと罵られたって、かまわない」

「私がかまうわよ。あのね、そうじゃないの。ただ……隣にいてくれたらって思ったの」

「誰が?」

「お兄ちゃんが。話し疲れたから、抱きしめるか、抱きしめてもらって、それで体温を感じて心を落ち着かせたくなった、それができたらって。でもね、私はお兄ちゃんには恋をしていない。それは間違いないのよ。天が回っているんじゃなくて、この大地が回っているのと同じで明らかなの」

「誰かを、都合のいい抱き枕か何かみたいに求めてしまったのが『ひどいこと』ってわけか」

「うん」

「僕だって、年上の癒し系でグラマラスな身体をしたお姉さんに甘えたいときがある」

「それは性欲じゃないの? だとしたら本能なのだから抗い難い欲求で、言い換えれば不可抗力でしょう? そこで道端の人を襲っていたら牢獄行きだけれど」

「紫苑のは違う?」

「少なくとも性欲でない。えっと、だ、抱きしめられたいってそういうアレじゃないから。他の行為を伴う、遠回しな言い方じゃないからね」


 そして僕らはどちらからともなく、電話を切ることにした。

 距離が限りなくゼロに近く思えたのは幻覚で、実際にはあまりにも遠い。

 僕は紫苑を抱きしめる自分をイメージしてみる。そこに性欲が入り込むかどうかを考えてみる。

 どうだろうな。それってきっと選べない。

 

 



 紫苑が朋香から、茉莉花の話の続きを聞いたのは、彼女たちが夏休みに入って二日目のことだった。

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