21 少女はたとえばの話をする

 きっかけがどこにあるのかと言えば、あの高嶺の花のおっとり美人こと、松島響子が彼氏とキスをしたのだと、紫苑たちに報告したことにある。

 

 そもそも響子がその彼と男女交際をし始めたのは、六月半ばだった。

 紫苑が朋香がプラネタリウムに行き、そこで紫苑がその想いを告白する前に拒まれてしまった数日後であったそうだ。その日の昼休み、浮足立つのを隠せていない面持の響子に茜が「なんかいいことあったの?」と聞き、響子が打ち明けた。その場に朋香はいなかった。

 

 言わずもがな、紫苑は朋香との一件でその心中たるや穏やかでなく、友人たちに察知されないようにいつもの紫苑を演じるのに腐心していた。

 そんな紫苑に対して、響子は別方向でいつもの彼女でなかった。茜曰く、ちらちらと向けるその視線の先には例の彼がいて、その彼は響子のそれに気がつけば爽やかな笑みを返してくる、そんなのが一日に何度もあったのだとか。

 

 釣り合う、釣り合わないの話をあえてするならば、響子の恋人であるその男子は女子にとっていわゆる王子様であった。熱狂的な信者こそいなかったものの、確かな人気があり、一年生のときは十人に及ぶ乙女が彼の心を奪わんと奮闘するも交際を断られたと聞く。

 情報源は、他でもなくその彼と結ばれた響子、もっと言うと、浮かれ気味の彼女であったが、針小棒大に話す癖というのは彼女にないので事実なのだろう。

 

 茜も、そして紫苑も「おめでとう」と素直に祝った。それから茜たちが積極的に問わずとも、響子は彼との交際に至った経緯を説明し始めた。しかし紫苑はそれを後になって思い出せる程度に耳を傾けられはしなかった。

 ようするに、傷心中であった紫苑にとっては友人の色恋、しかも明るく、華々しい、輝かしくもあるそれを共有されるのは酷だった。


 響子がその彼氏とキスをしたのを明かしたのは七月半ば。一週間前のことである。

 それもやはり昼休みのことで、そのときには朋香もいた。紫苑を気遣ってなのか、昼休みに食事をしばらく三人と共にしなかった彼女を誘ったのは、紫苑である。

 僕と海へ行った日を境に、紫苑は朋香と向き合い直した。よそよそしくなんてなってたまるかと自身を鼓舞して、さりげなく距離を置く彼女を、半ば強引に誘っていっしょの時間を作った。紫苑とふたりきりならともかく、昼休みに茜や響子たちを加えて四人で食事をしながら歓談をすることを朋香は甘受した。

 ただし、とここで補足しておかねばならないが、紫苑はまだ朋香に紫苑自身についての告白をしていないし、朋香から茉莉花の話の続きを聞けてはいなかった。


 響子のキスに話を戻す。四人での昼休みに。

 茜が「それってファーストキス?」って聞くと、響子は首を横に振った。ほんのりと顔を赤らめて。響子は中学生の時に年上の彼氏がいて、キスまではそのときに済ませているらしかった。茜は別段、驚きもせず「へぇ」とだけ言っていた。響子ならさもありなん、とその場にいる皆が思った。清楚や清純という表現がぴったりの響子であったが、人好きのする可憐な彼女に今まで恋人がいないほうが不自然だった。

 紫苑が友達になってから知ったとおり、彼女の素というのが、上品で奥ゆかしいだけではなく、笑う時には笑う、人懐っこい面があるのだから、なおさら。

 

「あたしは紫苑だったけどね」

「え? 茜ちゃん、それってどういうこと、」

「ファーストキスの相手」


 紫苑は絶句した。絶叫しなかったのが奇跡だった。


「茜、早く撤回して。響子、そんな目で私とそこの嘘つきを見比べないで」


 それから朋香、と紫苑は続けられなかった。怖くて彼女を見ることができなかった。茜が正しく事情を説明しないならば、必死に紫苑が話さなければならない、朋香に対しても、もちろん。

 

「まぁ、事故みたいなものだけれど」


 茜は紫苑のきつい口調を全然気にしていない様子で、さらりと受け流した。


「みたい、ではなく事故。それに茜。あんた、あれが初めてってことないでしょ」

「は? なにそれ。あたしが誰とでもそういうことするやつだと思っていたの」

「ち、ちがうわよ。どうしてあんたが急に怒るのよ。怒りたいのは私よ」

「じゃあ、怒れば」

「なんでよ。はぁ…………。いい? 響子、朋香。その、ええっと、つまりさ、転んだ拍子に、うまいこと、いや、まずいことに、私とそこの不機嫌になっている女の子と、唇同士が当たったのよ。一年前ぐらいの話。それだけ」

「わーお。少女漫画だね」

「現実だって。それにしても紫苑、ひどくない? あの時だってあたし、初めてって言ったのに信じていなかったんだ。そうなんだ。ふうん」

「それこそ嘘よ。あの時はノーカンだってはっきり言い合ったでしょ。事故だから、こんなのカウントしないって。あんたもそうだねって納得していたじゃない」


 事故だから。

 本当は、そのとき「女の子同士だから」とも取り繕ったのは紫苑だったはずであるが、それを紫苑は口にしなかった。できなかった。おそらく朋香がその場におらずとも、そして万一、紫苑の初恋が過去になっていたとしても、紫苑が同性に恋をした事実は揺るがないのだから。


「それに……」

「それになにさ。あたしがそんなに男遊びしていたと思っていたの?」

「そ、そうじゃなくて。ただほら、モテるでしょ茜。響子とは違う層に」

「モテてないって。フられたんだよ、それはあんたがこの中じゃ一番わかっているでしょ」


 紫苑と茜が仲良くなった出来事は、たしかに茜の失恋である。

 それは紫苑だって知っている。けれど、茜がいわゆる高校デビューしてその失恋に至るまで、スクールカースト上位の女子連中と取り巻きめいた男子と共に日々を過ごしていたのも事実で、紫苑としてはそうした男女の日常には、てっきりキスぐらいなら平然とあるものだとみなしていた。それ以上の肉体的接触があったかまでは考えないようにしていたが、とにかく茜には相手がいくらでもいた時期はあった。

 

 それに、と紫苑が言い足した「モテる」というのは、現在の状態も意味している。

 茜はそのスタイルを変えた今でも、むしろマイペースな茜らしさを得た今だからこそなのか、変に気取らない、媚びない、いたずらに誰かを虐げない、そんな彼女に好意を寄せる男子は何人かいる。容姿が整っているだけではないのだ。

 そして実際、紫苑が稀に、親しくない男子に声をかけられるときは、決まって茜との橋渡し役を頼まれる。断っているのは、紫苑が間を取り持つのが面倒なだけで。それに尽きる。本当に茜と友人、そして恋人になりたいのなら最初から自分で直接声をかけるべきだと紫苑は思う。それが正当なのだと。


 響子と朋香は知らなかったのだろう、茜が自身の失恋を告白したことでふたりは、気まずそうな表情をした。かなり。

 響子は今しがた、付き合っている彼氏とのキスを報告した場面である。朋香としては、少し前に紫苑をフッている。それは気まずいだろうなと僕は笑ってしまいそうになるのを堪えた。傍からそのワンシーンを切り取ってみればコメディでもあった。


「悪かったわ。ごめん、茜。ただ……いきなり、あんなこと言わなくていいわよね」

「あんなことって?」

「はぁ? こっちが折れて謝っているのに白を切らないで。キスの話よ。響子たちを置いてけぼりで、昔の事故の話を持ち出すなんてどうかしているわ」

「まぁ、それはそうだ。どうかしていた。ごめん、響子」

「ふぇっ?! わ、私はべつにいいよ。えっと、うん、友達同士だから、逆に茜ちゃんのことを知れてよかったなって! 逆にね!」


 教室内で取り乱すことが少ない響子が慌てている。周囲の子たちの目に着かないといいけれど、と紫苑は不安がる。もしも颯爽と例の彼が現れでもしたらと。

 しかし彼は昼は学食に男友達数人と行っているらしくその心配はいらなかった。もとより、昼休みの教室内に多くの目と耳があったままなのであれば、いくら高揚感に包まれている響子でも彼氏とのキスを報告しないのだろうが。


「あっ、そうだ。茜ちゃんたちに男の子、紹介しようか? な、なーんて。彼が言うには、三人とも人気あるみたいよ?」


 紫苑たち三人よりも間違いないなく人気があって、彼氏持ちの響子が愛想よく提案する。


「いや、いい」


 茜が即座に却下する。

 それから「どうする、紫苑たちは」と紫苑とそして朋香を見やる。


「私もいい。興味ない。…………とっ、朋香は?」

「私も遠慮するね。ありがとう、響子。それと、おめでとう。言いそびれちゃっていた」


 朋香が微笑む。四人集まると、ほとんど聞き手になってしまう彼女が落ち着いた声で、紫苑が期待したとおりの返答をしたことで、紫苑はついつい朋香に見蕩れてしまった。が、それを自覚するとすぐさま視線を外して、平静を装った。

 そうして話題が変わり、昼休みはそのまま終わった。




「どうしてその流れで、新堂さんから告白されるんだよ」

「わかんないわよ!」


 訊ねる僕に、電話の向こうの紫苑が喚く。

 あの茜が紫苑に友情で片づけられない、特別な好意を抱いていた。それを紫苑は信じられないようだった。たとえ紫苑自身が朋香にそういった想いを抱き続けているといっても、それは別の位相にある事柄で交わりはしない。


「それでどんなふうに、新堂さんに告白されたんだ?」

「話すわよ……そこから話すべきだったんでしょ、本当なら。わかっているのよ、それは。でも……」

「でもはいいから、さっさと話せよ。それは今日のことなのか?」

「そう、今日よ。一時間前。帰り道、あいつと二人だったの。それ自体は珍しくはないけれど、学校を出る前から様子が変だった。ううん、朝から? いや、もっと前から? それでまぁ、最終的にはさっき話した昼休みまで遡ってみたのだけれど」



 

 七月下旬の午後五時過ぎは明るい。夕闇の気配は一切ない。よく晴れた空、澄み切った青に、星は見えない。茜が紫苑に「寄り道していかない?」と口にした。どうせカフェや本屋、そういった類かと思いきや、公園だという。

 学校から最寄り駅までの道中で、公園というと脇道に入って進んだところにある寂れた小さな公園しかない。高校に入ってしばらくしてから、なんとなしにルートを変えて駅へと向かっていたときに発見した場所であり、紫苑にとって、そして茜にとっても思い出がある場所ではない。ましてや二人で思い出を紡いだ公園ではない。


「なんか飲む?」


 蝉たちがうるさく鳴く公園に着くと、古ぼけた風体の自動販売機の前に立つ茜が、薄汚れたベンチに腰掛ける紫苑を振り返って訊ねた。


「茜の奢り?」

「あー……ま、いっか」


 そう言いつつ、自分の分さえ買わずにそのまま自動販売機から離れ、ベンチに近寄る茜。紫苑の隣に腰掛けて、ぼんやりする彼女に「どうしたのよ」と紫苑が訝しむ。

 こんな暑い場所やめて、駅構内で涼めるところを探せばいい。


「あのさ、紫苑」

「うん」

「たとえばさ」

「たとえば?」

「そうそう。たとえばの話」

「なによ」


 横顔を向けていた茜が紫苑を見つめる。平日は、合わせないことがない顔だ。

 小首をかしげる紫苑に、茜は「たとえば……」ともう一度言う。


「あたしがキスしたいって言ったら、してくれる?」


 一瞬、蝉の鳴き声を熱風と彼女が浚っていった。

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