20 少女たちは海を去る

 朋香が茉莉花との恋を紫苑に告白したその日。

すなわち紫苑が朋香の前で泣きだした日。 

 

 紫苑は落ち着きを取り戻す過程で、何度か「一人にして。先に帰って」と言いそうになった。一人にしてほしい気持ちは嘘ではなかったが、その場に限っては真実とも呼べはしなかった。なぜなら、紫苑は朋香に傍にいてほしいのだから。だからだろう、結局、紫苑が泣き止むその直前で口にしたのは「嫌いにならないで」という台詞だったのだ。


 朋香はそれに何も答えなかった。紫苑はもう一度、彼女に懇願していた。


「朋香……私を嫌いにならないで」


 誰が誰をとはっきりさせた。

 ようやく終わりがみえた涙なのに、そうやって願いを彼女に届かせようとすると、また溢れてきそうになるのだった。


「好きになれなくてもいいの」


 それが朋香の返答だった。

 問いかけであるはずなのに、それは独り言めいていた。紫苑の要望が、必死の祈りがかすれ声のせいで、やはり呟きに近かったのと同様に、その朋香の返事もまた目の前の相手に向けられたものにしてはベクトルをほとんど失っていた。


 好きになってほしい、もしも自分が朋香を想うほどに彼女も応えてくれるなら、いっそう強く、深く愛してくれるのならそれは幸福だと紫苑は思う。

 

 はそう思う。だが、その時の泣く紫苑にはわからなかった。

 頭が回らなかった。どうして朋香は自分の要求に適切な回答をよこしてくれないのかと不満すら抱いた。

 嫌いにならないでと求めているのだから、「なる」か「ならない」のどちらかでいいではないか。紫苑は気持ちを整理する必要があった。それは彼女自身が最も理解していた。むしろそれしかその時は了解していなかったのだ。後はすべてが混沌としていた。そもそも泣いてしまうつもりなんてなかったのだ。

 

 紫苑が泣き止み、二人で店を出たのは、そこからさらに半時が過ぎてだった。

 二人で店を出て、黙ったまま別れた。また学校で、とすら言えなかった。




 

 仄かにする潮の匂い。

 紫苑は僕に話し終えると、立ち上がった。


「日陰でも暑いね。そろそろ帰らない?」

「紫苑がそう望むなら」

「お兄ちゃんはもっとここにいたいの? 干からびるわよ。そうしたいなら、そうすれば」

「泣きたいなら泣けよ」

「もう泣いたわよ、充分に」

「これからどうするつもりなんだ」

「さっき言ったとおりよ。朋香から茉莉花さんの件を聞く」

「それを彼女が拒んだら?」

「心変わりして、完全に秘密にしておくのを選んだらってこと? そうね、そうならない保証ってなね。でも、私にも手がある。ううん、きっとこれが正しい、在るべきやり方なのよ。何かわかる?」


 朋香からさらに茉莉花の話を聞きだす奥の手、ちがうな、正攻法として紫苑がみなしている手段。それは何か。僕は逡巡する。素知らぬふりをするか、頭にこれだと浮かんだものをそのまま明かすか。


「――――紫苑自身についても告白する。愛の告白ではない、別の告白。そうなんだろ?」

「そのとおり。よくわかっているね」

「まあな」

「ねぇ、朋香はどんな反応をするかな」

「正直に言っていい?」

「うん」

「仮に紫苑が推測したように、茉莉花さんが亡くなっていて、つまり西原さんが大切な人を過去に喪っていたとする。そしてその点では紫苑が同じ境遇にあるのだと彼女が理解してくれて……それでも、西原さんが同情や共感以上、いや、それとは異なる愛を、紫苑が欲している愛情を与えてくれるかは別だ。つまりさ、西原さんに対して過去を話してみることで、あたかも対等な関係になり得たとして、それは恋愛成就を約束しない。新しいはじまりにはなる……かも?」


 やれやれといったふうに紫苑が溜息をつく。


「そこは言い切りなさいよ。私が朋香に私自身について話すのが、ふたりの関係を新たにする道の最初の一歩になるんだって。信じなさいよ。はぁ……朋香がどんな反応するのかって訊いてみただけなのに、どうしてそういう答えが返ってくるんだか。気を利かせたつもり? 悪くはないわ。でもよくもない」

「よかった」

「よくないって言っているでしょ」

「また泣かれたらって、不安だったんだよ。あの日みたいに」

「勝手に思い出しているんじゃないわよ。言ったでしょ、もう充分泣いたって」

「よし。それじゃあ、戻ろうか。海をどれだけ眺めたって、潮風にどれだけ吹かれたって、どうにもならないことのほうがずっと多い」

「帰りにアイス買って」

「まだ六月だ」

「だからなによ。コンビニだったら一年中売っているし、今日は暑いわよ」

「お気に入りのスカートが汚れるといけない」

「汚さずに食べるわ。当たり前じゃない」

「人は傷つかずに生きられはしないものだ」

「それはそれ、これはこれよ」


 そうして僕らは海を後にする。

 アイスは奮発して高いカップアイスを買ってあげた。

 

 もしかしたら、とこれまでにも何度かあった予感がまたよぎる。

 紫苑はもう僕に電話をかけては来ないんじゃないかって。

 僕は朋香と彼女がどういう関係に収まるのか、興味がある。興味しかないとも言える。「進展があったら報告してくれよ」との言葉は飲みこんだ。彼女とは違って、安い棒アイスをかじりながら、その冷たさと共に内側へと流し込んだ。




 紫苑と海辺を訪れてから一カ月が経った。

 

 八月を前にして、最高気温は摂氏三十度を超え、扇風機では心許ない。一人暮らしの部屋で、冷房をガンガンに利かせていれば電気代が跳ね上がるので、僕は大学の附属図書館で一日を過ごすことが多くなった。

 長めの夏休みを前に、レポート課題に追われもしていたので、どっちみち図書館に籠りがちではあった。勉学を除けば、数少ない友人と共に昼食や夕食を摂ったり、専ら友人宅に出向いて映画やアニメ鑑賞したり、気が向けば一人でカラオケにもいった。歌は下手だから、数人で行く気にはなれなかった。ただのストレス発散、息抜きだ。

 

 心躍る出会いは残念ながらなかった。

 図書館の中でさえ、そういう淡い期待を純真にしていた僕であったが、一切なかった。受け身になっている時点で負けなのだろうか。

 

 春ごろにまさしく大学デビューといった雰囲気の、似たり寄ったりの恰好をしていた一年生の女の子たちは、夏を前にしても、僕からすれば似通った服装ばかりで、顔立ちだって見分けがうまくつかなかった。取り立てて美人、あるいはその逆でない限りは驚くほど似たような顔をしていた。髪型も髪色も含めて、そうだから当惑してしまう僕がいた。

 

 誰か特定の個人と仲良くなれば、その子をすぐに見分けられ、区別ができ、特別に想う日も来るのかもしれない。


 試しにと女性同士の恋愛小説を一冊読み終わって、図書館に返却した帰りのことだった。

 偶然出くわした数少ない友人の友人から、僕相手に、オープンキャンパスのアルバイトの話が振られた。顔見知りだったが、互いにすぐに名前が出てこなかった。それがかえって、打ち解ける要素となった。ぎこちなく笑い合って、少し話した。それでアルバイトの話を聞いたのだ。

 

 僕の大学のオープンキャンパスは七月下旬から九月末あたりまで定期的に開催されており、申し込みの多い時期にはスタッフの数もそれなりに要するのだという。

 一介の学生が大学側の責任ある立場になれないから、すべてを学生スタッフが受け持つわけではないが、学生主導の組織が大学側教職員と打ち合わせをしてプランを立てている。

 

 中野はまともそうだから。

 彼が僕を誘った理由がそれだった。否定こそしなかったが、褒めてはいないよなとは思った。

 

 使えるお金が多いに越したことはない。

 仕送りをしてもらっている身で、贅沢するのも気が引ける。とくに電気代のかかる夏と冬には。そんなわけで、僕は友人の友人からの誘いに乗り、そのアルバイトをすることになった。

 自然と顔を浮かべたのは、紫苑だった。彼女の志望校をきちんと聞いてはいないが、僕の通っている大学は、県内の四年生国公立大学では最も有名であるから選択肢にあってもおかしくない。この田舎から離れて都会に身を寄せる考えがあるなら、それでいいが。



 

 その数日後、七月下旬を迎え、紫苑から電話があった。

 午後六時前で、彼女からの電話にしては早い。しかも事前にメッセージ等で電話していいのか確認なし。その日の最後の講義中であったから、応答できずにいた。講義後、残されていた留守電を聞いてみると「時間が空いたら、連絡して」とあった。その声にあの時に感じた悲痛はなかったが、しかし歓喜の色もなく、もしかすると本当にオープンキャンパスや進路相談かもと見当をつけながらかけ直したのだった。まだ紫苑からの着信から十五分しか経過していない。


「あ、お兄ちゃん? また寝ていたの?」

「講義中だった。何の用? ――――進展があったのか」

「それが……」


 言いよどんだ紫苑の次の声に耳を澄ます。そこに何か見つけようとする。

 果たしてそれは間を置いて降ってくる。


「告白されたの」

「えっ」

「好きだって言われた、に」


 僕らはそれぞれの惑いの中にいた。

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