19 少女は恋慕われていると確信した
毎日見ていたら嫌でもわかる。
茉莉花からそう言われた朋香は、毎日は会っていないよねと言うのを憚った。
それが屁理屈であるのはわかった。今重要なのは、彼女が自分に常日頃から関心を寄せている人間であり、それによって些細な変化に気づいたということ。つまり、父の転勤の都合上、進級に合わせて転校するのを強いられた朋香の動揺、それを比較的親しい間柄の人間には早めに明かしておきたいという気持ちに。
他に誰もいない空き教室。
始業式を経て帰りのHRが終わり、生徒が次々に帰っていく足音が廊下からするそこで、茉莉花と朋香の二人は向かい合って立っていた。平手打ちをかまそうとしたくせに、いきなりしおらしくなって、いじけた顔をしている茉莉花。何度も見てきたその表情がその日は妙に朋香の心をくすぐる。
「ねぇ、茉莉花」
「なによ」
ぶっきらぼうだった。それに構わず朋香は続ける。
「そんなに私、顔や態度に出ていた?」
そう、そこが肝心だ。
果たして茉莉花は首を横に振った。誰もがわかるような、あからさまに態度に出ていたのではないのだ。とはいえ、隠していたのではない。朋香にはまだ実感がなくて、悲しさや寂しさを全面的に押し出すのはかえって不可能であったぐらいなのだ。
それなのに………。
「すごいね、茉莉花」
「べつに」
「ううん、すごいよ。あのね、さっき一番に相談してほしかったって言ってくれたから、そのとおりにするよ。そうだね、よくよく考えたら、茉莉花とはもうなんだかんだ長いもんね」
そうして朋香は親友の一人に自身の転校を打ち明けてしまおうとした。
「あれ―――」
なんとも間抜けな声だった。
朋香ははじめ、それが自分の発した声だと気づけなかった。
そしてぎょっとしている茉莉花と、滲んでいく視界をして、自分がひび割れた水槽のようにどんどん涙を外に外にと流しているのを理解するのに、時間を要した。
「なに、どうなっているの」
そんなふうに慌てだしたのは朋香ではなく茉莉花だった。
スカートのポケットからハンカチを取り出し、朋香の目元に持っていった。大丈夫、とは口にできなかったが、茉莉花の善意を手でやんわりと拒んで、朋香は自らの手の甲で涙を拭う。
音の無い錯乱に襲われた朋香を、茉莉花が抱きしめた。かける言葉が見つからないから、そうするしかないという雰囲気だった。
朋香の崩れかけの膝は、二人の身長差を埋めるのに役に立った。そのときでなお、朋香は何もまともな言葉を口にできずにいた。茉莉花に対する、あるいは自分の理性に対する働きかけ、それは浮かんでは泡のようにひとつ残らず消えていった。
誰か他の人が来たら、もしこの光景を目にしたら、といった仮定に思考は及ばなかった。幸いにもそれは実現にも及ばず、茉莉花は朋香自身が彼女をそっと引き剥がすまで、抱きしめ続けていたのだった。朋香は両腕をだらんとさせていたから、その抱擁はあくまで一方的でしかなかった。
茉莉花がその服や髪、肌から仄かに漂わせている香り、朋香はそれをなぜだか懐かしむと共に、指でつまむのを躊躇う細く鋭い針のような劣情を感じた。それが確かに胸をチクリと刺したときに、朋香は茉莉花の柔らかな胸元からやっと離れたのだった。
「私、二年生からは別の学校に行くんだ」
茉莉花に自分の掠れた声が届いたのが、彼女の表情からわかった。
「茉莉花と離れ離れになっちゃうんだ」
そこまで話すと、朋香は紫苑に向かって言う。
「開けた視界に飛び込んできた茉莉花の表情。私から半年後のお別れを告げられた彼女の顔。ねぇ、紫苑。想像しなくていいんだよ。それはね、あのときあの天文台であなたが私の腕を掴んだときと似ていた。信じられる? 私は信じられなかった。今、口にしてみてもまだうまく信じられない。まだ話したいことはあるけれど、とりあえずの答えとしては、私――――茉莉花とあなたを重ねてしまった。
それはあの日だけじゃないけれど……とにかく、私を抱きしめてくれた茉莉花、涙を拭おうとしてくれた彼女が、私に特別な気持ちを抱いているんだって気がついた。
ねぇ、聞こえた? 今、私とんでもない自惚れたことを言ったよね。でも、私はそのときそう感じたの。友情とは違う、特別を彼女が私に感じているのだって。そして同時に、私も茉莉花のことが好きだって、愛しているんだって、気がついてしまったの。とうとう。あのね、こういうのって惨めだよ」
惨め。
僕はその朋香の言葉を紫苑を通して今、聞いた。
潮風に身震いした。急に怖くなった。無茶苦茶だと思った。
どうして朋香は、紫苑相手に想い人との馴れ初めらしき話をし始めて、それをどうして紫苑は淡々と語り、どうして僕はそれを夏の海辺近くの日陰に座って延々と聴いていないとならないのだろう。
雨の日、花屋での遭遇。
朋香はそのときロイヤルミルクティーなんてものをよそにして、紫苑に話し続けるほか何もできなかったし、紫苑はその回想を精神を研ぎ澄まして、吐き気を催しながらも聴くしかなかった。
それから、紫苑はその日の記憶をたどって、僕を相手に朋香の話を再現し続けている。
この奇々怪々な伝言ゲーム、記憶の迷宮にゴールはあるのだろうか。僕は戦慄する。半分は暑さのせいなのかもしれなかったし、そうであったほうがいい。
惨め。それは本当なら誰にあるべき言葉なのだろう?
回想は続く。
朋香は茉莉花に、近いうちにみんなで集まってそのときに、なるべく安らかに、笑顔で転校を告白する旨を伝えた。それを聞いた茉莉花は彼女自身に苛立つかのように唇をしばらく強く噛んでいたが「わかったよ」と最終的には理解を示した。
朋香はその強く噛みしめられた唇に、自分が強く魅せられてしまっていて、あけすけな言い方をすれば、そこに自分の唇を重ねてしまいたい欲求に駆られていた。そのことに羞恥した。
そのように世界は一変していたのだった。
友情と呼べない気持ちをもはや無視できなくなっていた。
朋香の赤面は涙の跡で秘匿され、余裕のない茉莉花がその異変を指摘するには至らなかった。二人で空き教室を出て、帰ることにした。
背中を見せ、朋香を置いて歩き続ける茉莉花に「ごめんね」と朋香は口にした。「なにが?」と彼女は振り返らずに言う。朋香はそれには応じられず、自分を置いて、どんどん遠ざかっていく彼女を止められはしなかった。
朋香が下足箱から外履きを取り出す頃には、茉莉花は遠く向こう、校門の外側にいて、朋香が追いつくのを決して待っていなかった。
美術部の女の子には断りの連絡をした。これまでそれほど意識していなかっただけで、たとえばその美術部の子たちと茉莉花を悪しくも秤にかけてみればどちらに傾くかなんてずっとわかっていたんだ、朋香はそう思った。
彼女は夏を引き摺る九月を一人で進んでいった。
もう同じ場所にはいられなかった。
紫苑は僕に言う。
「そこまで聞いて、私は泣きだしてしまった。吐かなかっただけずいぶんましだと思う。涙には嫌悪感をあたりにまき散らす匂いってのはないのだから。もしも朋香が私の涙を認識できない程度に、彼女自身と茉莉花さんの物語を紡ぐのに夢中になっていたのなら、そのときこそ吐いてしまったでしょうね。
けれど、幸いにもそうはならなかった。朋香は醜く嗚咽をあげはじめた目の前の友人もどきに対して、話を中断すると、謝りさえした。そこで私は、気にしないで続けてと言えなかった。ただ、聞きたいと言う気持ちがゼロになっていたかというと、そうじゃないのよ。本当に。聞きたくないという、その拒絶反応のほうが大きくなったというだけ。落ち着いたら、やっぱり知っておきたい。そう思っているわ。
なぜなら……茉莉花さんとの思い出は、今の朋香を支え、彼女の人格を形成している紛れもないファクターであるのだから。ふふっ、また回りくどい表現になってしまったね。つまり、ねぇ、わかるでしょ? 私はまだ彼女に恋をしていて、だから、私は彼女をできるかぎり、理解したい。彼女を理解するうえで、確信していることがあって、それは茉莉花さんとの間にあったすべてを、そう、なるべくすべてを知らないといけないってことよ」
僕らのすぐ近くを茶色の羽をした蛾が飛ぶ。僕はそれを手で払う。触れたくはない。ただ、どこかへ去ってほしいと手で空を切る。
「紫苑は、彼女たちを知ることが西原さんを理解し、ありのまま好きになるのだと考えているってこと?」
「そう。そこに誤解が生まれても、たとえ幻想であっても、無知のままであるよりはいいと思う」
清々しいまでに紫苑は。
「でもさ、紫苑。西原さんは言ったんだろ。『その人との出逢いと別れ』って。それって、二人の関係性は転校によって物理的に絶たれている状態で、紫苑を通じて聞いた限りでは、両片思いのままなんだろう?」
なんだったら、今の時点では茉莉花が朋香を恋愛対象として見ているかもわからなかった。朋香は茉莉花の恋心が自分に向けられていると確信しているようだけれど。
「ねぇ、お兄ちゃん。どう思う? 茉莉花さんのこと」
「どうって…………西原さん以上に、わからないぞ、そんなの。情報が少なすぎる」
「ううん、そういう総体的な印象じゃなくて。茉莉花さんって生きているのかな」
「え?」
茉莉花が生きているかどうか? そんなの……。
「聞けなかったの。うん。聞けていないの。でも、朋香の話しぶり、その瞳に宿っていたあの色、あの憂い。私には茉莉花さんが生きているようには思えない」
そうだとすれば、朋香は亡き人を想い続けていると話したことになる。
僕らは黙って見つめ合った。これまでにも何度かそうしてきた。
わからない。
紫苑が朋香に感じたそれが、紫苑側の事情によって作られたまやかしに過ぎないのか、それとも本当に朋香の想い人たる茉莉花は既にこの世にいないのか。
そして、もし仮にそうだとして、紫苑は死人から朋香の心を奪えるのか。それを切に欲しているのか。
彼女の初恋の行く末はまだ霧の中だった。
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