18 少女は想い人の過去に触れる

 朋香は紫苑の期待とは裏腹に、その恋心について慎重に話した。

 

 慎重というのは紫苑なりの擁護であり、婉曲表現である。

 朋香は同い年の女の子に恋をした件について、その子が登場しない場面から話し始めたのだ。類は友を呼ぶとはこのことか、と僕は思った。まるで紫苑みたいに、朋香もまた遠回りに物語るのを好むか、あるいは運命づけられている種類の人間だったである。


 朋香が恋心を自覚したのは、転校の半年余り前、高校一年生の九月初旬だった。

 

 それは彼女の父親が、来年の春に転勤するのが決まったのを一人娘に伝えた日であり、朋香の小学生の頃から数えて十度目の夏休みが終わった翌日であり、猛暑の火照りが残る日のことだった。

 

 父親は仕事の関係上、夕食時には同席することが一カ月に一度あればいいほうだった。それに対して、朝食は慌ただしくもほとんど必ず家族全員と顔を合わせるように努めていた。その食卓にて朋香は転勤と引っ越しを伝えられた。

 朋香の父親は妻に、つまり朋香の母親には一足早くに伝えていたらしかった。

 

 口数は少ないけれど、甘すぎないほどに優しいお父さん。それでいて頑固で融通のきかないところもある。だけどね、と朋香が話すには、半年に一度ぐらいのペースで彼と朋香の母親とが口喧嘩になったとき、翌日か翌々日に降参してご機嫌どりに時間を割くのは決まって父親の側らしい。

 

「制服に着替えながら、私は突然のお別れを実感できずにいたの。その町は私が十六年近く生きてきた場所であったし、ようするに私のすべてだった。半年先の未来、別の町で生きる自分を思い描こうとしても、うまくいかなかったの。

 これをまずは誰に話せばいいのだろうって悩んだ。

 担任の先生主導のもと、クラスのみんなで自分の送迎会をするのを想像してもみた。たしか私が小学四年生にあがるときに、えっと、三年生のときのクラスでってことだけれど、人気者の男の子が引っ越すことになって、そういう送迎会があったなぁってね。

 そのときの記憶が妙にはっきりと浮かんできて、それで私は今の自分と彼の場合とを照らし合わせてみた。しんみりとしつつ、温かな送迎会をしてもらうっていうのを。……ないなぁって思った。私は人気者でなかったし、みんなに泣いてもらえないだろうし、私も泣かないだろうなって。そのときの人気者の彼みたいに抜きんでたスポーツの才能はなく、私はただの地味な美術部員だった。クラスのみんなが私の名前を覚えているか怪しいような」


 その朝、朋香が学校に向かう際にリボンをつけ忘れているのを、彼女の母親が玄関で気づいた。その日は始業式だったから、必ずつけていかないといけなかった。

 朋香は部屋に取りに戻る途中で、髭を剃り終えたばかりの父親に声をかけられた。途中まで車で送るよと言われ、朋香は肯く。朋香が通っていた高校には、電車で二駅だった。定期を購入していたから、自動車での送り迎えはまるっきりなかった。父親と家を出るタイミングが合わないほうが多かったのもある。

 父が気遣ってくれているんだとわかった。転勤で、朋香が友人たちと別離することに負い目もあったのだろう。


 車内で朋香は父に訊く。

 自分はいつ誰に、転校する事実を伝えればいいのだろう、と。

 彼はひとまず事務的な部分、学校側への連絡はこちらで済ますと言い、それから「仲の良い友達には早めに知らせておいたほうが、双方が後悔しないでいいだろうな」と助言した。朋香は「そのほうがいい?」と訊ね返してみる。

 すると彼は普段の寡黙な父親らしからぬ諭すような調子で、言葉をつないでいく。


「もっと早く言ってくれればよかったのにって、なじられたくないだろう? 転校しようがしまいが、毎日がかけがえのない日々であるのには変わりないけれど、それでもこの先の半年は、朋香にとって大切だとお父さんは思う。笑顔でさよなら、いや、またねが言えるってのが幸せなんだよ。朋香の三倍生きているお父さんには、ここだけの話、その手の後悔だってそれなりにしているんだ」


 朋香は「その手の後悔」というのがどんな経験であったのか気になった。

 生まれてからずっと共にいる父親が過去にどんなお別れを経てきたのか、それはそのときはじめて関心を持つことだった。朋香はそれを自分の生きてきた世界とつないで「じゃぁ、お母さんとのことで後悔ってある?」と訊いた。

 

 彼女としては「ないよ」と即答してくれると嬉しかったのだが、彼女の父親はそこまで娘の気持ちを読み取れはしなかったし、なにより誠実だった。彼は難しい顔をした。朋香はその横顔に不安をよぎらせたが、しかし次の瞬間、ふっと笑みを浮かべて「あの高い圧力鍋を買うのに賛成したのは間違いだったかな。ここ一週間の夜食は煮物料理だから。美味しいけれど、お母さんの味付けはやっぱり濃いよ」と言ったので、つられて笑った。

 それはここ一週間の朋香たちの残り物で、夜遅くに帰ってきた彼が口に運ぶのは、味が染みるに染みた野菜や肉だったのである。

 美味しいけれどね、と念押しでもう一度言う父が愛しかった。

 そうして朋香は仲の良い友達にはとっとと転校のことを伝えてしまおうと決めた。

 父が言うようにそうするのが最善だと心から信じた。

 

 朋香には仲のいい友達が五人いた。女子四人と男子一人。

 

 唯一の男の子は、仲のいい女の子のうちの一人と付き合っている。朋香と仲がいいと言っても決してふたりきりで遊びはしない。どちらかと言えば聞き上手な朋香に、そのカップルはしばしば相談してきたものだった。別々に相談を持ち掛けられて、内容が同じものであったときに、朋香は微笑ましく思いながらも、対処に困った覚えがある。

 

 他の女子三人については、うち二人が美術部で、とくに仲がよかった。よく三人で休日も遊んだ。二人のうちの一人がサッカー部の男の先輩に恋して、結局、失恋してしまったときには二人で励ました。

 

 朋香は彼ら五人には早めに伝えておこうと決めた。後悔しないために。


 始業式は午前中に終わった。

 朋香は例の美術部の女の子二人といっしょに三人で玄関まで向かっていた。

 部活は休みだ。廊下を歩きながら、転校の件を明かすタイミングを見計らっていた。「うち来る? お昼どこかで買ってさ、うちで食べない?」と一人が言いだして、それも悪くないかなと朋香は感じた。その子の家では、歴史上の偉人の名前を冠したビーグル犬を飼っていて、もう二カ月は会っていないけれど、久しぶりに頭とか尻尾とか、顎とかお腹のあたりを撫でさせてもらうのは、悪くないなと思った。その犬に別れの挨拶とまでは考えてはいなかったが、穏やかな雰囲気の中で、転校について切り出してしまえば、あんまり悲しまないで済むだろうとは思った。

 

 朋香がいいねと賛同しようとした、まさにそのとき後方から彼女の名前を呼ぶ声が聞こえた。振り返らずともその声の主が朋香にはわかる。

 そしてその声の調子は、なぜだか苛立ちが含まれていた。


茉莉花まつりか?」


 朋香は半身を翻す。そして近づいてくる彼女の名を口にした。

 その東谷茉莉花ひがしやまつりかこそ朋香にとって、仲のいい友達の最初の一人であった。

 美術部員でもないし、男の子と付き合ってもいない、帰宅部の女の子。

 

 神出鬼没、そんな四文字が頭に浮かぶ。

 彼女がいつから自分の後方にいたのかと朋香は訝しんだ。「ちょっと」と茉莉花が朋香の手をぐいっと引っ張る。どうやら用があるのは朋香のみで、しかも他の子がいないほうが都合がいいみたいだった。

 朋香は落ち着き払った態度で「後でお邪魔になることになったら、連絡するね」と犬飼いの女の子に言う。その子は「ああ、うん」と戸惑いながらも肯いてくれる。その間も茉莉花が朋香の腕を掴む力は緩まない。

 

 その茉莉花という女の子は朋香のクラスメイトであったが、朋香以外の友人はいなかった。


「急にどうしたの?」


 二人から離れ、空き教室の前で朋香は茉莉花に訊く。

 手は離してもらった。自分よりも身長が十センチほど低い彼女が自分を見据えている、いわば睨み上げているような状態に朋香は困惑する。


「どうかしたのは朋香なんでしょ」


 茉莉花は唇を尖らせる。

 彼女の色白の肌、その頬はどことなく赤らんでいる。照れや恥じらいではなく、憤りであるのを朋香はやっと察して、それでも再び「どうしたの?」とつい言ってしまう。

 すると茉莉花の長い睫毛が、眉間のあたりと連動してわなわなした。

 

 あ、まずい。

 

 朋香がそう思った直後に彼女から平手が飛んできた。朋香はそれを軽くいなして、涙目になった少女に「察しが悪くてごめんね」と平謝りする。

 その暴力と呼ぶには弱々しく急ごしらえの運動にも、そして流れ落ちてしまうことは少ないその涙にも、朋香は慣れていたのだった。


 生徒たちが次々に帰っていく。大方、楽しそうな顔ばかり。その日の最初は夏休みが終わったことをぼやいていたのが、今となっては正午前に下校できるのが嬉しくてたまらないといった印象だった。

 

 茉莉花は朋香を空き教室の内側へ誘った。連行した、が正しい。

 彼女は朋香に説明を要求する。しかしそれは朋香も同じだった。朋香は自分が彼女に何をしたのかがわからなかった。


「わたしに何かしたわけではないわよ。相談してほしかったの。あるでしょ、何か相談すべきこと」


 朋香はそこで自分の転校の件に思い当たった。

 それはずっと頭の中にあったけれど、すぐさまそこにつながらなかったのは、言うまでもなく、まだ誰にも、つまり五人のうちで一人にも教えてなどいなかったからだ。鋭い目つきを放ち続ける彼女に「茉莉花って、やっぱりエスパーだったの?」と朋香はそう漏らしていた。

 読唇術ができそうな器用な子だとは思っていたが、読心術まで身につけていたとなれば、それは器用を通り越して超能力だった。

 

 たしかに、と朋香は小学六年生のときに初めて同じクラスになって、友達となった頃の茉莉花を思い起こす。

 彼女は短気である部分を除けば、年のわりに大人びた面があって、誰もが見落としてしまいそうになる事柄を拾うのに長けていた。それをそれとなく朋香に伝えたり、もしくは理屈では解せない勘としか言いようのない選択をして事態を好転させたりというのが何度かあった。

 

 残念ながらそうした茉莉花の特質に教師や周囲の人間が気づくことは少なかった。


 「やっぱりってなによ。エスパーなんかじゃない。ただ……」


 茉莉花はそう言って口を噤んだ。

 朋香は首をかしげる。彼女の変わりゆく表情、その紅潮は、怒りから離れて、別の様相を成している。しかし、どうしてそうなるのかが、わからない。


「ただ?」


 しかたなく朋香は訊ねる。訊ねてばかりだ。

 そして本来、一番に訊ねたいのは、なぜ茉莉花が私の事情を察したかだった。図らずとも、茉莉花はそれへの答えも明かす。


「……朋香を毎日見ていたら嫌でもわかるよ」


 


 は吐き気がした。

 カップに残るロイヤルミルクティーを飲むのは諦めた。

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