17 少女は花の名前を心に刻む
朋香は花屋の店先にいた。
何気なくそこで足を止めてみただけといったふうだった。彼女のそばにある大小のテラコッタの植木鉢たちは色とりどりの花でいっぱいだった。
彼女は雨に濡れていたが今すぐに着替えなければ風邪を引くような状態ではなかった。小雨の中を走ってきたみたいな濡れ方だった。
思いがけない出会いに驚く紫苑が花束を落としそうになり、朋香が駆け寄ってなんとか抑えてくれた。少女漫画の一コマ、それも大きなコマだった。見開きとしては地味な構図になりそう、と紫苑は思った。花にはない、朋香の香りがした。優しい香りが紫苑を揺さぶって赤面させる。
「急に降ってきて、それで雨宿りしたくて」
朋香はぎこちなく説明する。
学校から駅まで最短経路で行くならば、わざわざこの商店街を通り抜ける必要はない。紫苑はそれについて訊くのを尻込みする。でも、どうしてなのかは知りたいと思う。
「傘はもってきていなかったの?」
「折りたたみ傘をバックから出すより、ここに入ってしまったほうが早かったから」
ここ、つまりアーケードの下。「その花は?」と朋香が紫苑の抱える花束を見つめる。紫苑は事情を手短に説明する。
「ねぇ、朋香」
紫苑は二人の間に音が無くなってしまうのを恐れて、何か口にしようとする。この偶然に感謝して、意味や価値をつけたがる。このまま、また明日ねと別れるのを紫苑は嫌がった。それなのに朋香の名前を呼んだ後が続かない自分に憤懣の棘さえ生えてくる。
助け舟は朋香から出される。「歩きながら話そうか」とごく自然に駅の方向へと足を踏み出してくれる。ついていくしかなかった。
母から頼まれたときに覚悟していたが、紫苑は花束を片手で抱えつつ、もう片方で傘を差さないといけない。幸い、通学用の鞄は肩からかけてしまえば問題ない。
遠回りだとしても、駅までの距離なんてたかが知れている。朋香は紫苑に訊かれずとも、どうして自分が商店街の近くにいたのかを説明してくれる。おそらく紫苑とは異なる理由で、彼女も気詰りな空気になるのが怖かったのだ。
朋香は帰り道に、しばしば商店街の片隅に構える古本屋に寄るのを紫苑に打ち明ける。紫苑は朋香が学校で本を読んでいる姿をあまり目にした覚えがないので、それは意外に感じる。
本を読むよりも友達と話す時間を大切にしているのだと考えれば、それは彼女らしい気もする。もしくは彼女は誰かが周囲で何かしている場所では本を読む気になれない質なのかもしれない。紫苑がそうであるから、朋香もそうであれば嬉しく思う。
「どんな本を読むの。朋香には好きな作者さんっている?」
「この人が特に、っていうのはないかな。それっぽいのを手に取って読んでみているだけだから」
「そうなんだ」
「うん、そう」
会話が弾まないまま、アーケードの終わりが近づいていた。
ふと朋香が立ち止まり、紫苑もそれに従う。数メートル先では雨が天から地へとひっきりなしに移動している。雨は強くなりつつあった。朋香は折りたたみ傘を取り出そうとしない。紫苑はそんな彼女の横顔に答えを探す。
「紫苑、この後って時間の都合をつけられるかな?」
紫苑はそれが大事な用件であるのを察した。
なぜなら朋香は、切花を抱える同級生の女の子をいたずらに連れ回すなんてしないだろうから。もしも、彼女がそれを常習しているのなら紫苑はがっかりするだろうが、それでもそこに彼女の正当性を見出そうとしたに違いなかった。
造花やプリザーブドフラワーにしてくれたらよかったのに、と母を責めてもしかたあるまい。
紫苑は「ええ、いいわよ」と応じた。裏返りそうな声で。「雨の日に好きな人と寄り道をするのが夢だったの」とでも加えそうになりながら。
朋香は微笑み、お礼を口にした。紫苑は顔が熱くなるのがわかって、そっと花束で隠そうとしたけれど、していたとしても効果は薄かった。
朋香が傘を取り出す。機能よりデザインを重んじている。紅梅色を基調として洒落た模様の入った傘だった。そこらのコンビニエンスストアで売っているビニール傘とは雲泥の差がある。相手が朋香でなければ、お金の使い方をもっと考えた方がいいよ、と白い目を向けていたかもしれない。
「素敵な傘だね」
「ありがとう。紫苑のは、すごくしっかりした傘だね」
「もともとお兄ちゃんが使っていた奴なんだよね、これ」
広げるといっそうその大きさが際立った。大きな鳥が翼を広げるような音がした。黒々として骨組みの丈夫なそれは、紫苑の体格には釣り合っていないが、その日みたいに花束を抱えて歩く分には重いけれど、傘本来の機能は十二分に果たしてくれる。朋香の差す傘と改めて比べてみると、あたかも可愛げのない自分のメタファーみたいでちょっと落ち込む紫苑だった。とはいえ、それを簡単に手放すわけにもいかない。
駅近くにはカフェと呼んで申し分のない店舗が二つある。
朋香はあまり流行っていない側の店へと紫苑を連れていった。そちらのほうが注文は楽ではあった。そして二人きりで話すのに適した席、奥の奥とでも表現すればいいのだろうか、密やかな話し合いにはうってつけの席があるのもそちらだった。
花束を持ってお店には入るのは紫苑にとっては初めてだった。客の誰もそれを気にしていなかった。目に入った人はその花束を贈られる人であったり、飾られる花瓶であったりを想像したかもしれない。でも、それについて当人に声をかけてまで確かめなんてしないのだ。
ふたりはロイヤルミルクティーを注文した。
そのロイヤルにどんな意味が含まれるのか普段の紫苑だったら頭を悩ませていたのだろう。もしその場に彼女と親しいお人好しな大学生がいて、説明してくれたのなら、いちゃもんの一つでもつけていた可能性だってある。現実としては、カップが運ばれてくるまで、きれいなテーブルに視線を向けたり、店内に押し込められている人々の賑わいや、音と姿とが結びつかない弦楽器が主張し続けているBGMを聴いたりしていた。
朋香は沈黙していた。
紫苑にはそんな彼女を見続けられる勇気がなかった。
でも、朋香が小さなテーブルを挟んでそこにいるリアルが大切であった。
厳格な宗教観に乏しいからこそなのか、紫苑は彼女にマリア像をみた気がするし、弥勒菩薩をみた気もした。あらゆる誇張は速まる紫苑の鼓動を表し、いかなる修辞句もその時の紫苑の胸のざわめきを、写実主義だろうが象徴主義だろうが表すことはできないのだった。強いて言うなら、朋香の心境はシュルレアリスムな方面へと、四次元的な軌跡を描いていた。
二人分のロイヤルミルクティーがテーブルにかっちりと置かれて、若いウェイターが去る。
「聞きたくないなって感じたら、遠慮なく言ってほしいな」
傷一つない真白のティーカップとソーサー。朋香の声は、注がれている液体、その水面に一切の波を立てずに朋香のもとへと届く。触れずともその温かさは感じられるのに、飲まなければ味わえない。
あの日、天文台で聞いたトーンと同じだった。これから私にとって衝撃的な内容を彼女は告げる、紫苑はそう確信した。
「それはタイトルをつけるとしたら、どんな話なの? 私は朋香が話すのを途中で遮ることができる自信がないわ。私がタイトルに惹かれない本を読みとおす自信がないのといっしょ。惹かれてしまえば読み通すってわけ。だから、もし私に逃げ道を与えてくれるのであれば、まずその内容の最も美味しい部分、あるいは苦くて渋い部分を抽出してくれると私としては、助かるし、朋香としても手間が省ける。加えて言うなら、長居は避けたい。花が痛むから」
紫苑は言い切ってしまうと、朋香の慈悲もしくは無慈悲に気圧されないよう、先んじてカップの取っ手に指を絡め、その容器を持ち上げ、縁に口をつけた。
ほんの少量、その熱い液体を自分のうちへと招き入れる。そしてゆっくりとソーサーに戻す。そうした一連の動作が朋香の側にはなかった。代わりに、呼吸を整えた。息を吸って、吐く。幸か不幸か、朋香はそんな朋香にすら色気を感じてしまう。
「そうだね、内容を短くまとめてしまうなら…………私自身と私が今も想い続けている人の話。うん、その人との出逢いと別れについてかな」
朋香の告白はそうしてはじまる。
紫苑は僕相手にそこまで話を進めてしまうと、一旦中断した。
「ねぇ、お兄ちゃん。あらかじめ言っておくとね、朋香から彼女の想い人についてすっかり聞いてしまう前に、私たちは解散したの」
「花のためではなさそうだな」
「ええ、違うわ。途中で私が……そう、私が泣きはじめちゃって。
信じられる? 私は信じられなかった。壊れたみたいって思ったわ。つまり正常ではないって。そうよ、異常だった。あの子の前で泣くなんて。しかたがないのよ。私はまだ朋香を好きなんだもの。それで結局、話は最後まで聞けずに別れた。
でもね、私は彼女の想い人の名を聞いた。きっと忘れないわよ、ずっと」
遠くの海原に眼差しを向けて紡がれていく紫苑の言葉には、どこか浅い眠りに通じるものがあった。それは浮遊感とも、反対に没入感とも呼べる何かだった。
「――――朋香の想い人は私と同じく花の名前をした女の子だった。……驚いた?」
それまでもずっと清く聴いていた僕に、紫苑は向き直って訊ねる。
僕は肯定の相槌をうつが、そうしてから自分が驚いていないのに気がついた。
なぜだろう、と僕は自問する。そういうふうにできている、そんな感覚があったとしか言えない。
盤上に姿を現した朋香の想い人は性質として紫苑と似通っていた。
それはむしろ当然の構図であるのだと僕には思えたのである。
運命的な、という表現をとってもいいかもしれない。かつて紫苑が朋香の美をその修飾語をもって讃えたように。運命。それは時に胡散臭さがつきものだが、それぐらいがちょうどよかった。
僕なりの結論として。
朋香が恋するのは、やはり紫苑と同じく花の名前を有する女の子でなければならない。
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