16 少女は海を眺めて物語る

 次、止まります。バス内に流れる女声。

 

 降車ボタンを押したのは僕で、窓側に座る紫苑の前を僕の腕が横切る形となった。そのせいでなのか、音声によるのか、会話を中断して瞑想でもするかのように目を閉じていた紫苑がその目を開いた。

 


「こんなに晴れた空の下を歩くのなら、日焼け止めを塗ってくるんだった」


 バスを降りた紫苑は、空を仰ぐ。手で遮りながらも太陽を一瞥した。

 その十三番目のバス停に降り立ったのは僕ら二人だけだった。


「お兄ちゃん、紫外線対策って一年中するものなんだからね」

「だったら今日塗っていないのは紫苑の責任だろ」

「外を出歩くときとそうでないときとでは、塗る種類が違うの。日傘は持ってきている?」

「いや、ない。悪かったよ。帽子は? 被ってくればよかったのに。持っていなかったか、無駄に高いやつ。シンプルなデザインなのに」

「あれ、このスカートに合わないから。色が」

「スカートは譲れなかった、と」

「これはお気に入りだから」

「似合っているよ」

「そういうのは、もっと早く言ってくれないと」

 

 彼女は呆れ顔をしていた。


「うっかりしていたんだ。社交辞令ではなく、本当に思ったから」

「だとしたら、普通は逆にすぐ口にするものではないの?」

「ポップコーンマシーンみたいに、本音をポンポン弾くには器用さと熱量が足りないんだ。それを悔やんだことも何回かある」


 含みを持たせたはいいが、中身はすかすかだった。本音が言えなくて後悔した経験がない人間はめったにいない。おそらくは。


「私ね、ポップコーンって好きじゃない。あのビニールみたいな食感が私を不安にさせるの。飲み込んだら、胃で溶けずに溜まっていくんじゃないかって」


 人生でそれほどポップコーンを食していない僕は、ビニールみたいなポップコーンは食べた試しがない。きっと不味いのだろう。


「元々は、ネイティブアメリカンかメキシコ先住民の調理法が原点とされているんだ。お菓子としての確立は十九世紀に入ってから」


 紫苑が僕を眺める。何を表現しているかがいまいち掴めない彫刻に対する目つきだった。


「ねぇ、そういうのって暗記してスラスラ言えるまでに練習しているの? 眠る五分前、鏡の前に立ってとか」

「想像に任せる」


 僕らは歩く。

 浜辺はすぐそこだった。夏場に大勢の人で賑わうスポットではない。まずそんなに広くないし、整備が行き届いてもいない。海の家なんてのは立っていないし、ライフセーバーが安全監視のために居所とするタワーもない。

 時季に依らず遊泳に適していない海辺。

 ちょっとした観光地というのがその場所の評価。砂を踏みしめ、海を見たいだけならそこで見ればいい。年に一人か二人は、夜に来て死に沈んでいくのを選んでしまいそうなところでもあった。


 去っていったバスはとうに視界から失せていた。

 僕たちは堤防の内側から、外側へ、その人気のない浜辺へと階段で降りる。人が住んでいるのが内側でいいんだよな?


「潮風の匂いがどこから、ううん、何から来るのかを知ったのは小学三年生の夏だったわ」


 水平線を望むようにしながら、紫苑は笑った。苦笑いに近い。

 思い出しちゃったなぁって顔。


「そこにどんな物語があった?」

「なんにも。理科の先生が教えてくれたってだけ。息を吸って吐くを繰り返す私たちにはどうしたって受け入れないといけない事象が多すぎるの」

「真理だ」

「時に受け入れがたい、ね」

 


 風が吹いた。やけに爽やかな風だった。それが海原を撫でる。澄んでいるとは言えない色が、僕らの前に広がる海の確かな色だった。 


「海辺っていう選択は私が予想したなかでは、とてもいい。ステキな展開が待っているのよ」

「それはなにより」


 その海岸を訪れるのが実は初めてであるのを紫苑には伝えなかった。

 世の中には伝えなくていい事実があり、風情がある。反対に、彼女から「どうして私を海辺に連れてきたの」と訊かれたらどうしようかと、バスに乗っている間に考えていた。

 

 この選択がもとより、にわか雨の後にできる水たまり程度に浅い理由、強い衝動によってのみなされたものだった。

 海の広大さを知れば失恋なんて小さく見えてくる、というのは宇宙の広さに圧倒され、魅了されている彼女に言うのは不適だと思う。そんな誰でも思いつく答えを彼女は好まないだろうから、どうせなら僕の個人的な思い出を明かすのもいいかもしれない。

 

 当時十四歳だった僕と、海が好きな十八歳の家事手伝いの女の子との出会いと別れの一日。それはセンチメンタルでしかもノスタルジックな趣がある。まだ誰にも話したことのないのだけれど、今の紫苑にだったらちょうどいい。紫苑はその時の僕よりも二歳も年上で、恋に振り回される女の子なのだから。

 

 でも、それは果たされない。紫苑から先に「たとえば、こんなのはどう?」と話し始めたから。


「私を海辺に連れてきたお兄ちゃんは、突然、大事な話があるって真剣な顔をして言うの。私がそれを聞く気になった瞬間、お兄ちゃんに電話がかかってくる。無視できない電話が。お兄ちゃんには行かないといけない場所ができる。会わないといけない人がいる。そうして私はお兄ちゃんを送り出す。

 後に残された私は裸足になって砂浜を歩きはじめる。熱い、熱い、砂浜よ。遠くに人影が望めて、私は走りだす。理由は後からついてくる。人影はしだいに明確な姿と力をもつの。綺麗な女の人なの。

 私は肩で息をしながら、また女の人なのね、と笑っちゃう。やっと近づけて、私たちは見つめ合う。それから、私は二度目の恋に落ちる。一度目の恋にたくさんの重りをつけて水底に沈めるの」


 パルムドールだって目でないな、と褒め称えんとした僕だったが、彼女が「歩こうか、ちょっとだけ」と笑いかけてきたからタイミングを逃してしまった。逃してばかりだ。

 僕らは歩く。狭い浜辺を左から右に。見方を変えれば左から右に。方位はこの際、どうでもいい。その紫苑の隣をぴったり歩くには初夏の海辺というのはいささか特殊で、なんだか気が引けてしまい、僕は斜め後ろ、半歩ほど距離を置いて彼女についていく。


「あれから」


 歩きながら紫苑は切り出した。あの日、紫苑に拒まれてから、という意味なのはわかった。

 

「金曜日までの、月曜から木曜の四日間。

 朋香と一対一ではまともに話せなかった。でも、何人かを交えて、どこにも行き着かない日常会話をすることはできた。食事は喉を通ったし、相変わらず数学の授業では眠くなったし、予定どおりに火曜日にはあれがきた。寝つきが悪いのは数年前からだからいいとして、つまり劇的な変化はなかったの。

 それについて金曜日の昼までの私は心を痛めたわ。ああ、その程度の恋だったんだなあって。けれどね、それが間違いだとわかったの。彼女にああいう形で拒まれたとしても、彼女への想いがそう素早く溶けてなくなったりするわけないのよ」


 海底に沈めもできない。それが現実らしかった。

 浜辺の端に着く。僕らは引き返す。紫苑は物語るのにちょうどいい場所を探して。

  

 僕らはまた堤防の内側へと昇る。

 停留所を通り過ぎて、しばし無言で歩く。やがてお誂え向きにの休憩所があった。くすんだ空色の屋根とそれを支える柱、背もたれのない、木でできたいかにも硬そうなベンチが正方形をつくるようにして並んでいる。年季の入った立て看板にはそこが海浜公園へと続く道の始点であり終点であるのを示していた。坂道の途中にあるそこからだと、海を見下ろすようにして話ができる。

 

 僕は矢印が差す方向、海浜公園のほうに視線をやった。日曜日のお昼前にもかかわらず、少なくともここからでは人影が見当たらない。そこには陽炎さえも望めない。奥で左に曲がっているよう見える、高い木々の並ぶ横幅の広い歩道。そちらへと進んでいけば公園の全貌が見い出せて、僕の知らない町に住む僕を知らない人たちが各々の時間を有意義にあるいはそうでもなしに過ごしているのだろうか。

 乗っていたバスの停留所にたとえば「海浜公園前」という名称はなかったから、もしかしたら公園の入り口は僕が思っているよりも遠くにあって、そこには別のルートで走っているバスの停留所があるのかもしれない。

 それぞれの道を進み、止まる。みんなそうだ。

 

「ねぇ、こんなところで座って長話をしていたら熱中症になっちゃうかな」

「やっぱり、長くなりそうか」

「わりと」

「聞くよ。静かな海を眺めて帰るのが許されるのは、高尚な文学の中だけだろうよ。潮風に晒されたって、シャワーを浴びれば消えてしまう。そんな淡い記憶はいらない。話したいだけ話せばいい」

「私の話はずっと忘れないの?」

「僕に兄としてそれを望むのであれば尽力する」


 僕は先に座る。紫苑が隣に腰掛ける。拳二つ分の距離。

 

 寄せては引くを繰り返す波の音を聴くには遠いその場所で、星降る夜、月明かりを頼りに寝室の窓辺で秘密を共有する恋人たちみたいに、紫苑は物語り、僕は聴く。




 それは金曜日のことだった。雨が降っていた。

 花屋に紫苑は用があった。母からの頼みで、急遽、学校帰りに花束を一つ受け取りに来た。お金の心配はしなくていい、と母は電話口で言った。福祉施設で働く母からそのような依頼をされたのは二度目で、そのアーケード商店街の花屋を営む女性と母は旧友なのだった。


 紫苑が高校生になってからというもの、紫苑は両親と取り立ててじっくり話す機会を設けていなかったが、娘が同級生の女の子に恋をしているのを知ってはいないはずだ。

 すっきりした内装の花屋だった。

 そう計算して配置されているのか、草花に阻まれずに、すぐ店の奥まで視線が届き、レジスター近くで何やら作業をしている女性が見えた。二十歳過ぎの幸薄そうな顔をした彼女を紫苑は知らない。紫苑はうっすらと記憶にある店主、すなわち母の友人の姿を探しつつ、奥へと進む。女性が紫苑に声をかける。最低限の対応。花束をつくる手を止めるのが惜しいのを隠さない口調だった。

「もしかして中野さんですか?」と女性は言う。紫苑は肯定する。「もう少しだけ待ってください」と訊ねる女性はどこかきまりの悪い表情をしており、それで紫苑は彼女が今まさにつくっている花束を自分は持ち帰るのだと悟った。

 

 やがて紫苑は花束を抱いて店から出る。

 

 そして雨に濡れた朋香にめぐり逢った。

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