15 少女は白より黒が嫌いと話す


 紫苑が朋香からその恋心を拒絶されて四日が経過した。


 言い換えれば紫苑が僕にそのことを明かして涙を流してから三日。その水曜日の午後七時過ぎに紫苑から電話があった。

 

「今度の日曜日なんだけれど」

 

 時候の挨拶はなく、最初からふてぶてしさのある調子だった。

 僕は「確か友引だったか」とおざなりな反応を返す。


「どこかに連れていって」


 強かでまっすぐな物言いだった。


「囚われの姫君でも、もっとステップを踏んでから頼むものだ」


 我ながら、ファンタジーというか、エンターテイメントな喩えだ。


「ちがうの。逃避が目的ではないの。状況を直視して、濁りなく煩悶するには、それ相応の空間がいるのかなって」

「もう少し、わかりやすく」

「私の恋心のこれからについて、考えたい。お兄ちゃんにまた電話するかは悩んだわ。けれど、こういうのって早いほうがいいのかなって。美容室に予約を入れるときの感覚みたいな? ううん、それは人それぞれかもしれないわね。あのね、だから、えっと………」


 彼女が混乱しているのがわかった。

 僕は、朋香に愛の告白をする前に拒まれてしまった紫苑が、新しい一週間をどんなふうに過ごしているのかを訊ねた。朋香とのコミュニケーションの有無だけではなくて、生活全般に関してだ。紫苑はたどたどしく、細切れに話していった。彼女が彼女として落ち着きを取り戻してきたところで、僕は話題を原点に帰す。


「ところで、どこかへ行くにしても遠出するならバスや電車になる。知っているとおり、僕は車やバイクは持っていない。まぁ、免許は今年の夏にでもとるつもりだけれど」

「かまわないわ。でも目的地に着くまでは、どこに行くのか教えないで。交通費は今回は折半する」

 

 これまでだって、何も僕だけお金を出していたわけではない。紫苑がきちんと半分を負担するときだってあるにはあった。


「紫苑が満足する場所へ連れていける自信はないな」

「お兄ちゃんには悪いけれど、どんなところだって今の私は満足しない。これは気分転換の傷心旅行ってやつではないの。歌って踊って騒ぎたいなんて思わない」

「わかったよ。いや、紫苑の気持ちがっていうわけじゃなくて。僕が今、紫苑にしてあげられることが。どこかへ連れていく。そうだな、思考を明晰に、感情をクリアにする場所へ」

「ありがとう」

 

 最初のふてぶてしさはどこへ行ってしまったのか。

 物憂げな声色の紫苑に、僕は優しくなっていた。ならずにはいられなかった。偽善だとしても、偽物だとしても。


「それと、ごめんなさい」


 とうとう紫苑がそんなことまでぽつりと口にするから、何か冗談でも言おうとしたけれど生憎、そういう時に限って出てこなかった。


「また土曜日にでも確認の電話するから」


 紫苑がそう言って電話を切ろうとする。

 その気配を察した僕は最後に何か言おうとした、でも、やっぱりそれは果たされなかった。「謝らなくてもいいよ」だったり「日曜日を楽しみに待っておいて」だったり「止まない雨はないんだよ」だったり、そういう台詞さえも僕は電話の向こうに投げかけられなかったのだった。「ああ」や「またね」の一言も出てこず、通話を終えて反射的にスリープモードにした、そのディスプレイに自分の顔が反射されるのを目にした。やるせない顔がそこにあった。


 木曜日と金曜日には紫苑からの連絡はメッセージ一つなかった。

 僕は彼女とどこへ出かけるのが最善で最良なのか検討していたから頭の片隅には常に彼女がいたけれど、紫苑の側はおそらく僕はいないのだろうと思う。

 僕と紫苑の繋がりは時間が経つにつれ微妙になってきている。元々が奇妙であったかもしれないのを考慮すると、健全化されつつあるとも言える。

 雨降りの土曜日の正午過ぎ。紫苑から着信があった。僕は完璧な二度寝をしており、紫苑の声はまだ夢と現の境にあるように感じられた。


「お兄ちゃん、天気予報はチェックした?」

「いや……していないな。星を観に行くつもりはないから、どんな天気だっていいんじゃないかな」

「そんなに遅くまで一緒にいる気ないからね」

「わかっているよ。健全にいこう、健全に」

「ねぇ、話すことが増えたの」

 

 声からは彼女が笑っているのか泣いているのか、わからない。僕は目をぱちくりさせる。


「木曜と金曜のどちらか、あるいは両方で何か起こった。そういうこと?」

「そうね。私は新しく知ることがあったの」

「西原さんについて? それとも恋心全般に関して?」

「私が思うに、両方」


 なるほどな、と僕はくしゃみをした。

 猫がするみたいなくしゃみだ。僕は深く訊ねるのは明日にしよう、そうあるべきなのだと思い、紫苑に明日の集合時間と場所を伝達する。おめかしはいらないと言った僕に彼女は平たく「うん、わかった」とのみ返す。

 そうして部屋はまた雨音に満たされた。

 僕は通話を終えてすぐに、天気予報を検索する。明日は晴れるとある。今日はこんなにも大雨なのに? 僕はじっとりと汗を掻いている。気持ちのいい汗とそうではない汗があって、この汗は全面的に後者だった。

 僕はシャワーを浴びる。熱い、熱いシャワーだ。狭い浴室で纏う蒸気に目を瞑って考えるのは、明日のこと。スタート地点を便宜上、駅と決めたはいいけれど、僕はそれ以外の一切を未だに決められずにいたのだった。あてのない散策に紫苑を付き合わせてしまうのは心苦しい。むしろ気まずい。

 ああ、そうだ――――零れた温かな水滴が狭い空間で反響したとき、ひらめいた。


 


 そして迎えた日曜日。

 予報は的中した。誰があれだけの雲を運び去ったのだろうと幼児のような穢れのない疑問は誰にもぶつけられずに、僕は一人で駅にいた。今日、その改札を抜ける必要はない。改札を通ってくるはずの彼女を迎える、それだけだ。

 帰りは見送ることになるのかはまだ考えていない。空にしたって、そうだ。また誰かがたくさんの雨雲を一所懸命に運んでくるかもしれないではないか。

 そして紫苑が到着する。僕らはバスターミナルに向かいながら話す。


「白ってそんなに好きではないの」


 白っぽい長めのスカートを履いた紫苑が言った。いわゆる透け感はあまりない、ハイウェストタイプの代物で制服のそれと比べると長めらしい。上はプリントTシャツに薄手のカーディガン。Tシャツにプリントされているのはモノクロフォトで異国らしい景色。その上に横文字も並んでいるが、伏されている記号からして英語でないのはわかる。フランス語?

 いずれにしても白を好まないと口にしたのは照れ隠しではないだろう。


「汚れが目立つから?」 

「それが一番の理由ってわけではないし、黒い服はもっと好きではないわよ」

「どうして」

「お兄ちゃんになら、わかるんじゃない?」

 

 僕はまた、どうしてと言ってしまいそうになった。


「ヒントがあってもいいのでは」

「それ、テスト中に何回も私が思うやつ」


 紫苑が笑う。久しく目にする表情で、かえって不安になる。あの泣きっ面を思い出してしまう。僕の左腕、袖をぐしゃぐしゃにしたその涙。僕にかまわず紫苑は話を続ける。


「黒自体は好きかもしれない。その色と私がとくに結びつけるのは、大きなピアノ。ふつうの学校の音楽室にある半殺しのではなくて、奏でるのを生業にしている人の伴侶であるピアノね。

 うん、ピアノは黒に限るの。小学五年生の頃に、友達の友達、ようは他人だけれど、偶然その子の家にお呼ばれして、そこで私は黒くないピアノに出会った、たぶん初めて。白塗りの、アップライトピアノ。最近になって知ったけれど、ああいうのって多くはインテリアなのね。室内調度品。えっと、つまり、本物の演奏向きではないってこと。ううん、別に貶める気はないよ。

 とにかく、黒ときたらピアノ。弾くどころか、楽譜もまともに読めないけれどね。あとは備長炭に、あくどい烏。物質的なものを挙げるなら」


 紫苑にとって夜は、そして夜空は黒くない。月や星があるのが彼女の夜であり、夜空であるからだ。そのはずだ。

 それにしても、黒い服か。僕は紫苑を意味するのがなんとなくわかってしまって、どう反応すればいいか迷った。白を切ってしまえば、彼女は自分から説明するのだろうか。


「けっこう遠い?」


 目的のバスターミナルに着くと、紫苑が訊く。

 僕は「わりと」と頷いて、彼女に小銭はあるかどうか確認した。四百七十円。紫苑が持っているレモン色をしたシンプルな長財布に入っていた硬貨の合計金額。


「片道でちょうどそれぐらい。帰りはお札を崩さないとだな」


 紙幣を収めるスペースには千円札が二枚。問題ない。遠くまでいける。外国まで行けなくたっていい。少し足を伸ばせば、自分の知らない景色に出会うものだ。そして帰るべき場所に帰ることができればいい。


 僕たち二人は右の後輪の真上にあたる箇所からさらに一つ後方の席に横に並んで座ることができた。窓側が紫苑で僕は通路側。

 猫を借りた経験がないから定かでないけれど、紫苑の状態は借りてきた猫みたいだった。椅子には浅めに座り、両の手のひらを重ねて膝に乗せ、首から上を窓の外へと向ける彼女は育ちのいいお嬢様猫だった。彼女の髪を部分的に束ねる役目を懸命に担っているプラスチックの地味な髪飾りが、窓から差し込む太陽の光でぴかぴかしている。不躾に彼女を見れば見るほど、たしかにまだ幼さが残っているのに思い当たる。


 僕は自分の右手で自分の左手の指をわけもなく揉みほぐしながら、腕時計の秒針をぼんやりと目で追いかけていた。

 駅から数えて三つ目の停留所を抜け、数えてなかった何番目かの信号が青になり、少しの間止まっていたバスが進みだしたところで紫苑が口を開いた。


「冥王星が太陽系の九番目の惑星でなくなったとき、私は物心さえついていなかった」

「素敵な書き出しだ、叙情がある」

 

 僕の誠実な言葉を紫苑は皮肉か冷やかしとでも捉えたのか、こちらを一瞥した彼女の口元は笑っていなかった。彼女が僕を見やった、その角度はフェルメールの有名な絵、青いターバンを巻いて真珠の耳飾りをした少女のそれを僕に想起させた。

 もっとも、紫苑の後ろにあるのは黒い背景色ではなく、薄い鈍色の壁と窓ガラスではあったのだけれど。紫苑が視線をその窓ガラスの外側へ移すと「僕もだよ。惑星は冥王星抜きで習った。はじめから」と先の台詞をなかったことにした。


「ねぇ、お兄ちゃん。なんだって冥府の神から名前をとらないといけなかったのかな。そういうのって、ごく庶民的な私からすると縁起が悪いよ」


 僕もそれには同意する。冥王星だけではなく星全般が神話と強く結び付けられているのを僕らは当然知っている。でも、そういう理屈ではなくて、あのかつて九番目の惑星であった星が図らずとも、ある意味で冥府に送られてしまった、その偶然の一致に妙な心地になるのだった。


 バスは向かう。目的地へ。

 紫苑は察しがつくだろう。停留所の名前からしてわかるに違いない。

 生命の始まり。しかし宇宙にあらず。

 

 そう、海だ。

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