14 少女の拒絶

 紫苑の部屋で、僕ら二人はベッドを背もたれにして並んで床に座っていた。

 

 直にではなくコットンの無地のラグの上。いつぐらいから、紫苑がその姿勢でいるのかわからないが、長い時間が経っているに違いない。それならいっそ、眠ってしまえばいいのではないか。もしかすると、僕を呼びだしてからベッドから這い出てきたのかもしれなかった。紫苑がそんな状態であったから、僕は玄関から彼女の部屋に至るまで苦労したというのに。

 

 紫苑はようやく話の核心部分を語り始めた。プラネタリウムを観終わった後、朋香とのやりとり。

 

「全部が私の勘違いだったら、笑ってほしいんだ」

 

 紫苑の想い人は長い長い詩の冒頭を朗読するみたいに、そう口にした。月に叢雲、花に風。紫苑は唇を軽く噛んだ。ぎゅっと噛んでしまえば、言いたいことがあっても一切言えなくなりそうだから。でも噛まずにはいられなかった。耐え忍ぶための心構えを要した。


「あのね、紫苑。私は――――」


 朋香の声。惑いのうちを進む声。

 紫苑は反射的に朋香の細腕を力強く掴んでしまっていた。朋香の表情が痛みに曇り、話を中断する。だが、いずれかの母音を短く、そして鋭く、小さく切った声をあげたのは紫苑のほうだった。掴むつもりなんて、強くその腕に縋る気なんてなかったのに! それでも離せなかった。

 朋香は握られなかったもう一方の手で、紫苑の猛る腕にそっと触れた。

 この上なく優しく。

 

 それらはみな、数秒のうちに起こった出来事であるはずだが、紫苑の記憶上ではひどく間延びして、凄絶さを伴っていた。紫苑は朋香が放とうとした言葉に、死神めいた宣告、つまり凶弾の姿を瞬時に思い描き、それゆえに一度たりともまともに触れたことのなかった彼女の腕を力任せに掴んだ。すべてを止めてしまおうとしたのだった。

 朋香に触れられた紫苑の華奢な腕は、岩石のようなこわばりを徐々に失う。

 やがて腐敗に抗えぬ生花のごとく、だらりと垂れ、離れた。朋香は首を横に、ゆっくりと振った。ダメよ、とそう忠告されているのだと紫苑は悟った。

 朋香の面持は曇りから雨へと変わりつつあった。言葉として、紫苑への叱責はなかった。やがてその眼差しに現れたのは稲妻めいた決意だった。彼女が紫苑の名前を呼んだときにあった躊躇はこのときゼロとなった。

 紫苑は朋香に目で懇願した。なかったことにしてほしい、と。

 やんぬるかな、朋香は紫苑めがけて魔弾を射る。


「私は紫苑の気持ちに応えられない」

  

 笑えなかった。初恋にその身を焦がしていた少女は急速に冷えた頭で考える。

 四つの「なぜ」を彼女は整理する。


 第一に、なぜ朋香は私の特別な想いに気がついたのか。紫苑がそれを口にしたのは僕だけで、無論、誰かに勘ぐられしまう素振りをどうにか抑えていたはずなのに。

 

 第二に、なぜ朋香は紫苑からの告白を待たずに、想いを拒んだのか。もしかしてそれは紫苑から非道徳的な行為をもたらされるのを危惧でもしたからなのか。

 

 第三に、拒絶は今ここで行われなければならなかったのか。この天文台から家に帰るまで何が紫苑を歩ませるのだろう。遠い遠い道のりだ。家にたどり着けるの?


 第四に――――と紫苑は、最も大きな「なぜ」を一番後にもってきた。それを逃避だと言う勇気は僕にない。紫苑は朋香にその想いを拒まれて、改めて向き合わなければならなかった。自分の想いに。

 

 

「私はなぜ、朋香をこうも愛してしまったのかなって。それは恋に恋をしていた少女の幻想であったの? 

 いいえ、そうではないの。だって、私は恋自体に憧れはなかったのよ。同級生から自由奔放な色恋のあれこれを耳にしたり、友達から恋愛をテーマにした漫画を借りたりもした。でも、それらをふまえても、私にあったのは憧れではない。自信はないけれど、そう思う、思いたい。不治の病からでも逃れるように、自分の精神を信仰し、貫きたい。

 恋愛に対する好奇心と憧れを起因とする初恋だったなんて嫌よ。そもそも現代医学や科学において、そして生物学的に種を残すことが叶わない相手にどうしてこうも惹かれ、自分を失ってしまうのかな。動物という枠を壊してみて、新しい生物としての在り方としては申し分ないわね。

 けれど、それって傲慢さや欺瞞、虚偽、狂気の盟約者であるのよ。そうでしょう? 培ってきた知識が、経験が崩れていくのを感じたの。朋香の前では。何もかも。

 あのね、私は失恋を予感したことはあったわよ。

 それはたとえば、朋香に恋に落ちたまさにそのときにもあった。お兄ちゃんに夜中に長電話に付き合ってもらったあと、眠れぬ闇夜に晒されながら心に描きもした。失恋の予感って、月や花、風や雪などが滾った山紫水明に滅亡の隕石を静かに落とす遊びだった。それが現実になるまでは、恋に溺れる私にとっては遊びでしかなかった。それに私の矮小な矜持をして、失恋というのは、幼い天使の羽の軽やかさに加えて、熟れた洋梨の優美な味と弾力とを備えていなければならなかった。わかる? わからないでしょうね。簡単に言うなら、失恋って恋と同じぐらいに美しいものだって思っていたの。だからこそガラス玉を愛でるみたいに遊べていたのね。割れてもいいって。

 ああ、大丈夫よ。わかっている。無駄な比喩は無視しなさいよ。いいのよ、それで。ただ、少しでも論理的な帰着を見出そうとするなら、こうよ。

 私は失恋を初恋の延長線上に常に置いていたけれど、それと同時に、いつだって線ではなく点と点に切り替える準備ができていたの。空に浮かんだ星々のように、無数にある点にね。私の知らない彼方にある点と今の自分が結ばれる未来があれば、私は何も失わずに済むのだと愚かにも陶酔しきっていたのよ。

 その意味で、朋香に拒まれたときに、私はすぐに彼女への想いを変容させてもよかったはず。彼女と恋仲になれない未来をただ受け入れて、そこに今の自分を合わせるだけでよかった、それでこの初恋は終わるはずだったのよ」


 でも終わらなかった。僕がそう口にせずとも、紫苑は話を続けた。朋香に拒絶されたその後、実際にあったことを。


「どうして」


 紫苑は涙を流す暇もなく、そう呟いていた。見栄や虚勢といったポーズ、それらは朋香を前にしては不可能だった。紫苑の問いに朋香は顔を背けた。それでまた紫苑は心をえぐられてしまうが、どうしようもなかった。

 少しの間を置き、朋香が紫苑を見ないまま言う。答えを。


「私、好きな人がいるの」


 朋香の視線は床の小さな染みにでも投じられていた。紫苑から見て、ほとんど横顔に近い朋香、その角度、光の当たり具合、何者も寄せ付けない寂静が紫苑を揺さぶる。遅れて、彼女が口にした言葉の意味を紫苑は分解し、再構築し、了解する。他に想い人がいる。なるほど、とびっきり簡単明瞭だ。

 どこからか湧いて出た夢幻の蝶たちが紫苑の頭から蜜という蜜を吸い上げて、再び彼女は平静さをまとう。そして三つの選択肢を蝶は残した。

 

 まず、朋香の想い人を聞きだしたうえで、その人物がまともな部類であれば彼女の恋を応援する。もしもまともではなかったら? それらを排除する資格はあるの?

 

 第二としては、朋香の想い人が誰であろうが構わず、諦めないことを彼女に宣誓する。この世界に心変わりや略奪、愛憎劇なるものが蔓延っているのを恋愛初心者の紫苑だって知っているから。

 

 最後の選択肢としては、自分の失恋を受容し、それ以外には何の行動もとらず、ひたすらに、少女の時代を彩る苦い思い出の一つとして日々を過ごしていく。

 これが最も現実的であった。

 

 けれども、紫苑は心を彷徨わせたまま、どこにも行けなかった。

 点と点は結ばれなかった。宙ぶらりんの初恋。

 ただ、まだ熱は失われていなかった。

 

 その後、紫苑が自ら「帰ろう」と言えるその時まで、朋香は気高く紫苑に寄り添った。二人はいつでも触れようと思えば触れられる距離にいたけれど、ついに二度は触れることなく天文台を出た。

 重々しい雲の隙間から白い太陽の欠片が覗く。霧雨は霧雨のままだった。紫苑はこれが作られた物語であれば、希望の兆候として、太陽がすべての雲を払っている、あるいは絶望の象徴として逆に残忍な雨風に包まれるだろうにと思った。


 話し終えた紫苑は、僕がコンビニで買ってきた飲み物を一気に飲んだ。それは透明な炭酸飲料だった。選んだのは僕自身なのに、そのときになってどうしてそれを選んだのかわからなかった。とにかくペットボトルの紅茶やラテ、そういったものよりも透明度の高い何かを無意識に選択していた。炭酸飲料ならば水とは違って、一気に飲むのは苦しい。だから、としてみても合理的な説明にはなっていない。

 果たして紫苑は曖気を吐く。品性はないが人間味は確かにあった。


「ごめん」

「いや、いいよ」

「全然すっきりしない。誰よ、話したらすっきりするなんて言ったのは」

「なぁ、紫苑」


 声をかけてみてから、続きに迷った。これからどうする? 

 僕にできることって何かある?

 

 僕は続きを言えないまま、部屋の中を見回す。整理整頓のなされた部屋だ。そして等身大の十六歳の女の子の部屋だ。可愛げのある物は少なめであった。失恋のショックで物にあたって、ぐちゃぐちゃにした痕跡はない。これからだって、ないのだろう。彼女は大概、内側に溜め込む。いっそ、カラオケにでもいって夜通し熱唱するのがいいんじゃないかって思いもする。

 

「誰なのかな、朋香の好きな人って」

「えっ」

「心当たりがない。やっぱり前の学校の人なのかな」

「あー……そうじゃないか?」

「はぁ…………」


 深い溜息だった。

 それはこの部屋に入ってから初めて聞くものだった。窒息でもしそうな雰囲気で話し続けていた紫苑が大きく息を吐いたことで、その表情は幾分かましになっていた。それを本人に伝えて、また気休めにでもなればと思っていたところを、また紫苑に遮られた。後手にまわってばかりというのは不甲斐ないものである。


「お兄ちゃん、肩貸して」

「立てないのか?」

「そうじゃない」

「というと?」

「――――ちょっと泣くから。泣けそうだから。ちょっとだけ、泣く気になったから。黙って、肩寄せて。抱きしめなんてしないでよね」


 言われたとおりにする。

 肩を寄せると、そこに紫苑が身体をあずけてくる。

 長袖を着てきてよかった、でも左袖だけ濡れたままだと電車に乗っていたら変な目で見られるかもしれないな。僕はそんなことを考えながら、紫苑が泣き止むまで傍にいた。

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