13 少女はその声を恐れる
プラネタリウムこそが紫苑たちの目的だった。
そもそもの始まりは学校での会話、またも放課後の教室にあると紫苑は言う。
天文台に着いてからプラネタリウム開演までの経緯を僕に話しておいて、それからわざわざ朋香をどうやって誘ったのかについての回想を挟む紫苑。
僕は彼女が結論を先延ばしにしているように思えた。
もとより期日はないのだから先送りとするべきか?
いや……僕と紫苑の両者にとって家に他に誰もいな状況が好ましいのは確かだ。だから時間に限りはあるのだ。この家に帰ってくるべき人が帰ってくるまで。
紫苑は僕が部屋に来てからまだ結論を口にしていない。つまり、僕は彼女が失恋したかを本人の口から聞けていない。そうだと顔に書いてあったとしても。紫苑はそれを彼女だけの心に留めておくことが、つらくて僕を呼んだ。そう考えるのが自然である。無理して話さなくても、語らずとも傍にいてやるのに、そう言ってしまうには、あまりに彼女は真剣に話し続ける。止まりそうなときでも、止まりはしない。
四月の夕方ぶりに教室が紫苑と朋香を二人きりにした時のことだった。
実際、茜や響子を含めて他のどの生徒もいないというのはかなり珍しい。まるで世界が少なくとも紫苑に優しくしたみたいな放課後だった。
二人は窓辺で話した。初めて話したあの日のように。
紫苑は自らが所属する天文部の新入部員について朋香に嘆いた。半ば愚痴だった。その天文部はほとんど名ばかりで、真っ当な活動は年に一、二度しかしていないような部であった。唯一の新入部員の女の子はひどく大人しい子だった。大人しすぎて、五月の連休が明けると、学校にあまり来なくなった。紫苑は勇敢で面倒見のいい善人ではないからその原因究明に奔走はしなかったが、一応の噂では、虐めやその他の不登校になりそうなトラブルやアクシデント、不幸等々はなかったのを突き止めていた。でも登校していないのだ。それがすべてだった。
「私も素質はあると思うのよね」
「素質?」
「そう、不登校の素質」
「紫苑に? それってどういうものなの」
「そんなに本気にしないでね。私だって学校に行きたくない日があって、でも行かないと後で困るし、幸いにも心配してくれる人もいるから行く。それに朋香や茜や響子、ようは友達に会いたい、話したいから休み続けることはない。こんな理屈というか、動機とは別に、感じていることがあるってだけ」
「聞かせて」
「うん。シンプルよ。一度休んだら二度と行かなくなりそうって。糸が切れちゃう、そんな感じ。そういうタイプかなって。病気や怪我、法事、とにかく正当とされる理由以外で休んじゃったら、私ってたぶん二度と学校に行かなくなるかもしれない。たとえそこに誰が待っていても、待ち望んでいるとしても。ああ、大丈夫、現実はそうでないのは知っている。ただ、感じるだけ」
「もしかして紫苑って今のところ皆勤賞なの? それでそんなふうに『一度目』を意識しちゃっているんじゃないかな」
「妥当な推測ね。でも、私はとっくに皆勤賞を逃しているわ。正当な理由での欠席だけれどね」
たとえばそういう話をした。
もっと話すべき、聞きたいことがあるのに、うまく言葉にできなかった。朋香に「天文部なんだよね」と言われてそのままの流れで話していたのだった。
聞き手に徹していた朋香が雨降りの空を見て言う。
「見えないだけで、この雲の向こうには昼だって星が輝いているんだよね。当たり前なのに、なんだか不思議。紫苑としては、やっぱりこの時期は星が見れなくて残念?」
年がら年中、星を真剣に観測しているわけではないのを紫苑は彼女にわざわざ打ち明けはしなかった。彼女の綺麗な横顔に、鼓動を早めながら紫苑は返事を探した。
「少し。でも、思い出すこともあるよ」
紫苑はそう口走ってしまってからどう処理すべきか悩んだ。それにかまわず、朋香は「何を?」と純粋無垢に問いかける。
「小さい頃、八歳か、九歳ぐらいのときだったかな。雨の日にね、家族でプラネタリウムを観に行ったの。それは私にとって星の記憶というより、涙を誘う映画や雄大な自然の景色を観て感動した経験のそれに近いわ。そのままの状態でとっておきたい記憶なの。そういうのってわかってくれる?」
怖々と訊ねた紫苑に朋香は「わかるよ」と笑いかける。彼女はそれを証明するつもりなのか、彼女の思い出を一つ、紫苑に話す。それは、ささやかだけれど幸せなとある日のものだったそうだ。僕には話してくれない、二人の秘密。
「もし、よかったら」
朋香が区切りのいいところまで話すのを待ち、そしてそれに対する素直であるがままの感想を述べてから、紫苑は再び口を開いた。
「今度の日曜日に、プラネタリウムにを観に行かない?」
軽くも重くも感じさせないためにできる工夫や小細工を紫苑は思いつかない。
彼女の心が導くままに言葉を連ねるしかない。それは太古から伝わる仰々しい星座の配置に比べると立派ではなかったが、劣らない輝きがあったと僕は思う。
けれども朋香はすぐには応じなかった。
どういうわけか、黙って紫苑の顔を見つめた。紫苑の心の奥を見通すふうだった。朋香の表情には何か暗いものがあった。恋する紫苑の主観にまみれた回想のうちでなお、それは動かし難い事実であった。傍から見ればありふれた遊びの誘いのはずなのに。疑心や嫌忌はなく、冷徹なまでの探究と僅かながらの吃驚、そして悲哀が朋香の瞳に宿っていた。
ついに雨音、それとも心音が激し過ぎて耐えられずに、何でもいいから空気を震わせてしまおうと紫苑が決心したとき、朋香が豹変した。
彼女は微笑んだ。それは何度も紫苑を魅了してきたものだった。それは紫苑が幾千もの語句を自由自在に使って恋心の理由をつくるよりも手っ取り早い証だった。
「いいよ。案内してくれる?」
その答えをもらった後を紫苑はあまり詳しく覚えていない。
おそらく何の滞りもなく事は進んだのだ。二人は他の三人目、四人目となる友人を誘わなかった。あたかもそれは暗黙の了解であるように、彼女たちの間で提起されなかったのだ。
彼女たちはやがて雨の中、それぞれの帰る場所へ帰った。
そして場面は二人がプラネタリウム、その部屋へと入った場面に戻る。
「もし隣で私が眠っても、怒らないでね」
朋香がそう囁く。
おっとりとしたナレーションが、心地よくなったのなら寝てしまってもかまわないが、他の観覧客の迷惑になるような行為はしないでと注意事項を告げた直後だった。
「あ、でも怪獣みたいな鼾をかいていたら起こしてくれる?」
「うん。それじゃぁ、朋香もそうして。私こそ眠っちゃうかもだから」
がちがちに緊張している紫苑からすれば、嘘でしかなかった。
備え付けの椅子は、背もたれを後方にかなり傾斜できる。深く座った紫苑は昔を思い出す。かつて自分が訪れた年齢を考えれば、きっとこの椅子だって狭く感じるに違いないと予想していたのに、その空間が窮屈さを与えないどころか、摩訶不思議な広さを与えてくれていた。さすがに宇宙の膨張を想起させることはないけれど、紫苑にとっては驚きだった。
そして隣には朋香がいる……。
プラネタリウム自体を楽しむ、それは理想的であるし、そうすべきなのだとも思う。けれども、と紫苑は横目で彼女を窺う。
開始時刻まであとほんの数分、薄暗さのなか、まだそこには表情の読み取れる朋香がいる。ぼんやりと浮かぶ、肘掛に置かれた朋香の右手。その指は折りたたまれて、磨かれた鉱物となってそこに在った。
その宝石に自分の左の手のひらを重ねられたら素敵だろうなと紫苑は思う。それから彼女の閉じられた掌の指を一本ずつ、優しく開いていって、自分の指で全部絡めとるのを想像してみる。
そのどことなく官能的な絵面に紫苑は頬を染める。
染まるのは彼女の側でしかなく、絡めた朋香の指先がしだいに凍てつく触手となって、紫苑の心身を脅かす。とうとう離してしまったところで朋香が紫苑を見つめる。あるいはずっとその眼は向けられていたのだ。その瞳が帯びているのは愛情ではない、むしろそれとは正反対…………紫苑は一人、首を横に振った。あたかも悪い夢かのような、妙な空想から逃れる。
紫苑は静かにその時を待つ。
周囲に小声で交わされる期待や興奮の言葉は一方の耳に入って来てはそのまま他方から通り抜けていくふうだった。
大きなドアがゆっくりと閉まる音。暗くなり、幼児が驚いてあげた微かな叫び声が、天井に吸いこまれる。そして造られた星夜が姿を現す。紫苑は早くもほんのりと夢心地となり、同時に目頭が熱っぽくなるのがわかった。そしてはじまりのアナウンスが降ってくる。
上映されたプラネタリウムそのものについて、紫苑は多くを語らなかった。
ある一面では朋香への想いを滾らせていたから語れなかったのであるし、ある一面では語るには時間の制約があったのだろうし、そしてある一面では語ってしまえば、損なわれて零れ落ちてしまうものがあったからなのだろう。
とはいえ、あらゆる面をとっても、たとえその時その場に朋香がいなくても、感性豊かな少女に釣り合った感動に至ったと断言できる。
紫苑が星を好きな気持ちは嘘ではないのだから。
そして紫苑が把握できている限り、朋香もプラネタリウムを楽しんでいた。眠るどころか、目をきらきらとさせていた。それが嬉しかった。
上映が終わると、彼女たちは出入り口を抜けてあてのないまま廊下をしばし歩いた。そうしながら、人造の星々の瞬きがもたらした感銘やインスピレーションについて、話に花を咲かせた。三階まで吹き抜けの大きなホールに着くと、善良な空間デザインのために置かれた丸型のソファの群れのうちで、安らかな休憩に相応しいものを選んで二人は座った。
「今日はありがとう、紫苑」
朋香に対して盲目的な初恋をしている紫苑であっても、そのときの朋香が感謝を述べたいだけではないのがわかった。
それまでに話していた天体や宇宙から話題を切り替えるための台詞だった。
その声色にはあの放課後の教室で感じた暗さがあった。
星が煌めく夜空とは違う陰が。
「どういたしまして。楽しめた? 私は楽しかった」
「私もだよ。綺麗だったね」
「ねぇ、朋香…………何か話したいことがあるの?」
「どうして?」
「そんな顔、ううん、声かな。していたから」
「紫苑はそういうのわかる人なんだ」
紫苑はまた朋香との距離を感じた。
褒め言葉でもなく、侮蔑でもない、その声に紫苑は恐れおののいた。
大袈裟ではない。本当に怖く思ったという。足の底、ソファの下、その数センチの隙間から這いあがってくるような不気味な予兆に身悶えしていた。
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