12 少女は星を望む

 土星の衛星であるタイタンではメタンの雨が降る。


 メタンガスで知られるあのメタンだ。地球における常温では気体であるが、タイタンは地表の温度が-180℃ほどなので液体で存在できる。雨として降ってくるのだから一度は蒸発して空へと舞い上がっている。メタンの雨ってどんな雨なんだ。重力が地球とは異なっていて、ゆっくり落ちてくるっての本当なのか。土星だって僕らの雨を想像しにくいよな、きっと。


 六月上旬のある日曜日。

 僕たちの住む地域において梅雨入り宣言がなされた。昨年より三日早いだけで例年通りと言って差支えないだろう。朝、蒸し暑さで目が覚めた。気温は例年よりも高い。年々、春と秋とが喪われている気がする。暮らしている土地が悪いのだろうか。

 遅めの朝食を済ませて、ぼーっとスマホでネットニュースであったり、短い動画を視聴していたりすると午前十時少し前に紫苑からメッセージがあった。


『今から来れる?』


 それだけ。

 場所が不特定であったが例のファミレスであれば勘弁してほしかった。バスや電車を使うにしてもどっちみち雨の中を歩かないといけない。雨合羽でも着込んで自転車で、なんて最悪だ。

 

 でも、それは紫苑だって同じのはずだ。

 電話では話せないことを話したい、だから会いたがっている。そう捉えるべきだが、だとすれば用件はなんだろう。僕は駄目元で『こっちに来れない?』と返信する。先月の勉強会みたいに来てくれれば助かる。また勉強をみてやるって話なら、何も僕が家まで出向く必要はない、図書館で落ち合う選択肢もある。


『無理。動きたくない』


 間を置いて返ってきた。

 なんだ、そのわがままは。僕は召使いではない。断る権利だってある。そんなわけで『メニューの端から端まで奢ってくれるのなら考える』と送る。意地悪のつもりはない、面倒くさがりの紫苑への教育というか、指導だ。なんでもかんでも思いどおりになる世の中ではないのだ。

 紫苑から電話がかかってくる。

 最初からしてこいよ、と憎まれ口を叩きつつも出る。


「もしもし」

「なぁ、紫苑。今日、雨だろ? 僕さ、雨苦手なんだよ、あの子供たちの国民的ヒーローぐらいに水に弱いんだよ。顔が濡れて力が……ってやつ。僕の理想的な生き方ってまさに晴耕雨読で、雨の日は家に籠って本を読むとか、ネットサーフィンに興じるとか、そういう……紫苑? 聞いているのか?」

「うちに来れない?」

「え?」

「…………お願い」


 一瞬、自分の周りの空気がひどく乾いた心地がした。薄くなった。それで僕は唾を呑みこんだ。スマホを持つ手を右から左に変える。何かしないと落ち着かなかった。もしかしたら別の声がするかもしれないと、いつもの紫苑の声が聞けるかもと期待があった。


「約束、だよね」


 けれど紫苑の声はやっぱり心痛が込められていた。それが深いものであるのが、短いなかでもわかった。わかってしまった。聞き覚えのある声色だったから。


「今は一人?」

「うん」

「わかった。一時間以内に着くよ。遅くなりそうだったら連絡する」

「うん」

「朝、ちゃんと食べた?」

「少し」

「そっか」

「うん」


 通話を終えて支度を始める。

 予想はある。ここ二ヵ月の彼女とのやりとりを考えると、むしろそこにしか行き着かない。

 それとは全然違う、別の事態に見舞われていたとしたら、どうしようもない。

 いや――――予想どおり朋香との間で何かあったとして、僕にできることは傍にいて話を聞いてあげるだけだった。


 失恋。

 その二文字が僕の頭にあった。

 恋愛経験値の低い僕に、失恋した誰かを励ました実績はない。結局、そうした悲しみだとか辛さは時間が解決してくれるものであると信じている。そこに人によって長い短いがあるだけだ。未練。

 一方で、次の恋に移るってのもある。いずれにせよ、ありふれた不幸で不運で、現実だ。…………だから、上手に慰められる自信ないなぁ、と。

 どんな関係にある人でも、所詮、他人は他人じゃないかと。雨のせいだ、そんな冷ややかなふうに思ってしまうのは。

 外に出る。傘を差す。駅に向かう。コンビニに寄る。駅に着く。電車を待つ。乗る。そして、そして……そしてを繰り返して家の前に着く。ここに来るまでに雨さえ降っていなければな、と何回空を呪ったか数えていない。


 そうして紫苑の部屋で、紫苑は僕に話す。ゆっくりと。少しずつ。そうやって物語るようにしか自分の絡まった心を解いていけないと誰よりも理解しているみたいに。僕はただその糸を手繰り寄せていい部分とそうではない部分とを見極めながら、耳を傾けるしかないのだった。

 思えば、僕らの関係はそうやってはじまったのだ。




 話は昨日に遡る。

 紫苑と朋香はプラネタリウムを観に天文台兼科学館を訪れた。

 ふたりだけでだ。どのように朋香を誘ったのだろう。

 午後一時の天文台を霧雨が覆っていた。四月に科学館の展示スペースの大幅リニューアルがなされたばかりの施設には紫苑が予期していた以上に多くの人がいた。とはいえ、その場所の空気は安穏に流れており、急かされはしなかった。それに涼風を思わせる旋律がBGMとして微かに耳に入ってくるのを紫苑は喜んだ。広大な宇宙に対して人は一粒の砂よりさらにちっぽけだ。紫苑は空に犇めいている不埒な灰色の雲たちさえも施設内に入ってしまえば寛大にも許してしまい、その存在を忘れてしまった。

 

 プラネタリウムの開演まで展示をふたりでじっくりと観て回っていく。

 茜でもなく、響子でもなく、お兄ちゃんでもなく。紫苑は気配を絶えず感じ取っているにもかかわらず、自分の両の眼で、隣にいる朋香の実在を何度も確かめていた。また自分自身がその場にいるのをなかなかに信じ切れずいた。自分の所在無げな一歩、一歩、これこそがまさに浮足立つという感覚なのだと発見する。無重力とまではいかないけれど。


「紫苑が、星を好きになったきっかけって何かあるの?」


 薄暗い大きな部屋の壁面に眩く投影された一つの天体写真。それを前に、朋香が不意に訊ねてきた。きっかけ。動機、契機、誘因、引鉄―――紫苑のうちで、言葉がめぐる。それはちょうど人によって観測され名前を付された無数の小惑星たちのようだった。


「お兄ちゃんの影響かな。昔、お兄ちゃんが十三歳の誕生日にお父さんに天体望遠鏡を買ってもらったの。鏡筒が屈折式でレンズは口径八十ミリメートル、国内メーカー品の値段も比較的手ごろなやつ。それから三年間、高校生になるまではお兄ちゃんはよく家族の誰も誘わないで一人で黙々と週に二、三度は天体観測をしていた気がする。もちろん、天気にもよるし、もっと言うと、その小さくて丸い美しい世界に収めたい天体にも左右はされていたけれどね」


 焦るな、焦るなと内心叫びながら紫苑は朋香に話す。余計な部分までつい話し過ぎちゃったかなという感触は彼女の思い込みではないのだが、朋香は感心した様子で「そうなんだ」と返す。


「高校にあがってからは?」


 朋香の自然な追究。


「他にもっと惹きつけられるものができたみたい」

 

 紫苑は結論をまず述べた。


「つまり飽きたってわけ。それを責めるつもりはないの。だって、それを経て私のになった望遠鏡は私が綺麗な夜を待ち望むのに貢献したんだから」

「今もその望遠鏡でよく観測するの?」

 

 紫苑は首を横に振った。朋香に語り聞かせなくてもいい、とある出来事によってその望遠鏡は今は手元にないのだから。

 紫苑は朋香がそうしているように、天体写真やその他資料をしげしげと眺めた。そして時々、自分たちの生活と無理に関連付けたコメントをしてみる。朋香よりは星々によって象られた神話などにも詳しい紫苑だが、充分に噛み砕かれて的確な体を成している資料には、あえて補足を付け加える真似ができるレベルではない。

 元来、紫苑が魅せられた宇宙は人類の進歩や叡智の集積とは無縁で、原始的な心と引き合う力の先にある。紫苑はそう表現してみてから、夜空に瞬く星たちに恋焦がれる想いをするのは原始的ではなくむしろ文明的なのかもしれないとも推察するのだった。夜を明るくした人々の多くは星を忘れてしまっているものだから。


「今、私が見ている星が既に死んでいる可能性があるって知った時、私はなんだか狐につままれたような気がしたなぁ」

 

 呟いたのは朋香だった。ところ変わって、明るく見事に清潔な展示室。展示のために作られたアーティスティックな天球儀を前にして。


「神秘的だよね」


 紫苑は朋香に言葉を贈る。不思議、ロマンチック、センチメンタルといった、いくつかの候補から選んだ表現だった。

 

 また別の部屋に移る。

 主に小学生以下向けにつくられたと思しき体験型展示が多い。平仮名の割合の高い説明文を紫苑が生真面目に読むのを朋香は見守ってくれた。一通り体験してみて、笑い合う。

 休憩スペースがあって、自動販売機で缶ジュースを買うとふたりで腰掛けて飲む。宇宙船を模したベンチだ。ふたりで遥か宇宙の彼方にいけたのなら、なんてことは口にはできずに思うだけで一人勝手に赤くなる。

 ふと、朋香がぼんやりしていて、どうかしたのと声をかける紫苑。

 

「最後にちゃんと星空を見上げたのはいつだったのか思い出していたの」


 朋香が膝の上に缶を置き、両手で包む。


「でも、一度でもあったかどうか自信がなかった。海を眺めたり、遠くの山を望んだりならあった。それで頭をね、こうぐるぐるってかき混ぜて元通りになるように、思い出の中に見つけようとしていたの。星を見た日のこと。おかしいよね、何かを思い出すのなら、綺麗に整えて形作るべきなのに。あまりに溶け合ってしまうと、混ぜたほうがいいって気がしたんだよね」


 朋香は訥々と語った。なぜだか感傷的でさえあった。帰結らしい帰結のない、モノローグめいたそれに、紫苑は幸福感を得る。なぜなら朋香のそうした詩的情緒を含む――――だからこそ人によっては苦笑いを浮かべる――――彼女の心象風景の表出に出逢えるのは、限られた人であると思ったから。

 彼女の交流関係を十二分に把握してはいないので、信憑性のうえでは最大値を取らないが、朋香にとって自分は一般と特別の秤にかければ特別のほうに傾くのだと紫苑は信じた。

 そうだ、ごちゃごちゃした回りくどい説明はいらず、つまるところ紫苑が嬉しく感じたのは、朋香がいつもとは違う一面を自分に見せてくれた、その事実なのだ。

 それ以上でもそれ以下でもなく。


「それで思い出せたの?」

 

 紫苑は声を絞り出す。

 熱く冷たい恋心が思考力を溶かし、自分の声帯を震わせる機能を著しく低下させていた。

 朋香は肯いた。そして缶を膝から離すと、それに口をつける。缶と触れあい、離れた唇に紫苑は見蕩れる。そして朋香が何か話そうとしたところで、館内放送が流れた。軽快な音に続けて、明快で品のいい女声が来訪者に、ほどなくしてプラネタリウム上演が始まるのを知らせる。丁寧にその部屋の位置を案内する。紫苑はそれに必要以上に耳を澄ます。意味もなくその視線は宙を泳ぐ。放送終了を告げる最後の一音が止んだとき、朋香が紫苑に言う。


「行こっか。遅れないように」


 もともと紡ごうとしていた言葉ではなさそうだった。

 紫苑の首肯を待たずに朋香は立ち上がって、空になった缶をゴミ箱に捨てる。音もなく吸い込まれていく缶に紫苑はどこか寂寥を覚える。宇宙の塵になってしまったような。

 一度は軌跡上で交わりかけた点と点とが重なることなしに離れていってしまったかのように、あるいは隣り合わせに思える星と星との間に何光年もの隔たりがあるように。

 

 ふと――――朋香との距離を感じた。

 彼女の踏み出した右足と連動して、後方に振られた左腕、それに掴まりたい、その少女の手を握りたいと紫苑は欲する。でも、できない。触れてしまえば、かえって自分から離してしまう結果になるのを恐れもする。


 この初恋は今日でかたちを変える。紫苑は予感した。運命的に。

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