11 少女は匂いを気にする


 僕と紫苑が次に話をしたのは、一週間後のことだった。

 五月中旬の日時曜日。初夏の見本みたいな、すがすがしさがあった。「勉強みてくれる?」と電話してきた彼女に「西原さんたちと勉強会を開けば?」と提案してみると「それ、昨日やった。今日は都合が悪く四人で集まれないから。今から行くね。汚かったら掃除しておいてよ」と言って電話は切られた。一方的だ。

 せめて僕の予定は確認しろよと思いつつ、僕は部屋の掃除をし始めた。

 四十分ほどして僕の部屋にやってきた紫苑は1Kの僕の部屋に入ると、目を線のように細くして、それから溜息をついた。


「変わっていないね。相変わらず女っ気なし」

「ほっとけ」

「あったら、帰ろうかなとも思ったんだけれど」

「というかさ、電車で来たんだろ? 時間かけて、しかも往復で五百円ほど払うぐらいなら、近くの図書館に行けばいいじゃないか。言っておくけど、僕はそんなに勉強得意じゃないんだからな」

「教えてもらうの、英語と古典だけだから。それならいけるでしょ?」

「まぁ、その二つだったら」

「それに勉強だけだったら来ないって」

「西原さんとのこと?」

「あたり」


 深夜に電話されるよりは百倍いいかと開き直った。

 紫苑と僕は部屋の中央に置かれた低いテーブルに向かい合って座る。そのテーブルは食卓も兼ねているので多少汚れていたが、紫苑が来る前に綺麗に掃除しておいた。

 

 そんなわけで僕は紫苑の勉強の面倒をみながら、紫苑から昨日あったらしい勉強会の話を聞く。なんだったら、その話をするのがメインで勉強はついでみたいだ。

 ちなみに一年生の三学期末に文理選択があり、紫苑・朋香・茜・響子のうち響子以外は全員が文系を選択していた。ただし文系選択科目上は、紫苑が日本史であるのに対して茜と朋香は世界史であった。さらに言うなら、茜と紫苑は生物基礎を選択のところを、朋香は化学基礎。

 ようするに紫苑と朋香に絞って考えるなら、選択科目で勉強を教え合うことはない。転校生である朋香に事前に何を選択するかは聞けなかったわけであるが、もし紫苑が朋香と一年生の頃に出会っていたら、もしかすると同じ教科を選択していたのかもしれない。

 他者に流されない、自分のペースを乱されるのを人一倍嫌う紫苑がここ最近、朋香の言動に一喜一憂しているのは聞いてのとおりであるから。真、恋とは恐ろしや。


 紫苑たちが勉強会を開くのを決めたのは木曜日のお昼休みで、彼女たちは火曜日からはじまる一学期中間考査に向けて愚痴をこぼしていた。


「じゃあ、勉強会を開かない? よければ私の家を使って」


 そう言って笑みを浮かべたのは響子だった。「いいじゃん」と茜が二つ返事をして、それから紫苑を見ると「来るだろ?」と訊いてきた。紫苑はそこで「いいわね」と口にしつつ、朋香をちらっとうかがった。その視線に朋香が気がつき微笑んだ。

 響子の笑顔が太陽なら、この子は月のようだ、と紫苑はそんなことを思う。「私も参加していい?」という朋香に「当たり前じゃん」と茜が応じた。


 土曜日の午後に四人は集まった。

 響子の家は豪邸とはいかずとも、広くて大きな一軒家だった。手入れが行き届いた庭があり、季節の花を咲かせている。ガレージから覗いていた黒光りする車はいかにも高級車だった。良家の娘、ご令嬢などと噂されている響子であるが、それは真実であった。仕事が忙しくて土日もほとんど家にいないという父親に代わって、響子の母親が三人を出迎えた。一目で響子の母親であるのがわかるぐらいに顔と雰囲気が似ていた。あとで飲み物とお菓子を持っていくわね、とはりきっていた。

 紫苑と朋香が気後れしている一方で、茜は溌剌と感謝の意を表していた。そんな彼女の恰好はショッピングモールのときのフェミニンなワンピースからうってかわってラフなものだった。ただの勉強会でおしゃれしてどうするんだよ、と返されても困るのでとくに何も言わなかった。その紫苑はというと、またも服装に悩んだのだという。朋香に会うから。それが理由で、それだけで十分だった。

 そうは言っても、勉強会で着飾ってどうするんだという結論にやはり至って、またも無難な服を着ていた。当の朋香はブラック系のサマーニットにキャメルのチノパンでカジュアルにまとめていた。

 他方、招待してくれた響子はサマードレスでも着て出迎えてくれるのかと紫苑は思っていたが、部屋の前で待っていて「ようこそ~」と言った彼女の姿はすっかり部屋着だった。外に出るのなら着替えるのだろう。

 紫苑たちの服装の話を聞いて僕は思い出す。


「そういや写真見せてくれるんだろ? 連休のときに撮ったっていう」

「ああ、そうね。見せてあげる。カラオケで撮ったのよ。上半身しか写っていないけれどね」


 紫苑がスマホを取り出し、操作して「はい、これ」と見せてくれる。「どれか朋香はすぐわかるはずよ」と言う。実際に見てみると、なるほどたしかに話を聞いていたせいか四人がすぐに見分けられた。

 でも正直、朋香は消去法であった。

 紫苑がわかるのは当たり前として、茜はすぐにそうだとわかった。早い話、垢抜けていてその表情には自信があって目力がある。響子は整えられた眉毛や高い鼻筋が品性を感じさせる顔立ちをつくっていて、どう撮られたらいいか、つまり自分の魅せ方がわかっている。そして朋香。誤解を恐れずに言えば、紫苑の口にした運命的な美しさを僕は彼女に認められなかった。


「褒め言葉はいらないわ。逆はもっといらない」

「あ、はい」


 朋香の顔。明日には忘れていそうだ。万一、どこかの道端で出会っても思い出せるか怪しい。そういう意味では、茜や響子にはそれぞれ趣の異なる華があった。朋香にはない。僕はそう感じた。敢えて口にすることではあるまい。それに直に会わなければわからないことだってあるだろう。


「それで勉強会では、西原さんと仲を深められるようなイベントは起こったのか?」

「可もなく不可もなしね」

「なんだそれ」

「朋香は古文が苦手なの。私もそんな得意ってわけではないわ。でも茜が勝手に『紫苑ならそういうの好きそうだし、教えてもらったら』って言いだしだのよ。それで、まぁ、何とか教えたわけ」

「満足していない顔しているな」

「そう。もちろん、一つには朋香といきなり間近で接することに慣れていなかったから、変に緊張しちゃって集中できていなかったのもあるけれど、それとはべつに私の古文知識が不足していたせいできっちり教えられなかったのがあるわ。残念ながらね」


 もちろんと言われても。のろけ話じゃねぇか。

 とはいえ、秘めた片思いなのだが。

 紫苑が何か他に言いたげな顔をしている。僕は催促はせずに、彼女が家からもってきた古文のワークをパラパラとめくった。見覚えがある文章がいくつかある。高校生のときはそんなに読まなかったが、大学生になってから古典の世界に本格的に足を踏み入れた―――というと聞こえはいいが、これについても例の西洋史講義と同じで退散は早かった。結局、有名どころで、かつ短めのを何冊か読んだに過ぎない。

 しかしまぁ、平安貴族や武士どもが浸かっていた恋愛観や死生観というのと比べれば、紫苑の抱える恋心のなんと可愛いことか。

 しばらくして「お兄ちゃん」とあらたまって紫苑が呼ぶ。僕はワークを閉じて机上に置く。


「前に匂いの話をしたでしょ?」

「うん」

「朋香っていい匂いがする」


 締まりの悪い蛇口から水が漏れ出たかのように紫苑はそう呟いた。


「急になんだよ、どんな反応すればいいんだよ、それ」

「きょどらないでよ、気持ち悪い。あのね、茜や響子からはそんなに感じないの。匂いそのものはあるわよ。でもそれを快いとまでは思わない。香水みたいな後付けの話じゃなくて、体臭についてだけれど」

「えーっと……なんだっけ、遺伝子的に相性が良いといい匂いって感じるんだっけ?」

「それよそれ。でもさ、お兄ちゃん。遺伝子云々ってことは生殖が関わってくるでしょ? だったら同性で惹かれあうのは妙だって思わない?」

「専門外だから追究されてもわからないって」

「ねぇ……朋香って私の匂いをいいと思ってくれるかな」

「それ、僕に訊いてどうすんだよ、マジで」

「あのさ――――確かめてくれる? 少しだけ」

「は?」


 紫苑が立ち上がる。僕は見上げる。そして彼女は僕の隣までくると、座る。


「触れないでよね」

「え、なに、どういうこと」

「私ってどんな匂い?」


 正面にある机に向けたまま話す紫苑の横顔、その頬が赤くなっていた。それが、朋香の話をするときとは違う感情によって染められたものだとわかっていた。

 合理的ではないと思った。なぜなら、僕が紫苑の香りをどう感じるかと朋香がどう感じるかはまったく別の事象だからだ。無論、同じ人類ではある。しかしそれなら、茜あたりにそれとなく頼めばいいではないか。紫苑の信頼の寄せ方はよくわからない。


「嗅げばいいのか」

「この距離だと何も匂わない?」

「女子の匂いがする、かな」

「それはそうでしょ。ほかには?」

「深呼吸してみていい?」

「え、キモ……」

「ひどくね?」


 フレグランスコーディネーターでもアロマテラピー検定資格保持者でもないんだから、詳しく分析できないっての。


「――――ぜったい自分から動かないでよね」


 戸惑うばかりの僕に紫苑はそう言うと、肩を寄せてきた。果たして僕らの距離はゼロになる。満員電車で寄せ合うのとは全然違う。女っ気が微塵もない部屋で僕は紫苑の傍にいる。僕は心の中で一秒、二秒と数えはじめた。


 三十七秒後、紫苑は無言で離れると立ち上がり、元の位置に戻った。ただしその顔は僕を見まいとそっぽを向いている。僕だって直視するのは気が引けた。なんなんだろうな、これ。仲良し兄妹だったら、くっついて座って何かするのなんて普通じゃないのか。僕らはなんなんだ? 


「どうだった?」

「……プルースト効果って知ってるか」

「知らない」

「嗅覚情報と記憶にまつわる現象であり効果。簡単に説明すると特定の匂いが特定の記憶と感情とを呼び覚ますってやつ。香りと記憶には密接な関係があるってわけ。ときに他の知覚以上に」

「たとえば?」

「ラベンダーの香りが、中学校のときの美術の先生との記憶に結びつくことだってある。僕の場合。その先生は、花が好きでよく描いていて、中庭の花壇の近くでも時々見かけた。そこにラベンダーが植えられていて、その前で話したことがある。中三の秋かな。たわいない話だよ。あのときは僕も先生も台風で花壇が台無しになるなんて想像していなかった。先生がしていたら、きっと何か対策しただろうな。それとも、そこまでするほどにはあの小さなラベンダー畑が好きではなかったのかもしれない」


 フランスの文豪であるマルセル・プルーストの著作『失われた時を求めて』中の描写に由来する効果だ。紅茶に浸したマドレーヌから甦る過去……。でも紫苑が知りたいのはそんなことではない。


「それがどうしたの?」

「今、思い出したんだよ。あの日の紫苑のこと」


 ――――遠い記憶と呼ぶには、まだあれから一年余りしか経っていない。


「いいよ、言わなくて」

「そう?」

「うん。代わりに私の話を聞いて。いいでしょ?」

「ああ」


 紫苑にとって、僕が彼女の匂いをどう感じたかはもう既に些末な事柄になっていた。むしろそれは初めからそうであるべきだった。僕は思う。紫苑は僕の匂いをどう感じたのだろう?


「私ね……朋香の香りに惹かれて、何度か抱きしめたくなった。彼女に触れたい。許されることなら。花に誘われる蝶の気持ちにはなれないけれど、でも恋をするというのがわかってきたわ」


 淡々と紫苑は。

 単なるスキンシップならできるだろ、と僕は言えなかった。その瞳に憂いがあった。紫苑はその後、昨日の勉強会については話さずに僕の部屋での勉強に集中した。英単語の不規則変化だったり細かい文法規則だったりを二人で確認しているときは他の何も考えずに済んだ。

 暗くなる前に、彼女を家へと送り出した。こじんまりした玄関、ドアノブに手をかけ、回さずに振り返った紫苑は僕に言う。


「テストがうまくいったら、朋香とふたりきりで出かけるわ」


 それは自分自身を鼓舞するための宣言やモチベーションアップの戯言ではなく、強かな決意だった。

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