10 少女は歌い、呼び、確信する

 食事にこれといって堅固な信条、確立された主義を持っていない紫苑であったが、たこ焼きやフライドポテト、から揚げ、ピザまでオーダーした茜にはげんなりしてしまった。

 

 紫苑は脂っこい料理が苦手だ。

 胃や腸、その他の臓器に問題があるとは考えていない。事実、強烈な胸焼けや下痢といった症状が料理によって引き起こされた経験に覚えがない。そうした身体的に刻まれた記憶よりも精神的な面が大きい。

 とはいえ、それはたとえば自身が過剰とみなす体重の増加や不摂生を避けたいと切に願う乙女心ではない。食べてたまるか、という拒む意志はない。

 紫苑が苦手とするのはそれらの匂いだった。

 少し嗅ぐだけで気分が悪くなるようなことはないが、嗅ぎ続けていると、たしかに精神衛生に歪みが生じる感覚に襲われる。そして皆が「美味しそう」であったり「食欲が湧いてくる」と口々にしている状況下で、紫苑はそういったことを感じなくなり、仮に同意を求められたら「そうだね」とは返す。

 内臓器官ではなく嗅覚に欠陥があるのだろうか? 

 よくよく考えれば、と紫苑は僕に話す。視覚や聴覚といったものは、学校主導で定期的に行われる健康診断においても視力検査、聴力検査といった形で計測され、その能力の高低がわかる。もし生活に支障があるレベルであれば矯正措置を提案される。ようは眼鏡やコンタクトの着用、補聴器の使用。

 翻って、嗅覚についてはどうなのだろう。目や耳よりは自覚症状に至るまでは難しいだろうか。どのように治療していくのだろうか。味覚と直結した影響があれば、本人もすぐに気づけるのかもしれない。人間は食べなければ生きていけないのだから。


「それでもやっぱり、嗅覚障害というよりも精神的な傾向だと私は思う」


 紫苑が言い、僕は頷く。だって他に何ができる? いや、言うことはある。どうして友達四人でショッピングモールを後にしてカラオケに行った話から、嗅覚障害の話に至るんだよ、という疑問であり抗議だ。


「それで? カラオケで茜って子が脂っこいものを次々に注文して、マジギレしたのか」

「そんなわけないでしょ。私だってね、女の子が砂糖菓子だけでできていないのは知っているわよ。ただ、あの朋香が、がつがつとお肉を食べているのはなんとなく嫌だったのよ」

「幻想を抱きすぎだろ。彼氏でもないやつの金で焼肉に週二でいっている女子大生を知っているぞ」

「また盗み聞き?」

「人聞きの悪いことを言うなっての。馬鹿笑いしながら、くっちゃべっているから聞こえてくんだよ。大きな講義室ならともかく、小さくてもお構いなしだもんなぁ、あいつら」

「まぁ、でもお兄ちゃんがイケメンだったら控えたかもね」

「なんだよ、イケメンには消音効果なんてのもあるのかよ」


 むしろ黄色い声が増えるだけなのでは。どちらにせよ自分に関係ないからどうでもいい。


「でもさ、そうかもね」

「えっ、なにが?」

「幻想。抱いているかもって、朋香に。そういうのって正しくないよね。ありのままを好きになれないって間違っているよね」

「自己を含めて、人間理解なんて誤解と思い込みがつきものだろ」

「また一般論?」

「そうだよ。とりわけ恋愛にありがちだろうよ、そういうファンタジー。おとぎ話は無法地帯だ」

「よくわかんない」

「カラオケで西原さんに幻滅するような出来事があったのか?」


 僕の問いに「まさか」と紫苑はかぶりを振って、やっと続きを話し始めた。試着室問答と比較するなら、手短な話であった。


 紫苑は茜が注文した料理を、飲み物で流し込むようにしていくらか食べた。他の三人が歌に夢中になっているときに、なるべく自然を装ってつまんでは食欲を満たすために口に入れていた。お腹自体は空いていたし、気を紛らわせたかった。

 隣には朋香が腰掛けていたのだ。二人の距離は、目の前に並んで腰掛ける茜と響子と比べて長く、間にもう一人悠々と入れるぐらいだった。それでもなお、紫苑は緊張していた。

 最後に紫苑がカラオケを訪れてから半年余り経過していた。茜と友達になってすぐの頃に一度行ったきりであり、それが紫苑の高校生活におけるカラオケ入店記録のすべてだった。


「はい♪ じゃあ、次は紫苑ちゃん。楽しみだなー」


 流行りのポップなCMソングを歌い終わった響子が、選曲用の端末とにらめっこしている紫苑に言った。うまかった。きらきらしていた。ノリノリだった。全部が紫苑の緊張を高めた。


「……合唱部の響子に期待されるのはプレッシャーね」

「え~? 私、合唱曲なんてカラオケで歌わないよ」

「それはそうだろうけれど」

「紫苑が歌いたいなら入れよっか。あたしが中三のときに歌ったやつでいい?」

「なんでよ」

「そうだなぁ。朋香ちゃんがソプラノ、紫苑ちゃんがメゾソプラノ、茜ちゃんがアルトでちょうどいいかもね。あ、歌声は聞いたことないから、あくまでイメージでね」

「響子はどうするのよ。ちょうどじゃないでしょ、それじゃ」

「指揮をやります」


 座っていた響子がすっと立ち上がった。見えない指揮棒を振る。楽しそうだった。


「紫苑、なに硬くなってんの。あたしと歌う?」


 チーズたっぷりのピザを食べた口をペーパータオルで拭った茜が言う。そして何曲か挙げる。「前に歌っていなかったっけ?」と訊いてくるが紫苑は覚えていなかった。茜と行ったときに、自分が何を歌ったか、そして茜が何を歌っていたのかも記憶にない。悪いけれど。


「いや、鼻歌で。学校にいるときにさ」

「歌っていないわよ」


 歌っていないわよね? と念のため自問してみる紫苑だった。大丈夫、歌っていない。紫苑が学校でそこまで上機嫌になることはまずない。響子が授業中に早弁するぐらいにない。


「ほら、貸しなよ。ごめん、朋香、ちょっと間いい?」

「うん。どうぞ」


 茜が紫苑と朋香の間に移動してきた。それで思わず、膝に抱えるようにして持っていた端末を紫苑は落としそうになった。おいおいおい、それはないでしょ。たしかに話せていなかったし、目も合わせられていなかったけれども。


「はい、これでいいっしょ? 歌おうよ。ストレス発散にもなるしさ」


 茜が曲を選ぶ。一曲目に予約。すぐに画面が切り替わる。流れてくるイントロ。……サビ以外、おぼろげな曲だ、これ。

 茜は「ね?」とマイクを渡して紫苑に握らせる。やっと紫苑は気づく。茜は気を遣ってくれているのだと。紫苑が悩んでいるのがわかっているから。もっと言うと、ショッピングモールでそのことを否定しなかったことで、悩んでいると確認がとれたのだから。ひょっとして今日遊びに誘ったこと自体が全部、自分を励ますため? それはないな、連休だから遊びたかっただけだ。それに、それとこれ――――朋香の様子を横目でうかがうことができなくなってしまった――――のはべつである。


「しかたないわね。わからないところはフォローしなさいよね」

「ぶっ。いきなり気合入れすぎでしょ! 楽しければいいんだって! 採点機能だって切っているし。んじゃ、せーの……」


 え、もう? と思いつつ紫苑は茜の言ったタイミングで歌いだす。

 ずれた。まだイントロだった。


「っ!! ちょっ、おま、なに恥かかせているのよ!」


 正面で響子が我慢することなく笑って、朋香もくすくすと笑っているようだった。その顔を見たかったというのに茜が「ほら、ここから、ほら!」と笑いながら画面を指差すものだから見れなかった。それで紫苑もついつい笑ってしまった。楽しくなってきた。


 朋香は前の学校ではカラオケ通いの友達がいたらしく、カラオケそのものには慣れており、歌い方もそれらしくなっていた。紫苑がおこがましくも相対評価するならば、そのうまさは茜や紫苑とそんなに変わらず、響子と比べるとぱっとしないのも同じだった。僕はそう話した紫苑に「恋は盲目と言うけれど、耳まで惑わしはしないんだな」と言ってみた。すると紫苑は溜息をつく。


「お兄ちゃんには未来永劫、わからないだろうけれど、朋香ってね、ささやき声が魅力的なのよ。歌声よりもずっとね。だからウィスパーボイス調の曲を歌っていたら、脳みそがとろけてしまっていたかもしれないわね」


 また真剣な表情をしているんだろうな、と僕は電話の向こう側の紫苑を想像した。

 ちなみに紫苑がそのささやき声を享受したのがまさにそのカラオケ中であったそうだ。茜が元の位置に座り直して、四人でおしゃべりしながら歌いつつ、食べつつ、飲みつつを続けていた最中に、朋香が少しずつ紫苑との距離を詰めてきた。

 茜や響子が歌っているときには気を散らさないようにと、朋香は紫苑にささやいて話したらしい。無論、紫苑は歌ではなく朋香のささやきに全集中力を傾けていたわけだ。それは幸せな時間だった。

 

 音楽の趣味について話してみると、朋香は流行りのポップスに人並みに明るいが、どちらかと言えば動画配信サイトを活用して気に入ったアンビエントやヒーリング系の曲を勉強中に聞き流しているのが多く、一部の安らぐクラシック曲もその流れで聞くのだという。

 対して、紫苑は家だろうと図書館だろうと勉強する際には、音楽というのをまったく聞かない。歌詞の有無は関係ない。どうしてと訊かれてもうまく答えられない。前に茜にも同じ話をしたときには「へぇ、そうなんだ」と言われて終わったが朋香は紫苑に「よかったら試してみたら」と言う。

 おすすめを教えてくれるよう頼んでみると、嬉しそうに了承してくれる。そっか、こういうふうに人と人って仲を深めていくんだって紫苑は今更ながら思う。響子だって今日は私と仲良くなろうとしてくれるのがわかる。そうか、こういうルートもあるんだ。


「茜のときはね、ちがったんだよね。友達のいないお兄ちゃんにはつらい話になるかもだけれど。茜のときは……同じものを、好きなものを共有するってのは全然なくて、むしろ、お互いの趣味が違って、それでいいじゃんって感じだった。そんなのダメだって否定はしなくても、自分は嫌だな、自分にとっては違うなって思ったらそのまま言う。でもね、そればかりじゃ仲良くなんてなれないよね。普通はさ。なのに、いつの間にか、全部まとめて『それでいいじゃん』になっていた。わかる?」

「共有よりも尊重、ようするに茜さんと紫苑は最初から気の置けない仲からはじまって、それがそのままちょうどいい距離感を維持しているってことか」


 近すぎず、遠すぎず。


「紫苑がいい友人を持っているのはわかったから、さっさと西原さんを名前で呼ぶ話をしてくれよ」

「……わかっているわよ」


 そして僕らの長電話の終わりが見えてきた。


 紫苑たち四人がカラオケで過ごして二時間が経った頃に、紫苑はトイレへ行くために一人で部屋を出た。ちょうど朋香が歌い終わったところで、響子と顔を合わせてきゃっきゃっとしていた。選曲中の茜が「いってらー」と言って送り出してくれる。


 用を済まして洗面台で手を洗い、トイレを出るとすぐ近くで朋香が待っていた。トイレは複数の個室があり、空いている。使用するのに待つ必要はない。「どうしたの?」と声が出る前に、朋香が「あの!」と声をかけてくる。何か話があるようだ。

 もしかして愛の告白? 紫苑は自分の脳裏によぎった想像を打ちし消すと、彼女自身をひっぱたきたくなったが、そうすると朋香が困惑するのは間違いないのでやめておいた。


「あのね、紫苑――――わ、私のことは朋香って呼んでよくってよ……!」


 朋香の言葉に、紫苑の目が点になった。わざわざふたりきりになれる場面を見計らっていたのかと思うと、そのいじらしさに心がざわめき、甘ったるいメロディを奏ですらしていた。


「ありがとう。そうするわ、朋香」


 紫苑はその名前を、目の前にいる彼女の名を口にした瞬間に確信した。

 私はこの子に恋している、と。後戻りできない、どこか未知なる世界へと連れて行かれる心地がした。あの日、あの夕暮れに染まった放課後の教室でこの子の名前を口にしてみたときよりも、何倍も、何十倍も自分の心が震えた。それは危険にも感じた。けれど、だからこそなのか、その美しい香りに誘われるがままになるしかなかったのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る