09 少女は試着室で想う③
紫苑と朋香が試着室の内とすぐ外とで向かい合い、交わすべき次の言葉を探していたとき、響子が服を持って現れた。その後ろに茜の姿もあった。
「これにするわ」
そして紫苑は三人に対してそんな言葉を投げかけた。宣言と呼ぶには照れ臭さが勝ってその場に投げ込んだ調子で。「ふむふむ」と響子が紫苑を、つまりは朋香の選んだ服を着た彼女をじーっと上から下まで見やった。茜は「へぇ、いいね」と言ったきりだ。
「じゃあ、朋香ちゃんが優勝ってことで! 負けたぁ~」
響子が勝敗を判定した。茜がぱちぱちぱちと小さく拍手をする。当の朋香はその勢いに乗って、ありがたがるのかと思いきや、腑に落ちない顔をしていた。
「あ、あの! 私、ふたりが選んだコーデを見ていないよ?」
「いいんじゃない? 紫苑がそれを選んだんだからさ。あたしは本人の意思を尊重するよ」
もっともらしいことを口にした茜だが、コーデ対決においてルールを事細かに決めていなかっただけであった。いつもの紫苑であれば全員が各々のコーディネートをチェックしたうえで皆で講評を行い、それで最優秀たる人物を皆で決めるといった筋の通ったやりかたを好む。とはいえ、今回については、まず紫苑自身が対象であったこと、それに紫苑にとってはどう転んでも優勝するのが朋香に決まっていたのが、公正をかなぐり捨てる結果を導き出していた。
「でも、もったいないやり方をしちゃったね。紫苑ちゃんのお着替え、もっと見たかったかなー、なんて。朋香ちゃんもそう?」
「う、うん」
「……。響子が選び直してくれたそれは着るよ。持ってきてくれたんだし」
「それはいいかな」
「え?なんでよ」
「そんな、やれやれって感じで着られても私も服も惨めでしょ?『響子が選んでくれたんだから、着たいんだ。ダメか?』みたいに言ってくれたら考えるけど。薔薇でも咥えて」
「あー、少女漫画に出てくるイケメン王子様的な? あたしはそういうの趣味じゃないなー」
「響子と茜の趣味はどうでもいいけれど……」
「それに紫苑の顔見ればわかるよ。それ、気に入ったんでしょ。あたしも朋香の優勝に異議なし」
「紫苑ちゃんは意外と顔に出るもんね。って、今日わかったことだけど。ふふっ」
「それはその、響子みたいにいつもにこにこしていないってだけで……。じゃあ、もう元の服に着替えるから。これ、買う。ほら、みんなはお店の外で待っていてよ。――――それと」
紫苑はカーテンに手をかけ、閉め切ってしまうまえに朋香とやっと目を合わせた。「ありがとう。あと、おめでとう?」と伝えた。朋香は「どういたしまして」と微笑んでくれた。
三人に促され、紫苑は買ったばかりの服に結局は着替えることになった。お手洗いの個室を借りた。変装でもしているみたいだ、と紫苑は思った。出る際に、全然知らない高校生らしき女の子が数人で化粧台を陣取っているのを横目にして、紫苑は少しメイクにも関心が向いた。それまでの紫苑が一切メイクをしてこなかったかといえば嘘になるが、けれど進んでする場面というのがなかった。僕はまた一般論を持ち出して「そういう場面を自ら作っていけばいい」や「いずれ毎日ちゃんとしないとって思う立場になるよ」とも言ってみた。
「お兄ちゃんさぁ、見当はずれもいいところよ。このお手洗いでの話のポイントをまるでわかっていないんだから」
「というと?」
「化粧台を陣取る高校生。誰に見せるつもりなのか、誰にでも見せるのか、自分を化かして
臆面もなくそんなことを打ち明ける紫苑。電話越しなのだから文字通り、その面は見えない。だが確実に彼女が、僕がこれまでにほとんど目にしたことのない表情を浮かべているのがその声色からわかった。僕は彼女の兄としてどう反応するのが適当なのだろう? 仲良し兄妹なら「おいおい、何言っているんだよ。酔っているのか?」と笑ってしまえるのかもしれない。少なくとも息を呑むなんてことにはならない。
「聞かせてくれよ。それからどうやって、西原さんを朋香と呼べたのか」
「わかっているわよ」
「『よくってよ』だろ?」
「張り倒すわよ」
押し黙った僕に紫苑は続きを聞かせてくれる。場面は、彼女たち四人がアクセサリーショップに入ったところに移る。小さな区画をあてがわれている店舗だ。ハイブランドを扱っておらず、貴金属類が大事に収められているケースも並んでいない。品揃えのバリエーションと安価を売りにしている店だった。すなわち中高生がお手軽に購入できるものが多くある。プレゼント用ではなくて、たとえば友達同士でお揃いを選んで買うのにもぴったりな。
紫苑が、店の中央に位置するステンレステーブルにこれでもかと並べられた腕飾りと髪飾りをしげしげと眺めるふりをしつつ、首飾りのコーナーをうろつく朋香の動向をうかがっていると、すぐ背後にいる茜と響子のやりとりが聞こえた。
「なぁ、響子。参考までに聞くけど、今日つけているネックレスは高級なやつ?」
「高級って言われると、うーん……ってなるけど、安くはないよ。二年生になったときに、進級祝いでパ……父に買ってもらったの」
「べつにパパって呼んでいるならそう言えばいいじゃん」
「だって、最近だとそういうアレで、ってそれよりネックレスの話だよね。茜ちゃんは今日つけていないけど、もしかして興味ない人?」
「うん、興味ない人。でも、響子が選んでくれるんなら、つけてもいいかも」
「わーお、そういうのいいね。茜ちゃん、クラスの男の子相手に簡単にそれ言わないでね」
「言う機会ないっての」
以前はそうでもなかった。ふたりの話に、紫苑は一年生の頃の茜を思い出す。友達と呼べる関係性になって最初の頃に休日に会ったときの茜はロック系のアクセサリーをこれ見よがしにつけていた。いくつもだ。紫苑がその時「首輪」と表現したレザーチョーカーは紫苑目線では茜に似合っていなかった。全体として、茜が二十歳過ぎにでもなれば、調和するようなアクセサリーばかりだとみなしすらした。紫苑は茜には遠慮しないと決めていたので、似合わないからせめて自分と歩くときはやめるよう頼んだ。
「あっ、そっか」それが当時の茜の返答だった。紫苑は茜に確かめたわけではない、しかし察した。脱力した声で、何度か「そっか」と繰り返した茜に紫苑は素の彼女を見つけた。
茜はいわゆる高校生デビューというのを最高の形で果たして、あの日、失恋するまでは誰かに求められる新堂茜を貫いていたのだ。その誰かというのが周囲の人間全般を指すのか、特定の相手を示すのかまでは紫苑にはわからない。聞かないことにしている。いつか、近い将来でいうなら高校卒業までには茜のことをより深く知るのかも、と思ってはいる。
そんなわけで「以前から本当はごてごてとしたアクセサリーに興味がなかった」というのが正しいのだろう。そこまで思い至ると、紫苑は試着室での一件を振り返った。悩みがあるなら、ううん、よかったら聞かせてと彼女は言っていた。それを紫苑は、朋香に気をとられるどころか心を奪われたがために忘れてしまっていた。それが後ろめたくなった。
紫苑は僕に言う。
「それでもね、私は今のところ茜にこの悩みを明かすつもりはないわ」
僕がなぜと問う前に、紫苑の話はアクセサリーショップに戻る。
紫苑は茜と響子から離れ、朋香のもとへと近寄った。足取りは重い。気は滅入っておらず、昂ぶっているにもかかわらず、むしろだからこそ朋香に近づくのがなんだか怖くもあった。冷静でなくなって失言や失態をしてしまうのではないかって。さっきみたいに間の抜けた自分を晒すのは嫌だ。けれども紫苑は心に決めてから、つまり朋香になんと声をかけるかを考えてから一歩、また一歩と彼女へと進んだ。「ねぇ」と朋香のすぐ後ろまできて、紫苑がそう口にした。振り返った彼女が小首をかしげる。
「今度は私が選ぶから」
そう言うと、紫苑は返答を待たずに朋香の横に立った。目の前には数多の首飾りが整然と並べられている。三つ置かれているトルソーにはそれぞれ何重にもかけられてもいた。首回りに特化したそれらはどこまでも無性的であった。
先端に装飾品がぶら下がっているタイプと、飾りと鎖部分が一体となったものとが分けて置かれている。近くで見てもただの光沢のある紐にしか見えない代物もある。紫苑は目を滑らせていく。朋香にはどれが似合うのだろう?
「これなんて、どう」
がらがらとした声になった、と紫苑は僕に説明する。勇気を振り絞ったのだと。
紫苑が朋香に勧めたのは三日月をモチーフにしたピンクゴールドのペンダントだった。手に取って差し出せはせずに、指で示すにとどまった。
「正確な月齢を読むとすれば三から四に近いとは思う」
「そうなんだ」
「あ、ええと、今のは忘れて。そんなことを言いたかったんじゃないから」
「ひょっとして名前で選んでくれた?」
「……うん。西原朋香の『朋』って月が二つ連なっているから」
朋香は紫苑が指差した三日月のペンダントをそっと優しく手に取って胸元にあててみた。綺麗だ、と紫苑は思った。それを言葉にできればいいのに。けれどできなかった。それから朋香が紫苑に訊ねた。なにげなく。
「紫苑は嘘や隠し事って許せないタイプ?」
そのとき初めて朋香は、紫苑を名前で呼んだ。紫苑はそれを後になり思い出してみて「そのはずよ」と僕に説明した。紫苑は名前で呼ばれたことよりも、微笑を浮かべたままの朋香が発したその内容に衝撃を受けた。心を激しく揺さぶられてしまった。底のない陥穽に突き落とされる感覚を紫苑は味わったのだった。
嘘や隠し事――――朋花は自分のことを何か誰かから聞いたのだろうか?
「それはどういう意味?」
紫苑は額から嫌な汗がじんわりと出るのがわかった。そして冷たく、低く、震えた声が朋香に届いたかわからず、もう一度繰り返そうとした。だが、そうする前に朋香が口を開いた。彼女は笑みを失くして、当惑していた。
「あ、あの……ただ私は『朋』っていう字が本当は月じゃなくて貝を表しているのを伝えるか迷って……紫苑は、嘘や隠し事って嫌がりそうだから……それだけなんだけど……ごめんなさい」
ふっと肩の力が抜けたのを紫苑はありありと感じた。数秒のうちに岩のようにこわばった全身から緊張がなくなって、その場にへなへなと倒れ込みそうになるのを何とか我慢した。
「謝らないで。私はべつに、嘘や隠し事を絶対に許せない人間で、今の発言に憤慨したのではないから。全然違う。そうじゃないの。でも、うん、そうね……私もそれだけ。気にしないで」
そうして紫苑はほとんど無意識に朋香の手から、というよりその指から三日月のペンダントをとって元の場所に戻そうとした。が、それは現実には朋香の指先に手をかけた段階で阻止されることとなった。
「私、これを買う。紫苑が選んでくれたものだから」
「けれど、それは」
後が続かなかった。まだ気持ちがすっかり落ち着いていなかった。
「私が月で紫苑が星。なんだか素敵だと思わない?」
朋香が努めて笑みを示してくれたのを紫苑はわかった。そしてそれに紫苑も応じた。ぎこちない笑顔が向かい合っているところに、茜と響子がやってきた。それはまるで先の試着室のときの再演だった。
「へぇ、今度は紫苑が朋花に選んであげているんだ」
当てずっぽうなのだろう、茜が両者を見て口にする。そのとおりよ、と頷いてみせる紫苑。響子は「月のネックレスだね。満ちては欠けるを繰り返す、永遠の美のシンボルよ」と売り文句めいたことを言いだす。
「ふうん。いいじゃん」
「茜ちゃん、そればっか~」
「ダメダメだって思ったら、そう言うよ。ばっさりね」
「茜ちゃんたちもいいのを見つけたの?」
「聞いて、聞いて! 私、茜ちゃんにね、選んでもらっちゃった! えへへ」
「あたしはお金出していないけどな」
「それはいいの!」
紫苑は場の空気がふわりと柔らかくなるのを感じた。そこでようやく、今日はふたりきりという冒険をしなくてよかったと思えた。これぐらい、朋香の一挙一動にいとも簡単に揺さぶられてしまう自分が、もしもふたりきりで出かけていたのなら、と考えるだけで背筋を嫌な汗が這う。
その後、紫苑と茜は何も買わないまま店を出た。時間帯は昼食にうってつけの頃合いになっていた。フードコートに行くかどうかで話し合い、混雑しているだろうからとうことで、次はカラオケに向かうことになった。そこで飲み食いしながら、歌って、おしゃべりすればいいのだと。ゲームセンターや映画館が予定にあったような気がしたが、茜たち三人がそこに行きたがる素振りがなく、そして紫苑もそれをよしとしてわざわざ言わなかった。
それに、と紫苑は想像してみた。映画館で、たとえば真横に朋香がずっと腰掛けていたのなら、きっと集中なんてできない。もしも真横じゃなくて誰かの隣だったとしても、それはそれで気になってしまう。だからよかったのだ、と言い聞かせた。
かくして四人はモールを出た。雨天の下、徒歩で十五分ほどの場所にあるカラオケへと歩き始めた。
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