08 少女は試着室で想う②

 その店の試着室は、従業員がいっしょに入る場合も念頭に設計されているのか、広々としていた。そのため、紫苑と茜の二人が身体を寄せ合うことにならずに済んだ。僕は「そういえば、車椅子利用者のためにかなり広く設計してあって、手すりもついている試着室を用意しているお店もあるんだってな」と言ったが「それ、今は関係ないわよね」と一蹴されてしまった。たしかにそうだ、バリアフリー対応の件ではなく、紫苑の友人が紫苑に迫った件を話しているのだった。


「茜、それってこんなシチュエーションで訊くこと?」


 紫苑は茜を虫でも追い払うような仕草をして、出ていくのを促した。けれど、茜は素直に従う素振りはない。


「普通に訊いても教えてくれないじゃん。ちがう?」

「あのさ、いくら女同士だからと言って、一人で着替えをするスペースにいきなり入ってこられて大真面目にそんなふうに訊かれたら驚いてしまうわよ。このタイミングでないとダメ?」

「逃げ場がないのがちょうどいいかなって」

「あのねぇ……」

「どうなの? あたしに話せそうにない悩みなの?」

「悩んでいる前提?」

「そりゃあそう。心当たりが全然ないのなら、すぐにそう言うじゃん。『は?何言っているの? 悩みなんてないから。さっさと出ていって』って。そうでしょ、紫苑」

「……下手な物真似」

「けっこう似ていると思うけど」


 茜はそう言うと、試着室から出る。引き際をわかっている。彼女は何も試着室内で本腰を入れて相談に乗るつもりはなかったのだ。カーテンをさっと開け、さっと閉じる。それから「着替えなよ。朋香が待っている」とカーテン越しに声が聞こえた。

 その言葉に紫苑は揺らぐ。待っている、ということはすぐ近くにいるのだろうか。試着室前、茜の視野に収まる範囲内に。だとすれば、朋香は紫苑がいる試着室から茜が出てくるのを目撃したってこと? 変に思われていなければいいけれど。

 着替え終わって試着室から出ると、茜が小声で「よかったら聞かせてよね。あたしじゃ頼りにならないかもだけどさ」と言ってくる。紫苑が何か返す前に、茜が「ほら、行ってあげな」と軽く肩を叩いた。朋香は店の外で待っていた。つまり、響子と同じ店で服を選んでいて、それで紫苑を呼びにきたらしかった。二着目を選んでいる最中の響子はともかく、茜もついて来なかった。


 二人のときと同じように紫苑は朋香に試着室前で服を渡され、そして試着室へ入った。「きっと似合うよ」と微笑む朋香に胸が高鳴った。

 けれど、茜のことも考えずにはいられなかった。紫苑は朋香との夕暮れの邂逅があって以来、心の中は竜巻が蹂躙し、安静を失っていた。しかしながら、それはあくまで内面的な事態に収まっていると認識していたのだった。すなわち、表面上は変わらないと。何一つ。微々たる変化に気づくような、親密な関係にある友人も紫苑にはいなかった。茜はそれに該当しなかった。少なくとも紫苑の側はそう考えている。ドライな見方ではない、現実的というだけだ。

 たしかに茜は例の一件の後にいわゆるスクールカースト上でそのポジションを下へと移ったものの、かつての友人すべてが彼女を見限ってしまうことはなく、紫苑が話したことのない子とつるんでいるのは今でもよく目にする。そういった子たちこそ、茜にとって真に親しい友人であるよう傍からは見える。裏を返せば、茜にとっての紫苑は友達の一人に過ぎない。

 それならば、紫苑が茜という人間の評価を見誤っていたのだろうか。茜は紫苑が思うよりもずっと他人を気遣うのが上手で、些細な立ち居振る舞いの移り変わりから心境を見抜く力を持っているとでも? まさか、と紫苑は思った。茜を見縊る気はないが、彼女が注意深い人間だとは信じ難い。おそらくは無自覚に心の内を、たとえば大きなため息という形で間接的に吐露してしまい、茜に偶然、気取られてしまっただけだろう。とはいえ、それが朋香絡みの悩みであるとまでは知られていないはずだ。ましてや朋香に特別な想いを抱いているなど、そんなの茜は露にも推し量っていないに違いない。


 紫苑は冷静沈着に、彼女自身のうちでひとまずの結論を出してしまうと、深呼吸をして試着室内の鏡を見やった。意識を自分に、いや、朋香が選んでくれた服を身に纏った自分に合わせる。

 次の瞬間、「可愛い……」と紫苑は呟いていた。


 紫苑がカーテンを開くと、朋香が俯き気味に、気恥ずかしそうな面持ちでそこに立っていた。着替えた紫苑を目にすると、ぱっとその顔色が明るくなった。花が咲いたみたい、と紫苑は見蕩れた。


「ど、どうかな?」


 朋香はこわごわとした口調をしていながらも、その眼差しには期待があった。天邪鬼な気質がある紫苑は「西原さんはどう思う?」と質問に質問を返した。朋香が紫苑の言葉をほしかったのは理解していたが、それ以上に紫苑は朋香の言葉を、この胸の高鳴りをより大きくするようなそれを望んだのだった。


「すっごく、似合っている。私、中野さんの名前も綺麗だって思うんだ」

「名前?」


 予期しない話題の飛躍に困惑する紫苑。朋香は「えっと、つまり……」と数秒、考えをまとめる様子を見せた。そういうときの思案顔もまた紫苑は気に入った。


「覚えていないかもだけれど、前に、放課後の教室で会ったときに私の名前、褒めてくれたでしょ? 綺麗だって。ちょっとしたやりとりだから、忘れていてもしかたないんだけど」

「覚えているわ」


 忘れるなんてありえない。大切な思い出になっているのだから。


「それで私、名簿を確認して中野さんの名前を知って。紫苑……花の名前だよね」

「あ、うん」

「えっとね、だから思い切って紫苑の花をイメージしながら選んでみたの」


 紫苑はこれまで与えられた自分の名前に沿って衣類を選んだことはない。紫色――――青と赤の間色という広義で言えば大概のデニム生地をそう呼べなくもないが――――は紫苑にとって半端な色であり、そしてそれが持つイメージが高貴や優雅、ミステリアス、スピリチュアルといったものであるのを知ってから、ますます縁遠く扱ってきた。紫苑はそれらの心理的効果を皆、自分と人とをいっそう隔てる障害であると感じた。これまでの人生で自分から人に積極的に関わったことがほとんどない。しかしそれは紫苑が孤高を目指しているのを意味はしなかった。ようするに、近寄りがたい雰囲気を進んで身につける気はさらさらなかったのだ。


「淡い紫色、似合うだろうなぁって。中野さん、大人っぽいから。それに調べてみたら、紫苑の花ってアスター属っていうのに分類されているの。そのアスターって星っていう意味なんだよ。花の形が由来だったはず。でね、これは小耳に挟んだ話だけれど、中野さんって天文部なんだよね? だから、ぴったりだって」


 紫苑は履いているスカートに目をやる。光の具合によって透け過ぎるのでペチコートが必要だった。

 その淡い紫色に染め上げられた生地は夜空、散りばめられているのは星々。五芒星ではなく点に近いから子供っぽさがない。


「トップスは刺繍つきのと悩んだけど、すっきりしていたほうがトータルのバランスがいいかなって」


 たしかにシンプルで肌触りのいい白ブラウスだった。朋香が穏やかな笑みを紫苑に向ける。花も星空も、この子には敵わない……そんなことを思った。


「どうかな?」


 もう一度、朋香は紫苑に訊く。存外、押しが強い。紫苑は「うん、いい。すごくいい」と返す。顔が火照るのがわかった。まともに朋香を見られなくなる。両手で顔を覆ってしまうわけにもいかないし、かと言って朋香の目を覆うのも珍妙だ。

 もしも抱きしめたなら、それを彼女が許してくれるのなら……日常的にスキンシップをしている女の子であれば成し遂げられただろうに、と紫苑は歯がゆくなった。

 そして紫苑は逃げ場を探した。当然、最も手軽なのは試着室の内側、カーテンを閉じてそこに引きこもってしまうことだった。だがしかし、颯爽とそういった行動に出れば、朋香はどう思うだろうか。良い印象は受けないはずだ。さっさと着替えてしまいたいのかな、なんて。

 だとすれば、と紫苑は考える。もう、これを買ってしまえばいいんだと。それをして皆に勝者が誰かを知らしめればいいのだと。なんだったらこのまま着替えずに従業員を呼びつけて、は今日の人入りだとハードルが高いからやめておこう。とにかく買う。朋香にいかにこの服が気に入ったのか、彼女の選択、彼女が私のためを想ってくれたのがどんなに嬉しいのかを示す。そうだ、これでいこう。


「あの、中野さん」


 方針を固め、いざカーテンを閉めようとした紫苑に朋香が声をかける。


「せっかくだからこれからは紫苑って呼んでいい?」


 マジか――――今度は声にならなかった。

 紫苑はかろうじて首を縦に振る。そうしてから「ええ、よくってよ」と返した。震えた声ではじき出されたその言葉に二人とも一瞬固まった。

 そして「えっ」と朋香が口にするのを耳に入れてから紫苑は試着室をひとりの空間にした。


 紫苑から試着室問答を聞いた僕はツッコミを入れざるを得なかった。明かしたからには、紫苑もそれを甘んじて受け入れるのものだと信じた。


「なぁ、紫苑。いつからご令嬢になったんだよ」

「…………」

「ここ笑うところか?」

「…………」

「なんだよ、『よくってよ』って。せめて、『よろしくてよ!』だろ」

「変わらないわよ!」

「そのとおりだな。一体全体、どうしてそんな返事になったんだよ」

「ああ、もうっ! いいでしょ、そこは! スルーしてよ! 敢えて教えてあげたのは、そのときの私ってのが朋香の提案に心かき乱され、最適な答えを口にできなかった状況を理解してほしかったからなのよ! それ以上でもそれ以下でもないわけ。スルーしないのなら、お兄ちゃんは、いたいけな妹のデリケートな胸の内をすべからく汲み取り、優しく声をかけなさいよ!」

「――――『朋香』?」


 今、紫苑はそう言った。『西原さん』ではなく。僕相手でもこれまで『西原さん』だったのに。


「……なによ」

「ちゃんと呼び合う仲になったんだな」

「……それをこれから話すのよ」


 そして紫苑は出来レースのコーデ対決の決着について話し始めた。

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