04 少女はふたりきりになりたがる

 紫苑が朋香とふたりきりで、連休のうち少なくとも一日を理想的に過ごすには、乗り越えなければならないプロセスがいくつかあるそうだ。

 いくつも、と紫苑は訂正する。

 僕からすれば朋香を遊びに誘うことは、紫苑を通じて知り得ている朋香の性格、そして二人が同級生かつ同性で、話したこともある関係性からして難易度はハードではない。むしろイージーだ。

 ゲームみたいにはいかないのよ、と紫苑に苦言を呈されてしまうが、真面目な話、ちょっとばかり勇気を出して遊びに誘ってあげれば用事がない限りは乗ってくれそうなものだった。


「けれど、ふたりきりなのが重要なのよ。ふたりきりであるのが好ましいと錯覚を起こさせるシチュエーションを企てなければならないの。他の人がいては都合が悪い、ようは邪魔なのよ」

「そこだけ聞くといかにも犯行に及びそうな人間だな。なぁ、まずは多人数でもいいんじゃないか。変に意識してうまく話せずに気まずい時間を過ごすより、その場の空気を利用して仲を深められるほうがいいだろ? 一般的に」


 こういうとき、相談に乗る側が友人の少ない人間であると、頼りになるのは一般論であった。


「白黒つけたく思っているの。そうするにはふたりきりでないといけない」

「それってつまり、西原さんに恋しているか否かってことか。前に僕たちが会ったときからもう半月近く立っているのに、まだそこで悩んでいるんだな」

「ずるずると、ね。本当だったらお兄ちゃんにこんな時間に相談せずに自分ひとりの力で彼女を誘いたかったわよ、もちろん。昼休みに人気のない場所でふたりでランチだったり、下校時にふたり寄り道したりだとか。そういうのでも。ぐずぐずしているうちに、連休前になっていたの。それで嫌だなって」

「嫌?」

「数日間、西原さんに会えないのが」

「それはもう恋なのでは」

「まさか。これだけだったらペット相手でも寂しくなるわよ。それに……急にね、怖くなったの。もし連休前にきちんとした会話もなしに別れて、それっきりになったらって。そういうのって絶対にないとは言えない、でしょう?」


 僕は「そうだな」と短く返答する。愛が重いなぁ、と笑い飛ばしてしまうには、紫苑の感じる恐れというのは複雑だ。それは時間をかけて、ほぐしていくしかないものだった。


「あのさ、紫苑。考えてみてほしい。紫苑は、西原さんと恋人同士がするような行為をしたい? そうしたい衝動に駆られることってあるのか」


 本題から逸れ、むしろ紫苑にとっての暫定的初恋の本質的な部分に一歩踏み込んで僕は訊ねる。


「仮にだけれど」


 紫苑は声をいっそうひそめた。夜更けも夜更けの時間に耳にする声は月光よりも不確かだ。


「そうしたいと望む私がいて、物事が馬鹿みたいに上手く運んで、西原さんとたとえばキスの1つでもできたその瞬間にね、『ああ、なんか違うなあ』って感じたら? 万一そういう事態に陥ったとしたら、それまで抱えていたのは何になるのよ」


 存外、無垢な物言いに僕は彼女が「まだ」十六歳であるのを再認識する。あと数カ月すれば十七歳になるといっても、まだまだ十七歳なのだ。かく言う僕にしたって十代という括りでは彼女と同じだ。


「これは知り合いの女の子から聞いた話なんだけれど……」

「知り合いの女の子? いないでしょ。嘘つかないでよ」

「講義中、偶然近くに座って話していたのが聞こえたのだけれど……」


 見栄を張ってる場合ではなかった。


「駅のホームで、深い口づけ何度も何度も交わしている若いカップルを見たらしいんだ。午前十時過ぎで、それなりに大きな駅だったから、それなりに人が周囲にいた。彼女が言うには、舌先、口の中まで火傷しそうな勢いだったそうだ」

「それで?」


 紫苑の声には動揺があったが辛抱して話を促してくれた。


「話し手の女の子はその恋人たちがおかれている局面を想像した。そのカップルには何かやむを得ない事情が、不条理で理不尽な、永遠にも等しい別れというのがすぐ近くに迫っている。だから彼らは彼らなりの手段で互いの愛を確かめ合っているに違いないのだって。そう思わせるような、熱烈でどこか切実な光景だったんだろうな。電車が来れば、彼らは約束したとおりに一方をもう片方が笑顔で見送るだろうなって、そんな想像をしたそうなんだよ」


 そこで僕は話をいったん中断した。

 相槌に相当する声はなかったが、電話の向こうで耳を傾ける紫苑を信じた。


「でも、実際には彼らは仲良く手を組んで電車に乗り込んだ。その時になってふと彼らの顔をちゃんと見て、大学でも何回か目にした二人の学生だと気がついたらしい。そして後日、彼らがくだらない理由で別れたのを耳にした。おしまい」


 めでたし、めでたし、とはいかなかったがどこにでもありふれた恋愛事情だ。


「その話のポイントはなに?」

「人の心は移ろうってこと。たとえキス以上の行為に幾度も及んでいたって愛だの恋だのの重さが絶えず増していく、ましてやそれが永久に燃え上がる炎になるなんて決まり事はない。一方で、それが存在していた記憶や記録のすべてが無に帰すのもあり得ない」

「つまり?」

「紫苑の仮定が現実になっても、たとえば西原さんにキスしたいと思っていたその事実は消えない」

「初めからそれだけ言えばいいじゃない」

「失恋を知っている人間、好きな人に対する想いが急激に冷めてしまった経験がある人にしてみれば、さっきの紫苑の主張ってのは子供じみているかもな。でも、僕はそれを蔑ろにはしたくなかったから、例え話をひねり出したんだよ」

「子供っぽい私を大人として優しく諭したとでも言いたいわけ?」

「いや―――背中を押すつもりはないけど、やっぱり紫苑のそれは初恋だって僕は思う。で、確かめないとなんだよな。誘い文句はともかく、どこへ行きたいってのは考えているのか」


 話を強引に戻して僕は訊く。

 紫苑曰く、朋香は絵画に興味があるらしい。前の学校では美術部に所属していたそうだが、自分で描くのにはそこまで熱意がないようで、今は専ら鑑賞する側なのだとか。


「じゃあ、美術館?」

「でも、どこがいいのかわからない。私は絵なんて興味ないもの」


 僕はとりあえず近くにある美術館の名前を挙げた。


「さすがにそこは知っているわよ。小学生のときに校外学習で行った。ここらに住む小学生だったらみんなそう。でしょう? でもさ、せっかくの連休なんだから、もっと有名なところに行って有名な絵を観るのがいいって思わない?」

「近場の小さな神社に行くより遠出してでもご利益がありそうな大きな神社に行くノリか」

「ノリって言うな」

「一口に絵画と言っても幅広いだろ。なんだったら絵画と言いつつ、流行りの漫画のほうにずっと関心がある可能性だってある。西原さんに有意義な時間を提供したい意思はけっこうだけれど、どこでもいいから出かけて、彼女のパーソナリティを深く知るのを優先すべきだ。一般的に」

「まぁ、そうなんだけども」


 紫苑は渋々、同意した。ちなみに彼女にとって芸術の奥深さは大宇宙の深淵からすると、鈍く瞬く星のひとつに過ぎない。以前、僕は人間の脳内だって十二分に銀河系に対抗し得るのだと力説したが、彼女は人間の想像力の偉大さを認めたうえで「でも、夜空に浮かぶ月を眺めるように、人の頭を覗くのってできないし、私たちってお日様がないと生きていけないんだよ」とわかるようなわからないような反論を返されてしまったのだった。


「ところで西原さんはそっちで美術部に入ってはいないのか」

「そうみたい。うちの美術部って不良もどきの溜まり場になっているからかな」

「なんだそれ。天文部といい、文化部連中はそんなのが多いのか」

「べつに天文部に不良も不良もどきもいないっての。それに他の部はまともだし」


 ふわぁ、と大きな欠伸をするのが聞こえた。僕もつられる。

 あと数時間後には連休前の最後の日として紫苑は登校する。このままだと寂しく連休を過ごすことになるだろう。僕が慰められる種類の寂しさではない。


「わかった」

「なにがよ」

「僕のほうで、いろいろとプランを練っておく。それを遅くとも今日の夕方までには紫苑に送る。それを参考に紫苑は西原さんを誘う。めでたし、めでたし、だ」

「いろいろってなに」

「寝て起きてから考える。紫苑もそうしなよ」


 気遣うとすればもっと早くがよかったのだろう。紫苑が不本意ながらも深夜に電話をしてきた事実を軽んじていた。紫苑がその口ぶり―――僕を相手にするときだけなのかもしれないが―――に反して純真な少女であるのを、眠気を理由に忘れてしまっていた。


「僕を信じろ」


 断じて言ってみたかっただけではない。キメ台詞のつもりもない。深夜テンションってやつでもない。


「はぁ…………わかった」

「おう」

「今度いつ帰ってくるの?」

「えっ」


 紫苑からそんな言葉を聞くのは初めてだった。いや、一度はあったかな。聞こえなかたったふりをすべきだったかも。


「なんでもない。おやすみ。ありがと」


 早口で紫苑は。そうして通話が終了する。静寂が戻ってきた。僕は明かりを消した。ぱちん。


 寝つきが悪かったのがプラスに作用して、昼前の講義に無事に遅れることなく出席できた。なるべく早くに紫苑に僕なりのデートプラン(?)というのを送ってしまいたがったが、そういうときに限ってよそ見できるような講義ではなかった。

 結果として、昼食を摂りながらの計画となった。連休中に近隣で開かれている催し物をネットで調べたり、美術館のHPをめぐってみたり、閲覧専用と化しているSNSを眺めてみたりして検討する。僕は、紫苑が僕の知らない女の子に想いを寄せており、その子とふたりきりでどこかへ出かけたがっている事実を今一度受け入れた。「そうか、あの紫苑が……」と感慨深げに呟きさえしたが、しかし現実にはあの子の成長をこれまで真摯に追ってきてはいない。知らない部分はかなり多い。触れるべきではない部分だって。

 そのうえでなお、今回は応援すると選択した。僕らの間に、たとえ運命的に美しい絆がなくとも僕は紫苑の力になりたいと思う。

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