03 ファミレスで語られる少女たちの邂逅②

 紫苑と朋香はいきなりキスを交わしはしなかった。

 代わりに、と言っていいのかわからないが、紫苑が先の朋香の意味深長な台詞を拾い上げた。


「西原さんは自身は変わったと思う?」

「え?」

「変わり映えのしない景色に安心と不安。それなら西原さん自身はどうなのかなって」


 そんなふうに追究されると予想だにしていなかった、朋香の顔にそう出ていた。それでもできるかぎり真摯に返答しようとする素振りを紫苑は快く感じた。「ごめん、変なこと訊いちゃって」と紫苑が助け舟を出そうとした矢先、朋花はおずおずと口を開いた。


「どうだろう。今はまだ何も変わっていない気がするかな。でも、こういうのって変わりたくないと思っても、変わっていくのかも。もしかしたら、それと同じぐらい……」

「変わりたいと思っても変われない」

「そう」

「そういうもんだよね」

「うん」


 僕が聞く限りでは、抽象的で実りある会話と思えなかったが、紫苑曰くその短いやりとりのなかで、朋香への特別な感情が生まれた。それが好意として象られたのは、その次の瞬間だった。

 朋香はふと―――紫苑から目を背けるようにではなく、ごく自然に―――窓の外をもう一度見やったのだった。

 紫苑はそのときの朋香の横顔に心を奪われた。夕の色に染まりきらないおぼろげなその輪郭、艶やかな微笑みは宵の明星を思わせた。

 紫苑は僕に言う。そこには恍惚感がある。


「教室の、ううん、世界の時間ってのが止まってしまったようだった。月並みな表現だけれど」

「ずっと見つめていたかった?」

「まあね。……って、何を言わせるのよ」

「めちゃくちゃうっとりして話していたくせに、今更だろ」


 紫苑は咳払いをした。そして甘ったるいパンケーキを食べ始めた。

「それから?」と僕が言うと「その日はそれだけ」とぼそっと応じた。

 夕暮れの邂逅、それは恋に落ちる舞台としてはさもありなん。


 しばらくして紫苑も僕も食べ終え、僕が紫苑の分も含めて二杯目のドリンクをサーバーで注いでいる間に、ウェイトレスが食器を片づけてくれたらしい。「はい、アレンジジュースね」と僕は紫苑の前にグラスを置く。「何を混ぜたの?」と紫苑はグラスに入った見た目はオレンジジュースとほぼ変わらない液体を凝視した。大学生になって何をやっているんだこいつは、ってのが顔に書いてある。大したものは混ぜてはいない。


「そんなことよりも続きを聞かせてくれよ。それともその放課後から、三日間何もなかったのか」

「あったかないかで言えば、ないわ」

「ないんかい」

「私は西原さんを目で追うようになった。でもね、授業中はそういうわけにもいかない」

「西原さんがいるのは後ろの席だもんな」

「そういうこと。だから、まぁ、休み時間とか、そういうちょっとした間にちらっとね」

「話しかけはしないのか」

「しなくもないけど」

「まどろっこしい言い方よせよ」

「お兄ちゃんには言われたくない」

「今は紫苑の話だろ。察するに、紫苑としてはもっと普通に、親しく話したいんだろうが妙に緊張しちゃって、たどたどしくなっているんだろ?――――図星って顔しているな」

「調子に乗らないで。その程度、推理にもなっていないわ」


 べつに推理してみせたのではない。恋愛経験値が低い人間にありがちな状況を紫苑にあてはめてみただけだ。

 この紫苑がその恋心に振り回されて朋香相手にいじらしい様を晒しているのを想像すると少し楽しくなってしまう。が、それを口にしたらどんな罵詈雑言を浴びせられるかわからない。


「西原さんはさぁ……」

「なんだよ、もったいつけて」

「あの子はね、きっと自分の美しさに気がついていないの」

「ぽかーん」

「私は真剣よ」

「ああ、うん。えっと、西原さんは自分の、運命的な美しさとやらに自覚がない。そういうこと?」

「今のところ、私しか知らないんじゃないかなって。これって、得意げになんてなれない、むしろ恐れおののく事態なのよ」


 恋は人を惑わせる。

 僕は紫苑を穏やかな眼差しで見つめた。「なによ」と紫苑は言う。「なにも」と返しておく。


「詳しく聞こうか」

「だって、たとえば私以外の誰かが西原さんの美に気づいたのなら、当然、彼女と親しい間柄になりたがるでしょ。早い話、そこで恋愛に発展して交際をしはじめる仲になるかも」

「そうなると紫苑は悔し涙で濡れたハンカチを噛みしめ、陰から見守るのか?」

「わからない。拒まれない限りは、彼女の友人として振る舞うかもしれない」

「そういや今ってもう友達って言える仲なのか?」

「ただのクラスメイト以上友達未満よ」

「なんでそこは自信ありげなんだよ」

「もしも西原さん自身が彼女の美しさを自覚したらどうなると思う?」

「どうって……それを武器にして寄ってくる輩たちと懇ろな関係になる?」

「そんな子じゃないわよ」

「えぇ……。じゃあ、どうなるのさ」

「わからない」


 再びぽかんとせざるを得なかった。僕は試しに注いだコーラのお湯割りを飲んでみたが、美味しくはなかった。ホットコーラなるものが存在するのを噂で耳にしていたが、ただお湯で割ればいいってわけではないのだろう。責任を持って残さずに飲もう。


「整理するとさ、西原さんに並ならぬ美しさを感じて、それがそのまま特別な感情、恋心を抱く理由になっているんだよな。そしてそれというのは西原さん含め自分以外の誰かに知られることを紫苑はいいと思っていない、と」

「良い悪いの話じゃない」

「なぁ、落ち着けよ。恋なんてそんなものじゃないのか。恋した相手に自分にしか理解できない領域、他の誰とも共有し得ない部分を見出す、それをもって特別な間柄を証明し、保障する」

「お兄ちゃんって誰にでもそんな回りくどくて小難しい話し方しているの?だからモテないんだよ」

「はぁーっ!? なんなん! 僕は僕なりに思うところを述べているのですが!」


 恋愛相談って難しい。ほとんどの場合、当事者が皆揃って進む話し合いではないだろうし。最初に紫苑が言ったとおり、話を聞いておけばそれでよかったのだろうか。たしかに僕が紫苑の恋路のために何か具体的な行動に出るってのは考えられない。どこどこにデートにでもいけばいいんじゃないかってぐらいのアドバイスならできそうか? ……いや、女子高校生同士のデートスポットなんて知らないぞ。


「話を戻そう。紫苑は西原さんに他とは違う、しかも初めての想いを抱いた。それによって話しづらくなっているのはわかった」

「我ながら実に乙女らしい反応よね」

 

 紫苑は自嘲気味に笑った。乙女らしさに関する観念は持ち合わせていない僕は無視して続ける。


「紫苑としては今後、どうしたいんだよ。まずはお友達から?それとも飛ばしちゃって愛の告白?」

「確かめないといけない」

「何を?」

「これが本当に恋なのかってこと」

「確信していないのか」

「大多数、というよりほとんどすべての子は、ろくに話したことのない同性に恋に落ちることってないでしょう? 相手がアイドルだったり見るからに特別な容姿や立場の人だったりは別かもしれないけれど」

「紫苑は西原さんに特別を感じているんだから、それで要件はクリアしているんじゃないのか。性別なんてそんなに関係あるとは思えない」

「優しいお兄ちゃんはどこまでも第三者であるから、そんなふうに言えるのよ。当人はそんな簡単に割り切れない。……オレンジジュースにブドウジュースが少し混ざればそれを意識せずにはいられないように」


 グラスを呷って紫苑が言う。その面持ちのせいで、お酒でも飲んでいるふうだった。その色っぽさにドキッとしてしまうのは罪だろうか。


「ちなみに、ただのブドウじゃない、白ブドウだ」

「どうでもいいわよ」


 そうしてその日は解散となった。紫苑は別れ際に「聞いてくれてありがとう」とこちらの顔を見ずに小声で口にした。そんなのわざわざ、と僕は思いながらも、きちんと口にするのが紫苑らくして、そこが彼女の美徳の1つであるのだった。誰に似たのかは知らないが大切にしてほしいものだ。

 電話口では恋に落ちたなどと話した癖に、いざ会って聞いてみたら恋かどうかわからないという。もしかすると紫苑が僕に恋愛相談をすることはもうないかもしれない。それにひょっとするともう紫苑は電話も二度としてこない可能性だってある。


 


 ――――結果として紫苑は後日、また僕に電話をしてきた。

 以前と違ったのは、それが暇な大学生の午睡の時刻ではなく大半の人々にとっての睡眠中の時間であったことだ。

 紫苑は午前一時に僕に電話をよこした。それは五月の大型連休を迎える前日だった。

 ちなみに僕は午後十時には西洋外交史の課題を投げだして眠りについていた。もとより専攻外の講義で、刹那的な芽生えた興味で受講したのをけっこう後悔している。社会に出てから、ビスマルク体制の終焉を人に説く機会なんて僕にはないと思う。


「もしもし…………ごめんね、お兄ちゃん」


 紫苑の第一声は密やかであったが、弱々しくはなかった。僕は欠伸を噛み殺すと、ひとまず部屋の明かりをつけた。


「むにゃむにゃ」

「お兄ちゃん……?」

「何か緊急事態?」

「ってほどでもないんだけれど」

「じゃあ、切っていい?」

「薄情者」

「冗談だよ。えーっと……そうだな、うん、何か睡眠にまつわる有益な雑学でも披露しようと思ったんだけれど、何も出てこなかった」

「西原さんとのことなんだけれど」

「ふむ。君の初恋相手」

「たぶん」

「で、何かあったの?ああ、待った。当ててみる。眠れない夜に西原さんに電話をかけようとしたけれどやめた。紫苑はヘタレ……もとい、彼女に失礼があってはいけないから。だから代わりに頼れる僕に電話した。どう?」

「ちがう。私、彼女の連絡先知らない」

「紫苑だけ知らないってことないだろ?」

「それはそうでしょ。クラスの私以外のみんなが知っているなんて状況だったら頭おかしくなるわよ。でもね、知っている人は知っている」

「コミュニケーション能力が著しく高くてクラス全員と仲良しみたいな子とか?」


 紫苑は「うん」と肯定する。かといって朋香はどこかのグループに入って和気藹々としているでもないらしい。紫苑自身は一年生の頃から、少人数のグループに入っている。そのうちで最も親しい友人とは、幸いなことにクラスが進級しても同じである。


「連絡先を聞くのってそんなハードル高くないだろ。僕が見ず知らずの女子高校生から聞くよりも遥かに容易い」

「それはそれ、これはこれでしょ」

「仰々しく祈りを捧げずとも求めれば手に入る種のものだろ。少なくとも三月革命前後にメッテルニヒが直面したほどの苦難はない」

「何の話?」

「眠いから、用件を早く伝えてくれ。眠いから」

「悪かったわよ、もう……。西原さんとね、連休中にどこかへ出かけたいの、その……ふたりきりで」


 開口一番でそう伝えてきたのなら通話時間を節約できただろうにと僕は思った。

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