02 ファミレスで語られる少女たちの邂逅①

 紫苑が西原朋香にしはらともかと初めて話したのは彼女が転校してきた日のことだった。

 朋香には紫苑のすぐ後ろの座席があてがわれた。朋香が不慣れを感じさせる自己紹介を済まして席に着くと、ほぼ同時に朝のホームルーム終了のチャイムが鳴った。担任教師が教室を出る。そして生徒たちは入学式兼始業式が行われる講堂へと移動しはじめた。

 けれど朋香は座ったままだった。案内が必要だった。皆についていけばそれで問題ないだろうし、紫苑がわざわざ声をかけずとも、転校生に興味がありげな同級生が話しかけてくれるに違いない。

 そうわかっていながらも、視線がぶつかってしまうと無視するのは忍びない紫苑だった。席を立って、何気なく後方を向いた時に朋香と目があったのだ。紫苑が見下ろし、朋香が見上げる、そんな一コマ。


「自己紹介の時よりも、間近で彼女の顔を目にしたわけ。でも、何も特別なことは感じなかったの。そういう意味では、一目惚れってのは少し違うかもしれない」

「へぇ。それで紫苑は気まずそうに挨拶したの?」

「ごく普通に、よ。努めて朗らかに笑いかけてね。名前を言ってから、これからよろしくねって」

「紫苑が? ちょっとやってみてよ」

「妹に作り笑いを強要するな」


 こういうのも一種のハラスメントにあたるのだろうか。

 話を戻すと、声をかけてきた紫苑に対して、朋香は「よろしく」とはにかんだ。そして紫苑は善意や好奇心ではなく義務感で講堂まで案内することにした。とりとめない会話をしながら他の生徒と共に歩いていく。すると予期していたとおり、クラス内外で友人の多い女子生徒2人が明るく朋香たちに声をかけてきた。紫苑は彼女たちとは普段そんなに話す間柄ではない。気がつけば、紫苑は輪から外れて半ば質問攻めに合っている朋香を後ろから見ているだけだった。


「そこで紫苑は『ちょっと、ちょっと! ふたりとも、転校生相手にいきなり質問攻めはダメでしょ? めっ!』みたいな役回りにはならなかったのか?」

「気持ち悪いから、その声真似は二度としないで」

「はい」


 僕は了承し、サンドイッチを手に取った。モグモグ。このパセリ、紫苑のパンケーキの上の乗せたら怒るかな。「めっ!」とはしてくれなさそうだ。

 

 紫苑が次に朋香と顔を合わせてまともに話をしたのは数日後のことである。それまではやや猫背気味の後ろ姿を、日中見せつけていただけに過ぎない。振り向けばそこにいる彼女をまったく気に留めなかったわけではないが、自分が気遣う必要はないと紫苑は思っていた。実際、たとえば授業と授業の間の短い休憩時間に別の子が朋香に話しかけているのは、後ろを振り向かずとも聞こえた。そうやって耳にする朋香の受け答えというのは、平凡で、ありふれていて、紫苑の心を揺るがしはしなかった。とはいえ、仮に朋香が奇々怪々な言動をとる異様な人格を有した女の子であれば距離をとるのが紫苑だ。非日常に飢え、刺激を常に求めているタイプの子ではない。

 その数日間、朋香から紫苑に話しかけてくることもなかった。


「それで何をきっかけに二度目の会話があったんだ?」

「三日前の放課後。私は教室に残っている西原さんと出くわした」


 その日、紫苑が机の中に忘れ物をしたことに気がついたのは、自身が所属している冗談半分みたいな天文部の新入部員勧誘をひどく消極的に完了させた後だった。数学の副教材一冊だけであったが、それは翌日までの課題をこなすのに使う。紫苑が教室に入ると、窓際に誰か立っていた。他には誰もいない。背中を見て瞬時に朋香であると認めるには紫苑は彼女の背中を見慣れていなかった。そのすらりとした背格好をただなんとなく綺麗だと感じた。それが始業式の日の記憶と結びつくより先に、窓際の彼女は紫苑の気配で振り向いた。紫苑は忍び足で入ってきたわけではないのだから当然といえば当然である。その人が朋香だとわかると、紫苑は反射的に「西原さん?」と呟いていた。

 夕日を背中に淡く受けた朋香が会釈する。紫苑は問われてはいないが「忘れ物しちゃって」と口に出していた。「そうなんだ」と朋香が応じる。

 紫苑は机の中に忘れ物を見つけると、無駄のない動きでバッグにしまった。そうして朋香に別れの挨拶だけしてすぐに帰ることもできただろうし、そこにいたのが朋香とは別の仲良しとは言えないただのクラスメイトであればさっさと帰路に着いたのは間違いないらしい。

 しかし紫苑は帰らずに朋香に話しかけることを選択した。


「転校してきて間もない子が一人で教室の窓辺に佇んでいたら、声をかけるのはごく普通のことだと思うけれど」

 

 僕は率直な感想を述べてみた。紫苑の選択というのが決しておかしくはないというニュアンスもふまえて。


「はぁ……お兄ちゃんは優しいからね。はぁ……そこにまともなコミュニケーション能力が伴えば、友達だってできるだろうに」


 わざとらしい溜息は露骨に侮蔑の念をぶつけにきていた。心優しい僕は「いるからな!」とだけ反駁しておく。いつかちゃんとわからせないといけないな、なんて思ったり思わなかったりする。


 紫苑は窓際に立つ朋香に近づき、誰か待ち人でもいるのか訊いた。すぐ隣や手が触れられるぐらいの真正面まで寄ることはせずに、微妙な距離感が二人の間にあった。それはそのまま心的な距離も表している。「答えたくなかったら、いいけどね」と紫苑は付け加えた。なんだかいつもよりぶっきらぼうな口調になってしまったかなと紫苑は省みる。


「いつもそんな感じだろ」

「お兄ちゃんへの態度といちいち比べないで。黙って聞いてなさいよ」


 烏龍茶を半分ほど飲んでから、しかと心得た旨を閉口をもって僕は伝える。パセリをパンケーキ上にそれとなく移動させる嫌がら……、お茶目な作戦は冷たい目で制されてしまった。

 紫苑は話を続ける。

 朋香の答えは「まだ家に帰りたくなくて」というものだった。

 例えるなら、涙のわけを訊ねて「悲しいから」とだけ返されてやりとりを終えるような真似を紫苑はできなかった。求める答えになっていないからである。深読みすれば、回答の拒絶ともとれるが、多くの場合、そこでなぜ悲しいのかまでを聞いてやるのがいいのではないだろうか。なんでもかんでも察するなど到底無理な話である。

 紫苑としては、そこにいる理由を一度訊いたからには訊くべきところまでは、というのが常識的な思考だった。しかしながら常識という観点からすると、この時においては「なぜ家に帰りたくないのか」まで詮索するか否かの迷いも同時に生じた。理想と現実は噛み合わない。

 そんな紫苑の迷いはそのまま沈黙となり、それが熟す前に朋香が困り顔で言う。


「あっ。えっとね、何か大した事情があるってわけじゃなくて。うちって共働きで、今帰っても誰もいないから。だったら、ここで夕日が沈むのを眺めていても悪くないかなって」


 この朋香に対して紫苑は「なるほどね」とクールに理解を示した。内実は不要だ。ひとまず相槌は打っておいた方がいいという判断。


 それじゃあ、さよなら――――紫苑はそんなふうに会話を切り上げはしなかった。何も朋香を独りきりにしたくないという気持ちがあったのではないという。気まぐれ、端的に表すのなら。

「そんなにいい景色が見える?」と紫苑は一歩、朋香に近づいて言った。

 四階建ての校舎の三階。教室から望む景色は見慣れた郊外の町並みで、均一化の進んだ住居たちが鎮座しているだけだった。隣県の田舎町から引っ越してきた朋香にとっても、朝だろうが夜だろうがその光景がそう珍しいものではないはずだ。

 ふと思いついて紫苑は「ひょっとして以前は、田園風景のなかに暮らしていた?」と訊ねてみた。

 朋香はかぶりをふって、「ううん、前まで住んでいたところとあんまり変わらないよ。でもね、それにほっとしている自分と、逆に不安がっている自分がいるの」と、するするっと言葉を紡いだ。

 紫苑は唐突に朋香が示した彼女の内なる矛盾を解そうと思わなかった。正直なところ、急になんの話なんだ、と訝しんだ。

 けれども同時に、紫苑は惹かれた。内容よりもその朋香の話し方、その息遣いに。今まで出会ったことのない繊細な何かを、心地よさを抱いた。不自然に、いや、不思議に強く惹かれたのだと紫苑は僕に話した。またも顔を赤らめて。

 夕暮れの教室で、紫苑のその高揚は「朋香……」という呟きとなって現れた。

 当の朋香は「え?」と訊き返した。紫苑がこれまで朋香の名前を呼んだことはただの一度もなかったのだから無理もない。さらに言うなら、意識を向けるために口にしたというより、独り言めいていたのだから。

 その呟きに驚いたのは紫苑本人もであった。「えっと、ほら、綺麗な名前だなって。とても」と紫苑に似つかわしくない軟派な調子で取り繕った。自己紹介のときに黒板に書かれた名前を目にしたとき抱いた印象でもあった。

 朋香は「あ、ありがとう」とぎこちない返事をする。


 紫苑はそこで一旦、僕に話をするのを止め、オレンジジュースを口に運び、潤いを得た。朋香との放課後の巡り合わせを思い出して照れているのかもしれない。


「それで紫苑は西原さんに名前で呼んでいいかを確認して、彼女はそれを許し、二人は晴れてお友達になった……そんな展開か?」

「勝手に予想しないで。はずれているし」

「じゃあ、もしかしていきなりキスしたとか?」


 僕の言葉にまた一口飲んでいた紫苑は咳こんだ。オレンジジュースが思わぬところを通過せんとしたようだった。それから僕を睨んで、「変態」とだけ言った。まっすぐな罵りだった。

 でもなぁ、と思うところがある。そんなに参考文献を読んではいないが、少女漫画なんかだと全然親しくない間柄のイケメンに成り行き(というか、その場のノリ?)でキスされる、そんなシーンはいくらでもないか。


「私は少女漫画の世界に生きているわけじゃない。それに……」

「女の子同士だから?――――って、睨むなよ」

「お兄ちゃんはさぁ……はぁ、なんでもない。話を続ける。聞いて。いい?」


 犬の躾でもするように言う紫苑。意地悪だったかな、と反省。からかいたかったのではない。初恋と表現している紫苑の抱いている想いが、朋香との具体的な行為、それに対する欲求と今の時点でどれだけ結び付いているかを遠回しに見定めておきたかった……というのは後付けだが、だいたいそんな感じだ。僕は残りのサンドイッチを食べつつ、話を聞く。

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