(106)鍛錬は全力が基本です。

 実の所、まだ朝早い平日に春風屋が開いているかどうかは出たとこ勝負では有りましたが、着いてみればちゃんと店は開いていて一安心です。


「御免下さい!」


 と、扉を潜って挨拶すれば、「おう、いらっしゃい!」と店主が片手を上げて応えます。


「三日振りだが、何か有ったかい?」

「はい! 原版が出来上がりましたから、依頼に来ましたよ!」


 ええ、そうです。

 今日の寄り道は、春風屋に出来上がった原版を届ける為だったのですよ。



 実は、昨日の朝には冒険譚の草案は出来上がっていました。

 それを、朝の講義が始まる前にはデリラの街のオルドさんへと届けていたのです。


『オルドさんにお届け物ですよぉ……?』


 冒険譚の草案を納めた風呂敷包みをその背に背負い、冒険者協会デリラ支部の扉を抜けた冒険者ディジー人形が、呆けた顔のリダお姉さんへとそう告げました。


『え、ディ、ディジー?』


 ただ、どうにもその目に感情が見えません。唯々驚愕で思考が動いてない様子です。

 つまり――


 左右から迫る両の掌を、さっと上昇して回避する私!

 椅子を蹴倒しながら立ち上がったリダお姉さんの掌が私に伸びます!

 さっと避けて、ささっと潜って、うにうにとリダお姉さんの前で動いた後に、たぁー! と上空へ急上昇!

 釣られたリダお姉さんも大ジャンプ!

 ぐるっと後ろに回りながら急降下した私が、ジャンプ中のリダお姉さんの腰の横を、猛スピードで擦り抜けました!

 勝利です!


 ――と、何故か迫ってくるリダお姉さんの魔の手から、華麗に逃れてのオルドさんへの突撃です。

 何でしょうかね? 人形の私を初めて見た時には、捕まえないといけないという決まり事でも有るのでしょうか?


『オルドさん、お届け物ですよ!』


 そんな事を思いつつオルドさんに声を掛けると、椅子に座ったままこちらを向いて掌で目を覆っていたオルドさんは、長い溜め息を吐いたのです。


『……つまり、それが噂の人形か』

『おや? 知っていたのでは無いですか。今日は届け物が有りましたから、直接持って来たのですよ』


 と、その時渡した冒険譚の草案に、了解を貰ったのがこれも昨日の夕方頃。

 つまり昨日からの徹夜の大半は、実は原版造りに力を注いでいたという訳ですよ。


 因みに、昨日の内に商都の刷字屋への手紙を書いて貰って、そのまま私が冒険者ディジー人形で商都の刷字屋へと出向き、原版への絵の追加をその場で終わらせています。まぁ、商都の刷字屋は領主お抱えの設備でしたから、話が通れば後は早かったですね。

 頁を追加するのでは無く、表紙と裏表紙用の原版に、私やガズンさん達登場人物それから鬼族や森の動物達の、輪郭だけの線画を大体の尺度を合わせて描いた物です。

 旧版を手に入れた人は新版に悔しい思いをするかも知れませんが、そこの対応はお任せですね。


 ですから、ここで私の冒険譚にも目処が付いたら、抱えていた案件がまた一つ減るのですよ。


「……本当に出来ているな。しかも、滅茶苦茶綺麗な古字じゃないか! 絵も入って、ふむ、ふむ、これは素晴らしい本が出来上がるぞ!」


 興奮気味の店主に創り上げた原版を渡して、詳細を詰めていきます。


「まずは買い切りで千部。追加はその時に依頼しますね」

「千部! 確かに、これなら千部売れるかも知れないな!」


 原版は五十頁分。約六頁毎に挿し絵が付いて、それ以外でも文章中の片隅に、時々絵が描かれています。古字体にしたが故の抜け落ち防止は、バランスも考えて設けてますから、そう簡単に原版が壊れる事も無いでしょう。

 表紙には「ディジーリアの冒険譚」の文字と、デリエイラの森を上空から見下ろした風景です。


「これだけ良い出来だと、しっかりした表紙が欲しいがどうするかね? お代は頂くが、良い本には良い表紙だ。見本は――この中から選んでくれ」


 ――と、店主の言葉。

 見ると、様々な模様の厚紙や、或いは綺麗な布を張り付けた見本の数々です。題名部分だけ模様も無しで、刷字出来る様になっていました。


「いいですねぇ。本当は、絵に色を付けられれば良かったのですけどね」


 と、私が選んだのは、緑や黄緑それに深緑で構成された、森を思わせる模様の物。

 しかし、何と無く付け加えた言葉に、店主からの返事が有ったのです。


「出来るぞ? ただ、色の数だけ原版は必要だな。それと手間が掛かる分で刷字代もざっくり色数分掛ける事の二倍だ。模様付きの表紙もその方法で作られた物を仕入れているし、うちにも偶に依頼が来るなぁ」


 言われてもう一度表紙の見本を見ます。確かに囲まれた部分は無く、刷字と同じ方法で作られている様に見えます。ただ、聞いてみるとこういう厚紙に同じ模様を刷るのは、やはり専用の器械で数を作っているから安く仕入れる事が出来るのだとか。私の絵を表紙にするのは、ちょっと難しそうですね。

 でも、もしも絵が良い出来でしたら、剥き出しで色褪せたりと劣化するのは面白く無いでしょう。

 色付きを十頁程作って、表紙は今選んだ森の様な色の厚紙にするのが良さそうです。


 表紙が大体百部で一両銀ですから、千部で十両銀。今渡した五十頁の千部分で六十両銀。色付き十頁ですけれど同じ原版を三組用意すれば一気に刷れますから、それも考慮してやはり千部で八十両銀。合わせて千部で百五十両銀です。つまり、一冊原価で二朱銀と少しです。原版加工分安くなっていると言っても、他が一両銀で売っている所に、流石にこの安値を付けたら怒られるのでは無いでしょうか。

 なので、店主に聞いてみる事にしました。


「売り値は幾らぐらいを考えるのが良いのでしょうかねぇ」

「そりゃあ、普通なら二両銀でも安いだろうな。しかしそれは二百部で費用を回収しようとした場合だ。千部で回収でいいのなら、もっと安くは出来るだろうな」

「私はこれで儲けるつもりも有りませんので、一分銀で売ってもいいくらいなのですよ」

「流石にそれは……う~む、安く多く売りたいのなら、定価は一両銀だが今だけの特別価格で半額の二分銀。それくらいに収めないと下手に目を付けられても面倒だぞ?」

「成る程なのです。……では、そういう感じにしましょうかね。追加の十頁分は、ちょっと立て込んでいますから二十四日でも大丈夫ですかね?」

「ああ、それくらいなら今貰っている分が刷り上がっているから大丈夫だ。だが、ここ迄曲線が多いのも初めてだから、出来れば今日の夕方か明日にでも来て貰いたいな。上手く行けばそのまま刷るが、問題が有れば手直しする事も有るのだよ」

「構いませんけれど、遣いでも構いませんか? 今日は来れるか怪しいですし、明日の朝となると朝ご飯を食べる頃にしか来れません」

「連絡が付けば誰でもいいぞ。原版の預かり証を出すのも揃ってからだな」


 そう言う店主に、まずは預けた分の七十両銀を手渡して、私は店を出たのです。

 そして其処で待っていたのは――


「ぐふ、くふふふ、ひゃはははは、くひひひひひ!!」

「ひーひっひっひひ、うひひひひゃひゃひゃ!!」


 ――今も笑い転げている男が二人。いえ、ジオさんとシャックさんなんですけどね。

 空を飛んでいる間中叫んでいたというのに、春風屋に着いて転げ落ちる様にして丸太から降りた後は、只管ひたすらこんな感じで笑い転げているのですよ。


「もう、行きますよ? 案内してくれないと、絨毯屋に行けないじゃ無いですか」

「ちょ、ちょっと、待った! 先に厠に行かせてくれ!」

「ひひ……ぼ、僕も。何で厠に行ったかを聞いて来てのか分かったよ」


 結局、春風屋に厠を借りにもう一度入る事になったのです。



 そして再び空の上へ。


「ぐぅぅううううう、凄ぇ! 凄ぇ! そこ、そこだ! そこの公園に降りてくれ」


 一回目よりもましですが、丸太を両側から挟む腕はがちがちに力を入れて震えまで入ってます。

 そんなジオさんの言葉に従って、公園の中に降り立ちました。

 やっぱり転げ落ちる様に降りますね?


「ほ、本当に一瞬だよ。あっと言う間に着いちゃったよ」

「やべぇ、俺、今まで特級がどういうのか、全く理解してなかったわ」


 午後からは『武術』の講義も有るというのに、既にぐったりしている二人です。


「別に落ちた所で拾いますから、そんなに力む事は有りませんよ?」

「俺は落ちた瞬間ショックで死ぬ!」

「ジオに同じ!」


 大袈裟な二人に呆れながら、丸太は『亜空間倉庫』に片付けます。

 ふらふらと立ち上がった二人が「こっちだ」と言うのに誘われて、辿り着いたのはこれまた大きな工場です。

 「ナーダリアン特級内装工務ギルド」と書かれた看板が目立つ様に飾られていました。


「特級?」

「いや、言ってるだけだな。内装にランクなんて付くかよ」


 そうです。戦う為の技能以外で、ランクは基本的には付きません。木工ならば武器にも関わるからかランクが付いていたりしますけれど、内装は確かに付きそうに有りませんね。

 でも、もしも内装に癒す効果が有るのだとしたら、それもどうなるか分からないところです。

 雑貨屋の商品として並べるのはランク八以上と言ったのは、後で結構揉めたのですよ。まぁ、『識別』が出来無かった私には、その辺りの感覚は無いので、仕方が無いという物ですね。

 今では並べる商品は、商人組の目利きに頼る事にしていますよ。


 ですから確かにと思いながらナーダリアンギルドの扉を潜ると、其処は倉庫の様な佇まいでした。

 片隅に机と棚で囲った精算所の様な一画が有ります。其処へと向かうジオさんとシャックさんを後目しりめに、倉庫風味なギルドの中を見回していると、ちょっとそのジオさん達が揉めている様な声が聞こえてきました。


「なっ、前に来た時はそんな事!?」

「決まり事ですので」

「はは、確かに貴族の御用達なら予想して然るべきだったかな?」

「……二度手間になっちまったぜ」


 随分と落胆した様子の彼らは、近づく私に疲れた顔を見せました。


「すまん。どうやら貴族からの紹介状が必要だったらしい」

「前に来た時は貴族の遣いとでも思われていたみたいだね。折角連れて来て貰ったのに、申し訳ないけれど」


 はて。何処かで聞いた様な話と思って、私は『亜空間倉庫』から一つの書状を取り出しました。


「紹介状という事は、これなんて使えませんかね?」


 そうです。私が王様から貰った各職人ギルドへの紹介状です。

 特にどのギルドとの指定もなく何通も頂いた物ですが、特にこれまで王都の職人ギルドで要求された事は有りませんでした。

 恐らく弟子入りする時にでも使うのでしょうとは思っていたのですけど、こういう時にも使える物と思って間違い無いでしょう。


 じっと紹介状を見下ろしていたジオさんは、ぽりぽりと頬を掻いて紹介状を受け取ってから、さっと身を翻しました。

 どうやら今度は話が進んでいる様子です。

 それなら後はお任せとばかりに、再びギルドの中を見回すのでした。


 それから私がジオさん達に呼ばれたのは二回。

 念の為の絨毯の寸法確認と、カーテンの寸法諸々の確認です。カーテンは貴族組の人達から、彼らの使う内装ギルドである此処の事を伝えられて、そこからの対応は依頼されていたのだとか。

 だとしても、貴族の紹介状が必要そうな店かと言われると首を傾げてしまうのですけどね。ギルドの人も王城からの紹介状が出て来て焦ったに違い有りません。初めに見た時と違って、随分と下手したてに出ている様に見えます。

 まぁ、もしもこの紹介状を無視した所為で、王様が「あの店は少々思い上がっているらしいな」とか溢したりすれば身の破滅です。普通の紹介状なら顔を繋ぐ意味合いも有ったのかも知れませんが、王城からの紹介状は抜き打ちの査察の様な物ですね。緊張するのも仕方が有りません。


 因みに、絨毯の縫い付けは大型の機械が用いられていました。裏返しの絨毯が二枚、側面を合わせて機械に投入されると、極太の針が二つの絨毯を縫い付けていきます。縫い付けられたその直後に、職人さんが槌を打ち付けて調整しています。

 機構学の仕組みが用いられている実例ですから、暫く見ていたかったのですけれど、その後カーテン売り場に移動する事になったのです。


 カーテンは長さ別に区画が分けられていましたが、部屋に合う長さで白い物は二種類だけでした。

 一つは裾周りに金糸の刺繍が入っており、もう一つは無地ですけれど光沢が美しいです。

 一応他の色も見てみましたが、白以上には部屋の色に合いそうには見えません。

 そして白色から選ぶとするなら、何と無く光沢の有るカーテンが良い様に思います。絨毯が赤系統なら金糸の刺繍も映えたのでしょうけれど、青系統の絨毯に金糸は合わない様な気がしたのですよ。

 それをジオさん達に言えば確かに納得の様子でしたので、白光沢のカーテンに決めたのです。

 これも幅が合いませんから、二枚二枚で縫い付けての四枚分。カーテンが出来上がる頃には絨毯も縫い付けが終わり、その場で代金を払って絨毯とカーテンは『亜空間倉庫』の中へ。

 ギルドの人は『亜空間倉庫』に目を剥いていましたけれど、その実納得した様子で私達を見送ったのでした。


「はっはぁー! 何だか良く分からねぇが、上手く行ったぜ」

「どう見てもあの紹介状の御蔭でしょ? 分かっている癖に」


 明るく笑っているジオさんとシャックさんは、丸太を出したら直ぐに乗り込みました。

 三回目ともなると慣れたのでしょうかね?


「では、行きますよぉ!」


 空に飛び立っても、いい具合に力が抜けています。辺りをきょろきょろ見渡して、凄い凄いと言われるのは、私としても楽しくなってきます。


「宙返りでもしましょうか?」

「駄目だ!」「やめて!」


 でも、まだ飛ぶ事自体を愉しむまでにはなっていない様子です。

 私は笑い声を溢しながら、学院へと丸太を飛ばすのでした。



 折角手に入れた絨毯も、加工をしないと使えません。多目的室の上に浮かせた絨毯を、自習室の形に切り抜きます。柱の位置もしっかり合わせて穴を開けて、そこ迄出来たら一旦全て『亜空間倉庫』の中へ。自習室の机や椅子を浮かせたら、開けた穴に柱を通す様に、ささっと『亜空間倉庫』から絨毯を取り出します。

 机と椅子を元に戻して、絨毯に浮き上がりが無いかを確認したら完成です。階段下の『浄化』マットも、自習室の入り口を含める様に位置を調整しておきましょう。


 序でにカーテンも付けてしまいます。

 カーテンレールはまだ設置してませんでしたから、自習室の柱に設けた枘穴ほぞあなにサルカム材を差し込んで、多目的室側へと腕を伸ばします。伸ばした先で柱を下ろし、腕の先を梁で繋ぎ、そこにカーテンレールを取り付けます。カーテンレールは両端が多目的室側にちょっと曲線を描いてますね。

 ここにカーテンを取り付けるのですが、二枚のカーテンの取り付け部両端に、紐を括り付けるのを忘れてはいけません。合計四本の輪になった紐は、カーテンレールの両端と小厨房側の柱の下に設けた突起まで、ぴんと張る様にしておきます。

 この紐を引く事で、カーテンの開け閉めが出来るのです。

 カーテンを閉めてしまうと『清浄』の魔道具の風が通りませんから、普段は開けておきましょう。


「見る間に仕上がって来るな」


 との感想はバルトさん。本当は予定の入っていない七の日の午前中は、騎士団の訓練に参加出来無いか掛け合ってみるとか言っていたのですけれど、どうやら今日は私達の帰りを待っていてくれていた様です。フラウさん達は『家政』の講義を受けに行ってますから、貴族なら受けても良さそうな講義も有るのでしょうけれど、きっと気が乗らないと受講申請しなかったのでしょう。

 因みに、ジオさんとシャックさんは、金庫室で諸々精算した後、自習室が出来上がって直ぐにそこの机に突っ伏しています。体を休めないと午後が持たないと言ってました。


「毛皮敷がずっと先になるのが残念ですね。……失敗作でも置いておきますかね?」


 と、原始人かと呆れられてしまった大猪鹿の皮を、多目的室の真ん中に敷いてみました。本当は毛皮敷が完成してから皆を吃驚させたかったのですけれどね。磨かれた板張りの上に不思議な風合いの毛皮。絵になります。

 いそいそとブーツを脱いで、毛皮の上に膝立ちに。そしてそこから俯せになって体を伸ばします。そのまま横へごろごろと。素晴らしい!


「くっ、おいおいおい……」


 呆れた様子を見せながら、バルトさんはごろごろ元の位置に戻った私の隣に横になりました。

 ちょっと柔らかさに絶句してますね。でも、これでも魔獣の皮なのです。

 特に眠気を感じていた訳では無いのですけれど、ジオさん達に倣って私も『武術』の講義の為に、少し休む事にしたのでした。



 そんな私を起こしたのは、部屋に荷物を置きに戻って来た仲間達の気配です。

 おお……気配で目を覚ますなんて、私も中々やりますね。――なんて一瞬思った私の頭の中で、“黒”が『起きろー』と騒いでました。まだまだ私には達人の境地は遠いです。


「あ、ディジー、戻って来て……」

「おお! 凄いもふもふなんだよ!!」


 スノワリンが足を止めて、レヒカが目を輝かせて走り寄ってきました。


「『浄化』のマットで立ち止まる癖を付けて下さいよ?」


 レヒカがささっと戻って、そしてまたやって来るのです。

 そして靴を脱いで四つん這いで毛皮に乗ったら、そのまま手だけ前に進んで俯せ寝です。


「おお! これはいいもふもふなんだよ!」


 スノワリンも近寄って来て、もふもふとその掌で感触を確かめ始めました。

 他にも帰って来た人から毛皮の感触を確かめに来るので、私は身を起こしてブーツを履き直したのです。


「これ、どうしたんだい?」


 と、訊くのはミーシャさん。


「絨毯もカーテンも手に入れたのに、毛皮敷だけまだまだですから、雰囲気だけでもと失敗作を敷いておく事にしたのですよ。自分で鞣したら、原始人かと呆れられてしまった物ですから、少々手荒に扱ってくれても構いません。毛皮敷が入った後は、クッションにでもしますかね」

「失敗作?」

「脳味噌を使って鞣しましたから、原始的と言われれば返す言葉も有りません」


 それを聞いてぎょっとして手を離す人も出ましたが、まぁ職人の技という物には時としてそういう一般には理解し難い技術が有るものですよ。

 それより今はお昼ご飯ですと、私は自習室で眠るジオさんとシャックさんを魔力の手で揺さ振って起こしてから、皆で大食堂へと向かうのでした。



 昼食が終われば『武術』の講義の準備です。折角なので荷物置き場を兼ねた更衣室で、冒険者としての完全装備に着替えます。前回はお試し、今日から本気の鍛錬なのですから。

 とは言っても、もう背負い鞄を背負いながらではいられないでしょうね。『亜空間倉庫』の中に「通常空間倉庫」を確保する事が出来る様になりましたから、そういう意味でも背負い鞄を背負っている意味が無くなってしまいました。

 でも、御役御免では有りませんよ? なんて思いつつ、どう活かしていけばいいのか、今はまだ思い付けていません。背負うとしても気分次第になりそうで、少し寂しい気持ちになるのです。

 瑠璃色狼を「通常空間倉庫」に入れていてもそんな気持ちにはなりませんから、役目を終えてしまった背負い鞄に哀愁を感じているのかも知れません。


 そんな今の私は鉄布の胴着に鉄布のズボン、黒革帽子に黒革鎧、黒革籠手と黒革ブーツ、剥ぎ取りナイフも完全装備で腰の小物入れにはしっかり“黒”を差しています。

 魔力枯渇の状態で動き回るには重そうですが、鍛錬の効果は高そうです。

 とは言っても、流石に金床兼用の小盾ばかりは、今後も使う機会は無さそうです。小盾を外した黒革籠手が、私には丁度良さそうですね。


「本格的ね」


 と、そんな言葉を溢したスノワリンに、これが私の通常仕様だと答えます。


「冒険者としては、朝に装備を着て家を出たら、帰って来る迄この格好ですから、言ってみればこれが私の普段着ですね」


 そんな事を答えつつ、小厨房を使って『武術』の準備を進めます。

 『亜空間倉庫』から取り出した小樽にまずは水を注いで、そこに黄蜂蜜と塩を加えて、序でにマール草の磨り下ろしも入れて、「流れ」でもって掻き混ぜます。充分に混ざったら、ちょっぴり「活性化」してから「活力」の逆作用で冷たく冷やして『亜空間倉庫』の中へ。

 次に取り出した大猪鹿の肉塊は、山と薄切りを作って果粒を掛けて「活力」でさっと一炙り。これも軽く「活性化」しますけれど、今回は“うまい”では無く、“良い筋肉になる良いお肉”の部分に焦点を当てる様に意識します。そしてこれも温かい内に『亜空間倉庫』の中へ。


「…………一瞬だったけど、凄くいい匂いがしたんだよ!」


 擦り寄ってきて小声でそう言うレヒカの口に、「内緒ですよ」と、ささっと一口大に切り取ったお肉を突っ込みます。

 身悶えしてから口を開こうとしたレヒカの唇を、人差し指で押さえました。

 ですから、内緒なのですよ?

 うんうんと頷いたレヒカは余韻に浸っていますけれど、『武術』はそろそろ移動です。


「レヒカと何をしていたノ?」


 廊下に出てからそんな事を聞くスノワリンのお口にも、お肉を一切れ突っ込んだのでした。



 さて、演習場へと移動しつつも、ラタンバル教官が来るまでに、輝石をジャラジャラ『亜空間倉庫』に流し込んで、魔力枯渇状態へと持って行きます。とは言っても、実は私の生身で魔力を放出するよりも、輝石を通して魔力を放出する方が素早く出来ますから、「通常空間倉庫」に特大輝石を収めている今の状態なら、結構直ぐに魔力を吐き出す事が出来るのです。


「今日も初めの二時間は持久走だ。では、始め!」


 やって来たラタンバル教官の号令と同時に、まずは昨日と同じぐらいの速さで走り始めます。装備の分だけ重くなっていますけれど、昨日と同じ速さを保つ様にまずは二周。そこからペースを速めて更に三周。五周目からは全速力で、“気”の強化も最大です。

 そして八周目で力尽きました。


「はっはっはっはっはぅっはぅっふひゅっひゅー――」


 少し演習場の内側に寄って、準備しておいた樽の特製ドリンクを柄杓で掬って呷ります。お肉の薄切りも取り出して、何とかもぐもぐ咀嚼します。

 お肉を二枚食べ終えて、特製ドリンクをもう一杯飲んで、さて復帰しましょうかと立ち上がった時に、ラタンバル教官が苛立たしく声を掛けてきました。


「おい……何をしている?」

「な、何って、体力の、補充ですよ? 体力が無い、私が、全力を出したら、力尽きます。補充が、必要、なのですよ」

「持久走と、言った筈だが」

「二時間持つ様に、力を抜いて走るのは、鍛錬では有りませんよ? 鍛錬は、全力で、です」


 言葉を止めたラタンバル教官を後に、再び演習場を走ります。

 何だ彼だと、この時点でも実は一周以上二位集団と差を付けています。“全力”の面目躍如というものです。

 今はもう体は温まっていますから、体力の充填具合を見ながら速度を上げていくのです。食べた直ぐと言っても、結構回復する物ですよ?


 一歩一歩を鍛錬と、また次の一歩を踏み出します。

 “気”での強化は、ドルムさんに教えて貰ってから、湖の周りでの森犬狩りで身に付けました。それから後も、色々やっては来ましたけれど、“気”に重点を置いて鍛錬したのは豊穣の森でのその時ばかりだった様に思います。

 つまり、まだまだ“気”の鍛錬は、詰める事が出来ていません。

 前回の『武術』講義で、ご無沙汰だった“気”の扱いも感覚を取り戻しはしましたけれど、ここは更に次へと進めるべきでしょう。


 “気”という物を考えた時、それは魔力と違ってとどめるよりも放つ方が得意な力と言えるでしょう。ですがそれは、とどめる事が難しいというだけで、出来無いとは言っていないのです。

 ガズンさんが振り上げた大剣の輝きや、忌々しいち○ち○男の光るち○ち○が、それを事実だと示しています。

 だとすると、“気”を放つ事しか出来無い私は、まだまだ“気”を扱えていると言うには烏滸がましい状態だったのですよ。


 なら、どうすればいいのかというと、どうにも魔力の扱いにヒントとなる情報が有りそうです。

 ええ、魔力は放出すれば枯渇します。“気”も放出しているから枯渇してしまうのでしょう。

 だからと言って、ただとどめるのも違う様な気がします。留める事で力を高める事は出来ても、強化を持続させる事には向いていません。

 つまり――循環させればいいのです。


 そうは言っても、そんな直ぐに出来る事では有りませんが、ここでも魔力での経験が生きました。魔力がそうで有る様に、“気”にも通し易い道筋が有ったのです。

 それに気が付いたのは、私がひゅーひゅー喉を鳴らしながら、更に三度お肉を貪り喰った後の事。魔力とは通り道が違った為に、気が付くのが遅くなってしまいました。


 多分“気”の場合は、血管とかと同じ道を通っているみたいですね。釣られて血流も速くなっている様に感じますし、それが分かっても一割も回収出来ていませんが、回収しても“気”での強化が落ちている様には感じません。つまり、強化に必要なのは“気”を通す事であって、放出する事では無いのです。


 感覚を掴み始めてきた七回目のお肉タイム。スノワリンも参入して来ました。


「ディ、ディジーが、頑張っテ、いるのに! のんびり、走っテ、いられないよ!」


 私は無言でスノワリンにお肉を差し出して、特製ドリンクの柄杓を渡したのです。


 結局二時間が終了した時には、スノワリンの他にも釣られた人達で死屍累々。私のお肉タイムに丁度行き合った人にはお裾分けもしましたけれど、準備も無しでの全力疾走はちょっと無謀に過ぎますね。

 なんて思いつつ、倒れている人達に今日最後のお裾分けです。


「クソッ、彼奴め! 結果を出されては文句が言えん!」


 ラタンバル教官が愚痴を言っている声が聞こえてきます。まぁ、初めは八周でお肉タイムに入っていたのが、最後は倍の十六周回れる様になりましたからね。尤もまだまだ“気”の放出量は多くて、循環していると胸を張れはしないのですけれど。


「一番無茶苦茶しているのに、なぜ平然としている!?」


 いえ、そんな事を言われても知りませんが。

 鍛冶仕事の過酷さと比べれば、無茶の内には入らないのですよ。

 そう思っているのに、ジオさんとシャックさんが余計な事を口走ります。


「ディジーの鍛錬は無茶が基本らしいぞ」

「無茶序でに、実は昨日も寝てないってさ」


 ラタンバル教官の顔が、凶悪に歪みました。


「おい、ディジーリア、今のは本当か?」

「本当ですけど、それを無茶と思う人はきっと特級には成れないのですよ」

「言いよるわ! ならば、特級としての全力を見せてみろ!」


 そう言って演習場へ指を向けるラタンバル教官ですが、もう、面倒ですねぇ、それをするには魔力を体に戻さないといけないのですよ。因みに、魔力枯渇していても『亜空間倉庫』分の魔力は確保されているからか、『亜空間倉庫』は変わらず使えますよ。

 そこそこ戻して充分だと判断したら、ラタンバル教官に「行きますよー」と声を掛けて、ズバンと一周回ってスタート位置に戻ります。一瞬遅れて演習場の中を砂塵が吹き荒れました。

 『瞬動』で動けば魔力の道が出来ているので風が吹き荒れる事も無いのですが、「加速」で動くとどうしても突風を伴ってしまいますね。

 なんて思ってると、ラタンバル教官が呆けた顔で「うむ、分かった」と言ったのです。


 その後の組み稽古も、何故か皆さん鬼気迫る様子です。

 スノワリンが本気で向かって来てくれるのは前と同じですが、それもどこか真剣さが違います。前が試合なら、今は決闘でもしているかの様です。

 それは私としては有り難い事なのですが、周りの人達も眼力鋭く吼えているのは何故なんでしょうね?


 暫く考えて、思い当たってしまいました。

 ……特製ドリンクの中に、ガズンさんがおかしくなってしまった活性化した黄蜂蜜が入ってましたかね?


 おおおう!? 何て事をしてしまったんでしょう!?

 ……ですが、よくよく考えると、鍛錬をする分には何の問題も有りません。寧ろ、効果も上がって良い事では無いでしょうかね?

 ええ、そうですよ! 鍛錬は全力で、なのですよ!!

 そんな感じで、二回目の『武術』講義は何事も無く過ぎていくのでした。



 実は講義の後のお風呂でもちょっとした事件が有ったのですが、それはまた別の機会にて。

 まぁ、世の中には面倒な人が居るという事なのですよ。

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