(98)初めての武術講義
「ふっふっ、はっはっ、ふっふっ、はっはっ」
二回吐いて、二回吸って、その繰り返し。
「ふっふっ、はっはっ、ふっふっ、はっはっ」
腰の高さはそのままで、足裏で地面を受け流す、その繰り返し。
「ふっふっ、はっはっ、ふっふっ、はっはっ」
手を振り上げ、足を踏み出し、走りながらする事は、掌に作り出した私の輝石を『亜空間倉庫』へ落とす事。
「ふっふっ、はっはっ、ふっふっ、はっはっ」
『亜空間倉庫』の為に区切られた分は何処かに確保されているのでしょうけれど、普段遣いの魔力は枯渇した状態で、重い体を前へ前へと運びます。
そんな状態になって漸く思い出しました。『魔力強化』で体を動かす時には、下手に自分で力を入れずに、寧ろ脱力して動くに任せるのがこつでした。
普段から人形の様に自分の体を操っていたのですから、お留守番の警備鎧やディジー人形を動かすのに、苦労しない訳ですよ。
随分と昔に覚えた事なだけに、意識する事も無くなっていた『魔力強化』での動き方。
今度は逆に普通の動き方を、魔力枯渇状態で体に刻み直すのです。
「ふっふっ、はっはっ、ふっふっ、はっはっ」
でも、思ったよりもいい感じです。
私達の部屋を得た次の日。武術の講義で行き成り二時間の耐久走とは思いませんでしたけれど、魔力を使わなければ演習場を三周も回れれば良い方と思っていたその予想が、いい方向に外れました。
走り始めから、思った以上に体が動いて、重いなりにすいすい前へと進みます。
魔力の操り人形になっていたと言っても、それなりに筋肉が付いていたらしいというのと、どうも力を抜く事を覚えた副次効果か、無駄な力を入れずに必要な筋肉だけに力を込める、そんな事が出来ている様な気がします。
「ふっふっ、はっはっ、ふっふっ、はっはっ」
初めの内は、騎士の後ろで、それ以外の前。ランクで言うなら六の下位とでもいう様な位置取りで、ライエさんと抜きつ抜かれつしていました。
慣れてくると、“気”での強化も交えつつ、少しずつ前へ。
まぁ、スノワリンは遙か前を走っていますし、そのスノワリンよりも速い人は居ますけれどね。
今年から武術を受講する上級生も混じっているので、見覚えの無い人も沢山居ますが、『魔力強化』を使えないスノワリンを突き放す事が出来ていないのですから、大した事は有りません。ランク五も居る様に見えますが、体の使い方がへたっぴです。
結果として二時間持ちそうに見えませんから、今の所スノワリンがほぼ先頭集団と言って良さそうです
私も“気”での強化をしていなければ、今頃周回遅れで追い抜かれていたかも知れませんしね。
ですが、魔力を使わない動きに慣れて、“気”も使うというのならば、そこからは軽く跳ねて差を縮めていくのは当然なのです。
「ふっふっ、はっはっ、ふっふっ、はっはっ」
ただ、本当なら私に
こうして筋力で体を動かす事を思い出してみたら、これまでどれだけ魔力に頼っていたのかがはっきりと分かってしまいました。
魔力の持久力は人並み外れて有るのでしょう。魔力その物の強さも相当な物です。言ってみれば、今迄の私は鍛えられた魔力だけで、特級にまでも上り詰めたのです。
――貧弱な体はそのままに。
まぁ、体を締める向きには力も使っていた感じですから、今の様に走れてもいるのでしょうけれど、笑い転げるだけで筋肉痛になる体ですよ?
そのお腹の筋肉痛も、昨日の内に完治はしていますけれど、そこは体に巡らせた魔力や“気”が何とかしたのでしょう。魔力でさえ巡らせれば腕の血痣を何とかしてしまうのに、肉体が生み出す
今迄魔力で補っていた体力を、今は“気”で補いつつ、私はただ
「ふっふっ、はっはっ、ふっふっ、はっはっ」
「良し! 残り十分だ! ここからは全力で行け!」
“気”で体力を補うのは、言ってみれば時間制限付きです。
何度も気絶するまで鍛冶をした経験が、私に教えてくれるのです。
“気”を放つのは筋肉。筋肉を動かすのは体力。体力を維持するのは栄養。栄養は食べ物から得るのです。
鍛冶をする時に気にしていたのは、体力を維持する栄養とその源の食べ物まででしたけれど、それが道理と“気”を使っているとお腹がとても空くのです。
お腹が空いているのに食べ物を食べなければ栄養は得られず、すると体力も維持出来ず、筋肉に力は入らなくなり、“気”も使えなくなるでしょう。
つまり、ご飯を食べなければ突然何も出来なくなって倒れるのです。
ですから残り時間より逆算して、時間終了で丁度限界を迎える様に調整して走っていただけに、その号令は悪夢の命令にも思えたのです
ですが、まぁ、教官の指示なのですから、従わない訳にも行きません。
それに、限界を超えた先に何が有るのかを、今の内にも知っておくべきとも思います。
もしも気絶してしまったとしても、その時には輝石を作って『亜空間倉庫』に放り込んでいる私の手が止まりますから、直ぐに魔力も回復して、そうすれば後はきっとどうとでもなるでしょうから。
そんな事を考えて、それでも内心ひえっと思いながらも、“気”の強化を強めたのです。
「ふぅ~、ふっふぅ、はっ、ふぅ、はっ、ふぅ」
呼吸も切り替えて仕切り直しですね。
さぁ! 限界を目指しましょう!
筋肉で体を動かすのは、魔力で体を動かすのとはやはり少し違います。
魔力で体を動かす時に必要なのは、集中力です。
集中して、集中して、集中して、その集中が切れた時が『魔力強化』も切れる時なのでしょう。そういう意味では、魔力の持久力は、集中して意識を高めていられるその持久力なのかも知れません。
筋肉で体を動かす時は、恐らく体力が全てです。ですが、そこには波が有るのですよ。
昂揚すれば丸で力が底上げされたかの様に疲れだって感じませんし、体調が悪ければ出せる力もがた落ちします。体力が切れれば意識だって落ちそうです。
魔力を扱う集中が極まった先には全能感にも似た感覚が有りますが、集中が切れた時に残るのは気持ちの悪い眩暈です。
筋肉を使う全力の先には昂揚と快感が有りそうです。『一番星』達が嵌まっていた気持ちのいい汗と筋肉の震えだとかも、今なら理解出来そうですよ。
ほぼ持久走も終盤で、体力切れの脱力感を覚える様になってからの全力ですから、もう長くは走れません。
頭もふらついていますが、揺れる視界の中でどんどん人影が後ろに過ぎ去って。
あ! スノワリンが前の方に見えてきました! 何時の間にか先頭集団を捉えましたよ!
でも残念。ここ迄です。
まず足に、“気”での強化が乗らなくなりました。
途端にがくんと速度が落ちます。転けない様に体を御そうとするだけでも足が縺れそうになります。
走ると言うには見るも無惨な歩みになって、でも意地で止まらず前へ進みます。
「ははは! 張り切って馬鹿をしてやがる!」
「さぼってんなよ!」
「ディジーちゃん、頑張れ~♪」
今度は逆に、どんどんと抜かされて行きます。……貴方達、手を抜いてましたね?
でも、鍛錬。全ては鍛錬なのですよ。
体力が尽きれば、倒れるしか無いのではと思っていましたけれど、まだ前に進めています。
つまり、魔力も体力も尽きた時に頼るべき操体の秘技がここに有ります。
膝を曲げず、つまり今だけは足での受け流しを放棄して。
腕は振らず、肩の僅かな動きでバランスを取って。
回復する僅かな体力と、失われる体力とを天秤に掛けながら、力を入れずとも前へと進む動きを模索します。
ええ、一歩一歩を鍛錬として。
「はぁ~~……ふぅ~~……」
力を使わずに動いているのですから、呼吸だって落ち着きます。
でも、力を使わず動く動きには、自ずと限度が有る様です。
足の動きは小刻みに、上体は揺する様に。
結局膝を曲げないよりも曲げた方が動き易いと思いながら、小走りの速さに近付いて来た頃に、漸く終了の号令が掛かりました。
とは言え教官も、全力でと言いながら、結局そこからも当初の予定通りの時間走らせようというのは鬼畜ですね。
「終了だ! 集まれ!!」
幸い集合場所からは離れていませんでしたので、そのままラタンバル教官が居る場所へと向かいました。
随分と妙な目付きで見られている様に思いますね。
そんなラタンバル教官から声を掛けられました。
「どういう事だ。手を抜いている様にも思えぬが」
まぁ、不思議には思いますよね? 入学試験では、魔力を封じていない私に一本取られているのですから、納得は出来ないのでしょう。
でも、これだって私の実力には違い無いのです。魔力を使わないディジーリアの、では有りますけどね。
「二時間と言われてそれに合わせて体力が尽きる様に走っていたのに、突然全力でと言われたのですから、時間まで保たないのは当然です。それなのに時間一杯走らせようとするのは無茶振りですよ。と言うより、それで時間一杯走れる人は、全力でと言われても全力を出していないか、手を抜いていたかでしょう? 私ももう何かお腹に入れないと倒れそうです。ご飯を食べてもいいですかね?」
本当に気絶寸前と自分でも理解していましたので、答えながらもいそいそとアラ=ウネウネの実を『亜空間倉庫』から取り出して、僅かに回復した魔力で軽く擂り潰して呷ります。
同じく『亜空間倉庫』から取り出した薄切りのお肉を軽く炙って、果粒を塗してむしゃむしゃと。
そうして漸く人心地付きました。
思わず一連の流れを眺めてしまっていたらしきラタンバル教官が、そこで咳き込みながら「自由人め」と
私を知る級友達は呆れた様子を隠していませんし、私を知らない人達は目を丸くしていますけれど、私にとっては当然の処置なのです。
「……変な奴が混じっているが、
という事で、休憩時間らしいですから、もう一枚お肉の薄切りを焼いて、残りのウネウネジュースも飲み干します。
だからと言って、直ぐに栄養になるとも思えませんが、お腹に“気”を集めて強化すれば、栄養になるのを早めたりは出来ませんかね?
ただ、ラタンバル教官は物凄く苦々しげな表情です。
「おい。余り巫山戯ていると叩き出すぞ」
「大真面目ですよ、私は。寧ろのんびり持久走なんてするよりも、間にご飯を挟んで動けなくなるまでの全力疾走を重ねた方が良かったのではと思っているのです。周りに合わせてペース配分を考えるなんて、らしくも無い事をしてしまいました」
最後に全力で走って気が付きましたが、二時間と言われたからといって、二時間で体力を使い切る
常に全力で突き進むのが、私の遣り方なのですから。
尤も、最近はまったりしていますけれどね。それだけに、鍛錬の時間は全力で無いとと思うのですよ。
「……分からん。負けたのは紛れでは無かった筈だ」
「それは……今は鍛錬の為に魔力を枯渇させていますからね。魔力の助けが有ると、私の鍛錬にはならないのです」
と、ちょっとねたばらしをすると、ラタンバル教官が少し目を見開きました。
……まぁ、本当は私が『魔力強化』だとかそういうのを十全に扱えていれば、魔力を枯渇させなくても問題は無いのですけれどね。
どうにもそれは、実は自分の魔力を操り切れていないなんて言われている様で、ちょっと格好悪いのですが、今は仕方が有りません。
寧ろ、魔力を使わない自分の素の力量が分かりますので、得る物は多いという事に致しましょう。
でも、その辺りの事情を説明した訳では有りませんから、次に述べられた教官の疑問も当然です。
「魔力で強化出来るのなら、それも実力だとは思うが」
「ええ、実力では有りますけど、私は此処に実力を見せ付けに来たのでは無く、鍛錬の為に講義を受けに来たのですから、そんな事には意味が有りません。そうですねぇ――」
まぁ、幾つも言葉を重ねるよりも、見せた方が早い物も有るのです。
魔力も輝石二つ分程は回復していますけれど、ここは更に三つ、私の魔力に戻しておきましょう。
台車で運び込まれていた訓練用の武具の中から、ドルムさんが使っていた様なハンマーを手に取ります。
それを構えてドルムさんに教えて貰った通りにぶんぶんと振り回します。
二巡目にはもっと速く。三巡目には目に追えない程に。
「――と、こんな風に魔力を使えば重い武具を振り回すのに苦労はしませんが――」
と、そこでハンマーから手を離して離れた所に身を避けます。
宙に浮いたハンマーが、先程の動きと同じ様に、持ち手も居ないのにぶんぶんと宙に振られました。
「――実はこんな風に、ハンマーは私の魔力で振られていて、私は柄に手を添えて踊っているだけになるのです。
これは武術と言うよりも、魔法だと思うのですけれど、どうですかね?
魔法ならば今更私が習う事も無くて、私は武術を習いたいのですよ」
まぁ、受講仲間は体を休める為に座り込んでいてこっちを見ていなかったりもしますけれど、良く分かっていない教官とは言え、そこまで見せれば私の実力を察しもする訳ですよ。でも、それと私の見た目から想定される諸々との隔たりが大きいからなのでしょうね。ラタンバル教官も、難しい顔をして考え込んでしまっています。
「ねぇねぇ、先生には打ち明ケた方が良くないノ?」
様子を見ていたスノワリンが声を掛けて来ますけれど、……仕方が有りませんねぇ。
ここまで見せて気付けないならば、それはきっとずっと気が付く事は無いのです。
玄人仕様だなんて言われましたけれど、それで想定している玄人が魔の森の深層でも生き延びられる探索系の玄人っぽいですから、普通の騎士が気付かないのもそこは仕方が有りません。
「これは絶対に、誰にも秘密ですからね」
と、そう言って見せた冒険者協会の認識証。そこで漸くラタンバル教官は、目と口を大きく開いて状況を認識したのでした。
この時、ラタンバル教官には、ランクBの冒険者に武術を教えるなんて無茶振りをしてしまった訳ですけれど、
~※~※~※~
さて、ディジー達が武術の講義を受けたその次の日は、バルトーナッハとロッドワーズがイグネア教官の武術講義を受けていた。
因みに、既に武術の講義を受けた事が有り、より上を目指す学院生というのは、学院北西の通路を抜けた先に在る騎士団の演習場で、騎士に混じって訓練を受けている。騎士でも有る武術講師達は、その引率をしながら自らも訓練に参加し、持ち回りで初学者に対し学院の演習場での講義を受け持っている。
イグネア教官の講義もラタンバル教官と同じく、初めの二時間は持久走だった。
ランク三という上級の域に達しており、常に足場の悪い森の中を駆け回っていたバルトーナッハが生き生きとする時間だった。
その後の魔力の練り方や“気”の高め方も言うに及ばず。同じ学院生で有りながら真剣に学ぶ姿勢を崩さない第五将子息バルトーナッハの存在は、粗暴な者が多くなりがちなイグネア教官の講義において、見事にその専横を抑え込んだ。
イグネア教官は語る。嘗てこれ程気持ち良く講義が出来た事は無かったと。
武術講義でのディジーリアの無茶な鍛錬を伝え聞いたバルトーナッハ達の暴走は、まだまだ先の事だった。
~※~※~※~
レヒカ達獣人組が、ガルア教官の武術講義を受けたのは、更にその次の日の事だった。
やはり初めは持久走だったが、他とは少し違っていた。隊列を組ませて走らせる事で、歩調を合わせるのと“待て”を覚えさせるのが目的となっている。
持久走が終わった後も、直ぐに整列して教練へと入るのだった。
「皆も知っての通り、我々の持ち味と言えば連携だな。だが、気の置けない仲間内の経験しか無ければ、騎士団の中では何れ立ち行かなくなる。知り合ったばかりの仲間と連携するには、号令に従い瞬時に行動する事が大切だ。まずはやってみようか。――気を付け!!」
黒い犬耳のガルア教官の号令が飛ぶと、レヒカ達はピシッと背筋を伸ばして直立する。
「右向け右!」で右を向く。が、「左向け左!」で半数が左――即ち元の正面を向いたのに対して、残る半数は更に左を向いた。「しゃがめ!」と言われると、更に対応が分かれる。三割が両足を揃えて蹲り、二割が直ぐに動ける形で腰を落とす。二割が戸惑ったまま棒立ちになり、残りはてんでばらばら好き勝手に動いた。
ぐっとガルア教官の眉間に力が入ったが、少し溜めてから脱力する。きっと良く有る事なのだ。
「よし、休め! ――気が付いたか? 既に習っている筈の基本動作でも、理解していない者が混じると動きが合わなくなる。習ってもいない号令に対応がばらけるのは仕方が無いが、棒立ちは論外だぞ!
本来ならば、学んだ号令には動きが揃って、学んだ事の無い号令には動きが合わない事を示したかったが、根本的に勉強が足りない者が多いと言う事が分かってしまったな。そこが万全で無ければ連携も何も無い。この秋は勉強に重点を置く事になるだろう」
そして、そんなガルア教官の言葉に、不満の声が漏れるのも、きっといつもの事なのだ。
「えー!? 勉強なんて要らないから、連携を教えてよ!」
「今迄だって上手くやってきたんだよ!?」
そして、ガルア教官は吼える。
「喧しいっ!! お前も! そこのお前も! しゃがめと言われて突っ立ってた奴だろうが!! お前達のそれは何も考えていないと言うのだ! それで連携を語るな!!
――ふぅ……いいか? 連携というのは、一も二も勉強だ。お前達が今迄上手くやって来れたと思うのは、その動きも性格も良く学び理解している仲間と、同じくその危険な場所も性質もよく学び理解している狩場で、どんな動きをして何を嫌がるかをよく学び理解している獲物を相手にしてきたからだ。
そういう自分の目で見て体で体験するのも勉強だが、それだけではいつまで経っても新しい仲間と新しい場所でやっていく事は出来無い。つまり、使い物にならん。
騎士として各地の応援にも行く事が前提ならば、土地の気候、植生、動物や魔物の分布やその性質は当然として、号令、手信号にも精通している必要が有る。それを体験してからなんて言うのは甘えだぞ! 現場での観察は当然だが、事前の勉強は必須だと思え!」
「でも、今迄だって上手く行ってたんだ!」
「そ・れ・は・な! 何も考えずに動くお前に! 周りが合わせてたんだよ! 他の連携を気にしている奴は、ちゃんと周りを見て、どう動くかを考えているんだ! お前の様に好き勝手に自分だけが気持ち良く動いたりはしないんだよ!
……そんな奴が地元を離れて違う土地へ行けば、仲間だって気が付くんだ。任務に行こうとしても御免ねと置いて行かれて、その内隊からも外される。そういう奴が地元の自警団で威張り散らしているのを見た事は無いか? 地元の森には詳しいと豪語しながら、決して余所から応援に呼ばれない、そんな奴が居なかったか?」
騒ついていた獣人達が口を閉じる。
ガルア教官の講義を受けるのは、全てが獣人達だった。だからこそ、身内に話し掛ける様に教官は語り、不平を漏らしていた者達も少しは頭を働かせようとしていた。
「勘というのはな、それまでに積み上げてきた知識や経験の賜物だ。ずっと活動していた地元で同じ仲間達と一緒にやっていくならば、それは勘が働くのは当然だが、知らない土地と仲間で勘を働かせようと思っても、その為の積み重ねが無い。その為に勉強が必要なのだ。
我々は頭が悪い。体験を伴わなければ、結構直ぐに忘れてしまうから、勉強が嫌いなのも分かる。だが、何処かには残っていて、それが勘の元になる。
魔物学、気候学、地政学、何でも学んで共有しろ。分からない事が有れば聞け。分かる範囲でなら答えよう」
そこからは順調に訓練が続いた。
獣人達で学院へ入ってくるのはその殆どが騎士。だからこそ初年度に武術の講義を受けない獣人はおらず、此処に居るのは今年入学した新入生か、実際に一年置いて行かれた者達だったからだ。
そして新入生達も、つい先日三人の仲間達と別れを告げた所だった。
今も最前列中央にいるレヒカが、別れの言葉を述べていたのを、哀しい気持ちで見ていたのだ。
ガルア教官が声を荒げたのも、或る意味三人しか『教養』に落ちていなかったというのも有るのかも知れない。例年ならば、『武術』の初日に参加出来るのは、それなりに勉強する事の重要性を理解していた者達ばかりだ。殆どの者が引っ張り上げられたこの年は、常に無い空け者振りを見せていたのだろう。
全体行動での決まり事。行進でのルール。実際に動きながらの説明の中で、しかし事件は起こった。
「――次は敬礼だな。我らが王国の敬礼は、知っての通り手の甲を額に付けるが、昔からそうだった訳では無い。昔は利き手の掌を相手に向けて軽く掲げる物だったと言われている。今でも気安い挨拶には使われているな。
これは単純に自分がここに居ると示す他にも、武器を持っていない事を示して友好を現す儀式と言えるだろう。ただ、周辺国では指先を額に翳す敬礼が多い事から、時代と共に手の甲を額に付ける形となったらしい。伝統を守った上で他国へも敬意を示した訳だ。
他国の敬礼は、兜の庇を上げる仕草や、帽子を取る仕草、良く見る為に手で庇を作る仕草と意味合いは違うが、どれも同じ様な動作になるのは面白い事だな。
――では、敬礼!」
号令に合わせて、バッと音すら揃えて手を額に当てる受講者達。
見事に動きが揃いつつ有ったが、一人だけ違った動きをする者が居た。
最前列に居たレヒカだ。
「……それは何のつもりだ?」
「は! 私は両手利きなんだよ!」
両手の甲を額に付けたレヒカ=カティは、誇らしげにそう答える。
成る程、と獣人達が目を見開いた。
「いや待て、納得するな。先程儀式の様な物だと言っただろう? 既に無手である事を見せる意味合いは失われているから、両利きだからと行って両手で敬礼する必要は無い。左利きでも、右手で敬礼だ」
「それだと敬意を表せないんだよ?」
「違う! 言うなれば召使いがお辞儀するのと同じ様な物だ。尊敬している主人だからと、ぺこぺこ何度もお辞儀をするのは見苦しいだろう? 敬礼は右手! 分かったな!」
「わ、分かったんだよ!」
「よし、ではもう一度だ。――敬礼!」
バッと再び受講者達が手を掲げる。
レヒカは正しく右手だけを。
三割程は両手を。
左手だけを掲げる者もちらほらと。
「違うっ!! 聞いていたのか!! 敬礼は右手だ!!」
下手に素直で思い込みが激しい奴らは扱いが難しい。
ガルア教官は、そう嘆くのだった。
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