(33)俺達の冒険はまだこれからだ。

「おっ! 旦那ぁ、お帰んなせぇ! …………見た目は何時もの通り豪快でやんすけど、何だかパッとしないでやんすねぇ?」


 そんな台詞を投げ掛けられて、ガズンガルは苦笑を浮かべた。

 そしておもむろに、背負っていた巨獣をその場へと降ろす。

 ズズンと地響きが立ち起こり、湖に響動どよめきが響き渡った。


 ガズンガル達が見付けたはぐれ巨獣は、雑食の羆兎である。大陸中央部ではデリエイラの森にしか棲息しておらず、肉質も毛皮も上質。しかしそれは野の獣と較べて、といったところで、魔の森の産物に相応しい特別な何かが有る訳では無い。

 毛皮として見れば、巨大な一枚物にはそれなりに需要は有るだろうが、小さな兎の継ぎ接ぎで出来ない物でも無く、肉においては各部位の肉が揃っている小さな兎の方が料理にも生かし易い。肩肉だけで一人前も味気無ければ、色々楽しめて兎一羽といった方がメニューにも映えるというものだろう。

 そもそも大鬼オーガと同程度の大きさながら、兎の瞬発力も羆の怪力も中途半端なはぐれの羆兎なんていうものは、ランク六を抜け出そうという冒険者であっても狩り易い獲物である。それ故にパッとしないとスカーチルに評された訳であるが、ガズンガルは苦笑を浮かべるしか無かった。


「仕方が無いだろう? 何の獲物にも行き当たらないまま、回復薬も期限切れとあっては足が出るわな」


 そう言って、光を失った回復薬の瓶を振ると、スカーチルも首を振って溜め息を吐く。


「鬼族の氾濫の対処に、大方がそちらに行ってしまいやしたから、こっちはえらい淋しいもんでやんすよ。旦那達には期待したんでやんすがねぇ……小鬼ゴブリンの魔石ばかりじゃあ、経済ってゆーのは廻っていかないんでやんす」


 何時もの様に「仕方が無いでやんすね」と返されるかと思っていたところに、そんな思ってもみなかった言葉を掛けられて、ガズンガルは表情を引き締めた。確かに湖の周りに人が少ないとは思っていた。

 ククラッカは何を思ったのか顔を顰め、ダニールシャはきょとんとして口を開けている。


「おや? そう言えば旦那は氾濫の情報が出回る前に、奥へ向かったんでやしたか? なら、昏い森に向かわなかったのは、運が良かったのかも知れやせんねぇ」


 何ということ無い様にスカーチルは口にするが、冒険者なんてものを続けていると、情報の不足がどれだけ危機的状況を招くかは身に沁みて体験している。

 だからこそ、ガズンガルは重々しく口を開いたのだ。


「…………詳しく話せ」


 そこで聞き出したのは、丁度ガズンガル達が街を出た後くらいから、小鬼ゴブリンの大量沸きが発覚し、つい先日には歪豚オークまでが確認されたとの情報だった。

 初日に昏い森の横を抜けた時に、騒がしく感じたのは気の所為では無かったかと、ガズンガル達はほぞんだ。


 しかしながら、さて、ここから挽回するにはどうするのが良いか――などというのは、今更悩むものでも無い。何時の日も事有る毎に話題に載せてきたもしもの話を、実行に移すだけの事である。


「なぁ? 槍の親父の話を憶えているか?」


 ガズンガルが仲間達にそう問い掛けると、ククラッカは嫌そうに益々顔を歪め、ダニールシャは思い当たったのか、納得したかの様な気取った表情を見せる。

 コルリスの酒場のマスターである槍のフィズィタールが昔語りに聞かせてくれたのは、十六年程の昔にも発生したという、前回の鬼族の氾濫の顛末だった。


 領城からも見える程に近く、昏い森の入り口近くまで姿を現した鬼族の守護者に、当時も応援に来る特級冒険者の居ない中、領主ライクォラスが取った手段は領主自らの出陣であった。

 破城鎚のライクォラス将軍に、槍弓のオルドロス、槍騎士フィズィタールが先陣を切っての怒濤の反攻は、界異点から外に出て街の近くまでのこのこ姿を表していた守護者を討ち取り、そして氾濫は終わりを告げた。


 通常界異点の守護者は、界異点の向こうに在る異界からは出て来ないものだが、氾濫が発生している時だけは界異点の外に姿を現すという。そして、守護者を斃す事により、氾濫も沈静化する。

 そんな話を持ち出してくれば、ガズンガルが何をしようとしているのか、嫌でも分かろうというものだった。


「おいおい、将軍のランクはB、支部長もランクA、後に続くにも無茶が過ぎるぜ!?」

「だが、槍の親父はランク三だ。吶喊なんて事は出来まいが、遣り様は有るんじゃねぇか?」

「ん~~、あたいも賛成に付くかねぇ? 今のまんまじゃ、何の為に冒険者に成ったのか、分かりゃあしねぇよ?」


 二対一の状況に、ククラッカが肩を落とす。


「無茶を言ってくれやがるぜ……」

「うはは! お前が無理だと言うなら仕方がねぇが、無理じゃねぇんだろ?」


 そんな言葉にククラッカは、チッと舌打ちをして目を逸らした。


 そうと決まれば今回の探索は延長戦だ。回復薬の補充も必要なら、食料だって調達が必要だ。

 そんな諸々を全てスカーチルに丸投げすると、スカーチルが目を剥きながらも、何処か嬉しそうに了承する。


「旦那は人使いが荒いでやんすねぇ。ま、いいでやしょ! あっしに任せやっしゃ!」


 次の日の朝に、手を振るスカーチルを見送れば、一日ばかり暇が出来た。

 そう言えば、夕方に街に戻って、朝、湖に来れば、ゆっくりと街で休めるのでは無いのかとガズンガル達はスカーチルに聞いたことが有る。実際にそういうポーターも多い事から気になったものだが、大物を狩る冒険者は大抵夜になって湖に帰り着いて、一晩明かして朝に街へ帰るものだと言われれば、確かにそういうものかと納得した。

 そんな事を考えながら、ガズンガル達は湖の畔に体を伸ばすのだった。


 軽く食材を集めながら、折角だからと木の一つをり出して、担ぎ上げればまた響動めきが起こる。

 常に限界以上の力を振るおうとしていたが為か、『剛力』だとか『発破』だとか、要は底上げや爆発力といった向きの技能が多く身に付いた。魔力の扱いは苦手とし、“気”の扱いについては出力は高くても調整が利かない。尖り過ぎた性能は普段の探索を映したものと言えるだろうが。

 代償とばかりに腹が減るわ筋肉は悲鳴を上げるわ、特に奥の手なんざ使った日には数日意識を失うと来ては使い所が限られてくるものだが、自分には似合いの力だとガズンガルは獰猛な笑みを浮かべる。

 ドルムザックのように技を磨く忍耐は無い。

 ファルアンセスのように調べた知識を活かす知力も無い。

 ククラッカのように藪の間を抜く精密さも無い。

 だが、力とは力だ。豪快に突き進んだ先で辿り着ける場所も、それは一つの到達点に違い無い、と。

 それが自分の突き進み方だと、ガズンガルは思うのだ。


 まぁ、同じく身動き出来なくなる切り札を持っているのがダニールシャだが、結局の所、ガズンガルもダニールシャもそんな手を切る事は出来ない。二人が無謀な博打を打ったとして、残された小柄なククラッカが一人で何を出来るものだろうか。特攻を掛けられるのは、後を任せて心配の無い場面だけである。

 そういう意味でも、ドルムザックとはもう一度一緒にやっていきたいものだとガズンガルは思う。ククラッカとドルムザックが揃っていれば、動けないガズンガルとダニールシャを担いでの街までの退却も、何食わぬ顔をして成し遂げるだろう。ひょっとしたら、南の巨獣地帯も抜けられるかも知れない。そんな期待が有った。


「やっぱ、三人は厳しいなぁ」


 巨木の枝を払い、ザクザクと板状に切り分けながらガズンガルがぼやくと、その板を適当に小屋の形に組んでは蔦で縛っていたククラッカが応える。


「何だ? 仲間を増やす気は有ったのか」

「……おっさんを仲間に引き込むのは好かん。だが、ドルムの他にも一人二人はなぁ」


 デリラの街で、トップに躍り出たのがガズンガル達のパーティだとはいえ、それまでも頭を張っていた冒険者が居なかった訳では無い。

 ガズンガルよりもずっと昔からランク三を張っている髭のゾーラバダムは、後進の底上げだとか言って、最近は丸で湖の主の様に成り下がっている。街に居るよりも森に居る方が長いのだから、ランク三のゾーラバダムと言われても、知らない住人も多いに違いない。

 ランク四五辺りの上級予備軍になると、決まり切ったパーティで行動している為、仲間に誘うのも中々に難しい。只でさえ上位の冒険者は癖が強いのに、ガズンガル達は疾風怒濤とでも言うべき独特のスタイルだから、合わせるのも酷だろう。

 ガズンガル達の探索は、ククラッカの索敵頼りに三日の距離を一日で駆け抜け、ガズンガルとダニールシャの物理魔術取り揃えた大火力で一気に攻め上げ、ガズンガルの剛力任せに巨大な獲物も担いで帰る、そんな行程だ。その中に入り込める冒険者を見繕おうとするならば、それこそゾーラバダムの様に後進の教育から始める事になるのではないだろうか。

 街の生まれでランク二以上が居ないという事は、誰もが通る道なのかも知れないが、まだ若いガズンガル達は、立ち止まる事を是とする事は出来なかった。


 そんな状況で底上げをするには、冷静沈着で司令塔にも成り得るドルムザックを欠かす事は出来ない。ダニールシャも普段は便利に魔術を使うが、狩りの際には攻撃ばかりで手が回らないので、支援系の魔術師も欲しい。更に言うなら阻害系や攻撃手も追加で欲しい。……まぁ、流石にそこまでは贅沢だろうが。

 盾持ちは鈍重に成り兼ねないから微妙だ。黒大鬼クラスになると、余程の盾技能持ちで無ければ役に立たないから尚更だ。盾が有効なのは中型や小型相手になるだろうが、そうなると今度は相手の素早さに、盾持ちだけが盾を持っていても意味が無くなってしまう。迷宮の様な狭い通路ならば兎も角、全方位警戒対象の森の中で盾は生かせられない。盾が生きるとしたなら、それは盾持ちを並べて圧力を掛けられる集団戦になるだろう。

 まぁ、ドルムザックが入るだけでも大分と変わる筈だが……。


「……いかんな。ドルムの他には思い付かん」

「ライクォラスなんていいんじゃね?」

「ブッ! ……くくく、将軍を仲間に引き込めりゃ、そりゃあ最強だぜ」

「うははは! 違いねぇ!」


 街を守るなら街の住人の手でと拘ってしまうのに、街の外から来る冒険者に新しいメンバーを期待してしまう。

 どうにも儘ならないものだった。


 日差しを避けられる小屋が出来上がってしまえば、まずはゴロリと横になる。気が向けば釣りをする。まただらだらと過ごしながら、汲んだ水で体を拭う。適当に木の実を集める。そしてまた横になる。

 そうこうしている間に夕方になって、スカーチルが戻って来た。


「おう! ご苦労だったな! ……やけに釣りが多くないか?」

「いやね? 錬金術屋が腕を上げた様でね? 旦那に渡された期限切れの回復薬を渡したら、随分おまけしてくれたんでやんすよ。今迄はそんな事は無かったんでやんすがねぇ?」

「ははぁ。ま、お遣い助かったぜ」

「こっちもいいお駄賃でやした、お互い様でやんすよ! 今迄行きの空荷は淋しいもんでやしたから、新しい小遣い稼ぎにもいいかも知れやせん」

「ははは、ま、これからも頼むわ」


 そのままその日はゆっくりと休み、夜が明けたら小屋を崩して、スカーチルに伐り倒した木の残りも合わせてくれてやる。街での薪用とでも何とでも上手い事するだろう。

 そのまま再び“裏戸”へと向かった。


「確かにこれはやばそうだねぇ?」

「今にも溢れそうだぜ」


 ダニールシャとククラッカが溢す様に、グギャグギャと騒ぎ立てる騒音が、昏い森の縁まで迫ってきている。

 だが、その向かうのはデリラの街の方角だ。豊穣の森へはまだ溢れていない。

 死んだ鬼族が土塊つちくれに変わる様に、鬼族は酷く不安定だから、他の魔族の界異点を避けるとどうしても街の方向へと向かうのだろうというのが通説だが、どうにも迷惑な話だ。


 ならば、放置していても結局森の中からは出て来ないのではないかと思うかも知れないが、何代か前の領主がその手の実験をしたと記録には有る。

 放置しても暫くは昏い森から大きく鬼族達が溢れる事は無かったが、或る時から急に日が陰る昏い領域が森を越えて草原へと溢れ出し、その領域内は平然と小鬼ゴブリン大鬼オーガが闊歩する様に成ったという。慌てて森の探索に繰り出せば、嘗て無く森の浅い場所に、鬼族の界異点が新しく出来ていたとか。


 その事が有ってから、鬼族の氾濫というのは、巣別れの様なものだと理解される様になった。恐らく新たな界異点の守護者が生まれた結果、仲間を引き連れた守護者が新たな場所に界異点を築きに向かうのが氾濫なのだ、と。


 ガズンガル達からしてみれば、森に入らずとも大鬼オーガや黒大鬼が狩れると言うのは心惹かれるものが無いでも無いが、デリラの街の住人としては許容出来るものでは無い。

 だが、守護者を見つけ出して狩ろうにも、広大な昏い森の何処に居るとも知れない守護者を見つけるのは、一筋縄では行かない。

 以前の氾濫で領主らが討伐に赴けたのも、領城から見える範囲で木々が薙ぎ倒されるのが見えたからだと言うから、盲滅法に森の中を突き進んだところで、成果など得られる筈も無い。

 だが、もしかしたら――


 ――もしかしたら、巣別れの直後ならば、昏い森の中心点近くに留まったままの、守護者を見付ける事が出来るのでは無いだろうか。


 酒の場の会話だったとは言え、真面目に街の事を考えての白熱した議論で出たアイデアだ。酒が抜けた後でも、度々繰り返し話し合ってきた。その、街の危機への対応策だった。

 今迄通りの対処ならば、兎に角人海戦術で鬼族共の数を減らし、そのまま氾濫が治まれば良し、治まらずに守護者が現れれば、これ幸いと領主の出陣となったのだろう。

 しかし、それでよしんば守護者が現れずに氾濫が治まったとしても、それはつまり誰も把握していない森の奥に、鬼族の界異点が一つ増えた事に外ならない。

 そんな事を知ってしまうと、ガズンガル達の抱える閉塞感も相俟って、放置するには薄ら寒い嫌な予感が拭えずに付き纏っていた。


 だからだろう。氾濫中の昏い森の奥へと、たった三人で向かう決定を下してしまったのは。


 ファルアンセスが居たならば、厳しい口調でその計画が穴だらけである事を指摘し、計画を諦めさせただろう。

 ドルムザックが居たならば、呆れを隠さず物理的に止めに入られ、勝っても負けても計画は頓挫する事に成っていただろう。

 しかし、ここに居たのは何だかんだと突撃を噛ます行動優先の二人と、慎重を要求される斥候ながらも暴走しがちな二人を放っておけない一人しかおらず……

 結果としてその無謀な計画は阻まれる事無く突き通されてしまったのだ。


「お、“裏戸”から大鬼オーガが迷い出て来てるぜ」

「ふぅむ……森から出られると、思ったよりも厄介だな」

「『疾風陣』掛けるからククがおやりよ?」

「ふ、任せな。支部長の槍弓じゃねぇが、しっかり仕留めてやるぜ」

「ま、俺は横手に回るがね」


 “裏戸”を出た所に在る、花咲く草原に迷い出ていた大鬼オーガを相手にしても、そんな軽いノリで仕留めてしまえた事も間が悪かった。

 通り抜けた物を加速する『疾風陣』を周りに敷いて、ククラッカが放った矢は見事大鬼オーガの額を打ち抜き、よろけた大鬼オーガは横合いから襲い掛かったガズンガルに両足と腕と首を刎ねられて大地に沈んだ。


 ノリで過剰攻撃を繰り出したガズンガルを含めて、氾濫というものに対する焦燥感とはまた別の、気の緩みや集中力の欠如といったものがその頃から有ったという事なのかも知れない。

 しかし、それも或る意味仕方の無い事では有った。ガズンガル達は既に探索に入ってから十日を過ぎている。普段ならば、街へ帰っている頃だ。

 大した獲物は居なかったと言っても、見えない疲れは心身を蝕んでいたに違い無いのだから。


 そんな疲れを自覚できたのは、一日二日を様子見に費やして、その次の日から昏い森に入り込んで更に五日、付き纏う怠さと体の強張りに、大分と光も弱くなった回復薬を一本ずつ空けた時の事になる。


「やばいな……そろそろ引き揚げ時だぜ?」


 寧ろ引き揚げ時を見誤ったと言い兼ねない口調で、悔やむ様にククラッカが口にする。

 またもや期限切れにするよりはと、栄養剤代わりに呷った回復薬。しかしそれがじわじわと麻痺させてしまっていた感覚を一時いっとき蘇らせ、寧ろ溜まった疲れと緊張を自覚させられてしまったのだ。


 昏い森に入ってから、大鬼オーガや黒大鬼との接敵を避けていたのも、疲れが表に出て来なかったという点で運が悪かったのだろう。

 鬼族同志はどうやらお互いを感知出来るらしいという事を、経験的に感じ取っていたガズンガル達だからこそ、奥地へ行く事を優先して戦闘を避けたが為に起きた事だった。


 そこまで入り込んでしまえば、昏い森の特性から、辺りは殆ど漆黒の闇である。『儀式魔法』ばかりが持て囃される世の中では有るが、そればかりは自前の魔力操作や“気”で探知が出来る、知覚系技能にも優れる三人だからこそ踏み入れる奥地でもあった。


 そんな暗黒の中でダニールシャは、ククラッカの言葉にあからさまにほっとした様子を見せていたのだが、暗闇の中ではガズンガルには分からなかった。


「もう一日だけ、もう一日だけ探索を進めねぇか? 幸いまだ回復薬は五つずつ有るんだ。もう一日だけ、な?」


 ガズンガルの戦い方は、限界を超えたその先を常に引き摺り出す様な戦い方だった事も有って、普通なら引き返している疲労の中に自らが有る事に気が付けなかった。

 ククラッカにも、危機らしい危機と遭遇せずに嘗て無い奥地まで辿り着いた事から、このまま何の収獲も無く引き返す事を惜しいと思う気持ちが有った。――尤も、それも疲労から来る判断の誤りだったのかも知れないが。

 ダニールシャは天を仰いでから、仕方が無いと最後の気合いを入れ直す。他から見れば、無理無茶無謀を繰り返して先陣を切り拓いてきたパーティなのだ。こんな事は、これまでにもしょっちゅう繰り広げてきた遣り取りだった。しかし、寧ろ期限を決めているだけましに感じてしまったのは、疲れで感覚が麻痺していた事も有るだろうか。


 恐らくは、ここで帰還を選んでいたならば、きっとこの後も何事も無く、行きには無視していた黒大鬼くろオーガ辺りを適当に狩って、森の入り口辺りで目を丸くするディジーリアと出会って、英雄も生まれなかったのだろうが、しかし三人はあと一日の探索を選んでしまった。

 どちらが良かったとも言えないのかも知れないが、まだ堅実で、彼らの実力で何とかなる道から外れ、運次第でどう転ぶか分からない波乱の道へと入り込んでしまったのは、この時なのは確かな事である。


 そうして慎重に探索を続けること更に一日。

 丸で視界の効かない暗黒の中で、ぎりぎりお互いを感じ取れる距離を保って、ククラッカが先行する。その直ぐ後を辿る様に、ガズンガルとダニールシャが一塊ひとかたまりに進んでいく。

 ククラッカの感知能力頼りの探索だったが、それもこの日で終わりを迎えようとしていた。


「駄目だ、戻るぜ。手に負えん」


 するするとガズンガル達の下まで戻ってきたククラッカが、否を許さぬ口調で告げる。

 その声ですら、暗闇に吸収される様に聞こえ辛い中、ガズンガルはつい大声に成りそうなところをククラッカの忠告通り何とか抑えて聞き返す。


「どういう事だ?」


 そんな言葉に、ククラッカはスッと手を森の奥へと伸ばした。


「この向こうに何が在るか感じ取れるか? ――ま、答えから言うと界異点としか思えない、何の反応も無い球状の空間が在る。と、思って調べてみれば、直ぐ近くにもぽこぽこと鬼族の界異点が在りやがるぜ。此処は鬼族の界異点の巣だ。鬼族の界異点は空間に空いた穴だとは良く言ったもんだぜ」

「……そんなにやばい感じなのかい?」

「やばいのは既に身に沁みている筈だぜ? それに、俺達には目も見えない森の奥も、鬼族共にとっては真昼の草原が如しの様だぜ、どう考えても、見えてやがる」


 そう言われると、ガズンガルも唸るしか無い。


「…………撤収だな」


 決めてからは素早かった。

 今度は一丸となって、ただ只管ひたすら西を目指す。

 せせらぎを左に聞きながら、只々西へ。

 一度通った道ながら、厄介な植物も生えている為それ程距離は稼げないが、一日戻り、二日戻ると、辺りの暗黒が黒い濃霧レベルまで落ち着いてきた。

 視界が塞がっているのは変わらないが、そこまで闇が晴れればお互いの顔も見えてくる。安心感という事で言えば、暗黒の中とは較べものにはならない。


「……撤収して正解だぜ」


 ククラッカが幾分低い声でそう言ったのには訳が有る。

 小走りにまで足を速めていたガズンガルが、左の掌でずっと胸を押さえていた。


「いや、これは今し方だぞ? 走り始めたら、ちょいと響くんだよ!?」

「…………やれやれだぜ」


 後悔を含んで首を振るククラッカに、胸の痛みを堪えて走るガズンガル、ただ黙々と走るダニールシャの、誰もが警戒を緩めていた訳では無い。

 しかし、それでも帰り道である事が、何処か心の底に安心感を齎していたのだろう。


 そんな彼らの直ぐ後ろにまで、脅威が迫っている事に、誰も気が付けなかったのだから。


 音では無く地響きで、始めに気が付いたのはやはりというかククラッカだった。

 僅かに足を地面に付けたその間に、響いてくる揺れを感じてククラッカは周囲へと意識を飛ばす。

 次いでククラッカの様子を見てガズンガルが気が付いた。おもむろに担いだ大剣の柄へと手を伸ばし、捻った体に呻きを洩らす。

 ダニールシャが気が付いたのは一番最後ながら、しかし誰よりも速く牽制の火の玉を後ろへ飛ばした。


 黒い濃霧に包まれていたとしても、お互いの顔が見える程度の濃さだ。

 火の玉の軌跡が霧を少し晴らしながら進んだことも有って、ガズンガル達は本の数秒の後ろに何が迫っているのかを、その時目撃したのだった。


 飛ぶ火の玉の向こうに一瞬見えたのは、霧の向こうから浮かび上がる黒い塊。

 しかし、火の玉がその黒い塊に潜り込んで、破裂した火の玉がその周辺の黒を弾き飛ばしたおかげで、その中身をガズンガル達は知ることになる。


竜鬼ドラグオーガ!! 何時の間に!!」

「稼げぇええええええ!!!!」


 暗黒を纏って姿も音も魔力の反応も隠しながら、界異点の守護者が直ぐ後ろまで迫っていた。


 ククラッカが振り絞る様に叫んだのは、既にこの距離では逃げる事は叶わないと判断したからだった。

 既に後手に回っている状況で、何とか大技をまして立て直す時間をしか無い。

 ガズンガルは普通に剣を使ってもそれなりにやるが、真価を発揮するのは『溜め』を使用した時だ。だから、全力疾走に近い状態で始めに時間を稼ぐのはガズンガルの役目、崩しの大技はダニールシャの役目、そこで崩した時間を使って、『溜め』に『溜め』た致命の一撃を入れるのが再びガズンガルの役目になる。

 ククラッカ自身は、こういう時は囮の役目を果たすしか無い。右に左に竜鬼の視線を誘い、動きの鈍いガズンガルのフォローに入る。


 ――そう、ガズンガルの動きが鈍かった。

 ただ胸の痛みが有るというだけでは無く、動きそのものがぎこちない。

 体の強張りを意思の力で捩じ伏せる様に、常に無い大振りでしかし何とか歯を鳴らす竜鬼を牽制する。


「くそっ! 情けねぇっ!!」


 竜鬼の姿は、言うなれば厳つい大蜥蜴だ。角張って鬼族特有の鋭い角を生やした頭が、黒大鬼よりは僅かに低い高さから見下ろしてくる。

 這った頭の高さでその位置という事は、体長が黒大鬼の何倍かなんていうのは考えたくも無い話だが、そんな化け物が横に踏ん張った脚で大地や木々を跳ね散らかしながら、ひた走るガズンガル達を追い掛けてくる。

 凌げているのは、ひとえに竜鬼が何らかの攻撃で仕留めないととでも思っているのか、噛み付きを繰り返すばかりで突進を繰り出して来ないからだ。

 仮に突進で轢き殺しに掛かられれば、直ぐにでも終わる自覚が有った。


 今ならばガズンガルにも分かる。ランク五と四、ランク四と三の間にも大きな壁が有る様に、ランク三とランク零との間には隔絶した差が有るものなのだと。簡単に守護者を見付けて討伐するなどと言った自分が、どれだけ無謀な事を言っていたのかを。その上で疲労や魔石病に蝕まれて、碌に仲間を守る事すら出来ていないのだと、ガズンガルは理解した。


「情けねぇっ!!」


 歯を食い縛り、噴石の様に落ちてくる巨大な蜥蜴面に、無理矢理大剣を合わせていく。

 大剣で殴りつけるのは、攻撃する為では無く、蜥蜴面を逸らす為でも無く、寧ろガズンガル自身を大きく開いた口から回避させる為だった。大剣を叩き付け、その反動で横へ避ける。剣を間に介しているから、竜鬼が頭を振っても何とか逃げられる。

 噛み付かれれば、一瞬で終わるだろう。


 そうして僅かに時間を稼いだその成果に、打ち放たれたダニールシャの火焔球は、いつものよりも発動が速く、いつもよりも少しだけ小さかった。

 その狙いはあやまたず、頭を上げた竜鬼の目の間に炸裂したが、そこでもまたガズンガルは判断を誤ってしまう。


 いつもの様にダニールシャの大技で作った時間で、より強力な『溜め』攻撃を放とうとしてしまったのだ。

 ダニールシャの大技で、時間を稼げたのかを確認もしないままに。


 よくよく考えれば、『溜め』てもいなければ“気”も魔力も通っていないとは言え、ランク三のガズンガルの攻撃が全く効かない化け物に、ランク五のダニールシャの攻撃で時間を稼げるものでは無い。

 それでも逃げの一手と割り切れなかったのは、逃げられるものでは無いという焦りも有ったからだろうか。


 だが、普段通りの力を発揮出来れば、『溜め』た一撃は黒大鬼の胴を容易く輪切りにする。固めた巨大な拳の一撃を弾き返す。奥の手を使わずとも、『溜め』る事さえ出来れば大抵の事は乗り越えられる。

 その筈、だった。


 真実、後ろに垂らしていた大剣が、噛み付いてきた蜥蜴頭に、振り上げ振り落とされていたならどうなっていただろうか。

 しかし、その機会は訪れなかったのだ。


 目で見えず感知系の技能でしか捉えられない黒霧の向こうから、黒い蜥蜴頭がぬっと現れては落ちてくる。既に地面にはその長大な角で穿たれた深い穴と、囓り取られた凹穴が数多い。それらを捌いた僅かな経験と勘で、ガズンガルは後ろに垂らした大剣の振り上げと振り下ろしに“気”と魔力をぎ込もうとして――


「ぐぁあああああ!!!!」


 胸から全身に広がる激痛に、叫びを上げた。

 折角の『溜め』が霧散して、振り上げた大剣がひょろりと揺れる。

 間髪入れずにガズンガルを突き飛ばしたククラッカがいなければ、ガズンガルは確実に竜鬼の口の中に呑み込まれていたに違い無い。

 そのククラッカは、ガズンガルを突き飛ばすと同時に、大きく開いた竜鬼の口の中に、ククラッカの奥の手でも有る爆裂釘を投げ入れている。

 魔石の削り出しで造られた爆裂釘は貴重品だ。特に、切り札とするべくククラッカが持っている物となると、軽く百両金以上はする。衝撃を与えると爆発する危険物だった。

 それが竜鬼の口の中で弾け、その爆風に乗ってククラッカも蜥蜴頭の落下地点からガズンガルの居る方へと向かって跳び下がる。序でとばかりに大地に頭をぶつけて動きを止めた蜥蜴頭に、残る一本の爆裂釘を投げ付けた。


 だが、そこまでだった。

 反射的に振り払われた竜鬼の右前脚が、ククラッカとガズンガルを薙ぎ払う。

 為す術も無く、ククラッカとガズンガルは宙を舞った。


 その最中さなかであっても、己の持つ大光石をガズンガルに投げ渡したククラッカは大殊勲だろう。その所為でククラッカは体勢を崩し、無理な姿勢で木立に激突することになったが、受け取ったガズンガルはその意図を諒解し、まだ『溜め』の影響が残っていた“気”と魔力をその大光石に打ち込み、そのまま足が地面を捉えると同時に木立の隙間を狙って力一杯投擲する。


 瞬間、ガズンガルの直ぐ脇を、黒い巨体が走り抜けた。


 その脚に潰されなかったのも、振り回される尾に弾き飛ばされなかったのも、全ては幸運でしか無い。

 他の物には目もくれず、竜鬼は煌々と輝きながら飛び去る大光石だけを追い掛けていった。


「ぐぅう……」


 軋む体を奮い立たせて、ガズンガルはククラッカの衝突した木の下まで戻る。

 そこには既にダニールシャが駆け付け、もう殆ど光を失った回復薬を飲ませていた。

 ガズンガルも自身で一本を空け、残りをダニールシャへと渡す。


「悪い……悪いが、直ぐに移動するぞ」

「貸し一、だぜ……」

「嗚呼。助かった」


 木立に激突しながら、気丈に意識を保っていたククラッカの軽口に、神妙にガズンガルは返す。

 しかし、いつ竜鬼が戻って来るか分からない現状では、其処に留まる事は出来なかった。


「期限切れの回復薬でも出血が止まって助かったよ」


 少し安心した様子のダニールシャが、しゃがみ込んだガズンガルの背にククラッカを乗せながら告げる。ガズンガルが背負っていた荷物袋にダニールシャの荷物袋も入れて、ガズンガルの代わりに纏めてダニールシャが背負った。収獲も無ければ食料も少なくなっている現状、荷物の量も頼り無い程に少ない。しかし、それが有り難く感じる程に、三人共が疲れ切っていた。


「ぐぅ……」


 出血は止まっても、骨が折れているのか、ククラッカが呻きを上げる。

 ガズンガルはなるべく背中を揺らさないよう、慎重に足を進めた。

 ここで再び竜鬼に見つかる愚は冒せない。恐らく警戒網としても働いている鬼族達を遣り過ごしながら、せせらぎの更に南を西へと向かう。

 昏い森の南は巨獣地帯よりも危険度が上の暗黒地帯とされていて、他の界異点を避ける様に動く鬼族達が近付いて来るとは思えない事から、せめてもの安全策だった。


 行き着いた木立と藪で隠された僅かな隙間を、今宵の宿と決める。

 夜通し歩く事も考えたが、昏い森を抜けるのにあと三日近く掛かると有っては、確りとした休息が必要だった。


「すまん。俺は駄目なリーダーだな……」

「く……へたれ、るのは、酒場だけ、に、して、くれ。そいつが、無ければ、いい、リーダー、だ、ぜ」

「そうさね、あたしらはまだ生きているからさ」

「…………すまん」


 見張りを立てる事も出来ず、その日は三人揃って眠りへと落ちてしまった。

 明けて次の日、幾分か軽く感じる体で、その日もただ只管に西へと向かう。

 ここまで歩けば辺りは黒い霧も無く、日中なのに夜の様に暗い森が続くばかりである。


「……撒けたか?」

「さぁねぇ?」

「このまま行けりゃいいがな」


 思惑通り、せせらぎの南では小鬼ゴブリンにすら出会わず、視界も広がった森の中を、ククラッカを背負ったガズンガルとダニールシャは粛々と足を進めていた。


「ククの様子はどうさね?」

「……熱冷ましに食わせたリリムの葉が多少は効いている様だが……」

「ま、あたしらも熱っぽいと言えば熱っぽいんだ。骨も折れてりゃ仕方が無いね」


 鬼族の気配が遠い事も有って、時折駄弁りながらも先を急ぐ。

 このまま行ければ、無事に昏い森を抜ける事が出来そうだと思いながらも、それが先の油断を招いたのだと気を引き締めながら。


 昼になって、目を覚ましたククラッカと共に休息を取る。

 乾肉を細かく割いて、練り固めた携帯食を湯で戻す。


「手間ぁ、掛けさせる、な」

「……気にするな。お前のお陰で全員生き延びた」

「は。それが、パーティって、もんだ、ぜ」

「そうさね。いいパーティだよ、あたしらは」


 しんみりとした空気の中で、仲間の有り難みに想いを巡らした。


 そんな休息を何度か取りながら、そろそろ夕方に差し掛かろうという時、横になって体を休めていたククラッカが、眼光鋭く辺りを見渡し始めた。


「……おい、まさか」

「直ぐ、出るぜ。しつこい、お客だ、ぜ」


 寝ていたククラッカだからこそ、大地を揺らす振動に、逸早く気が付いたのだろう。

 或いは傷に響く振動が為に、嫌でも気が付いてしまったのかも知れない。


 素早く荷物を掻き集め、ダニールシャがガズンガルの背中にククラッカを背負わせる。

 竜鬼に薙ぎ払われたガズンガルも、最早竜鬼と渡り合える状態では無く、ダニールシャの魔術ばかりが頼りだった。


「ちぃっ! どう言うことだよ!?」

「落ち、着け……俺達を、見付けた、とは、限らねぇ、ぜ」

「兎に角、木陰に隠れるんだよ!」

「いざと、なったら……置いて、行け」

「出来るわきゃ、ねぇーだろー、がぁ!!」


 竜鬼の歩く只の一歩が恐ろしく速い。

 ククラッカの言う通りに、竜鬼の進路がガズンガル達の居る場所と僅かに逸れている様だったが、その幅広の一歩が丁度ガズンガル達の横の木をし折るに到っては、僅かに避け得た事実と、身を隠す木々の喪失とで、二重に胆が冷えた。

 這う様な体勢に成りながらも、直ぐ近くに有った茂みに跳び込んで、そこでガズンガル達は息を潜めた。

 竜鬼はその傍を行き過ぎて、せせらぎに沿って更に西へと進んでいく。

 茂みの合間からまだ尾の先が見えるくらいの位置で歩みを止める。

 突如としてズドンズドンと脚を踏み鳴らし、尾を振り回して木々を薙ぎ倒し、落雷の様な叫び声を上げて暴れ出した。


「おいおいおいおい……」

「怒り、狂って、やがる、ぜ」

「帰り道を塞がれちゃあ……暗黒地帯との境を行くのもぞっとしないねぇ……」


 それでも、不意を突かれさえしなければ、まだ何とかなると思っていた。

 暗黒地帯のきわを通るのは、危険の種類さえ分からない点で、無謀に一歩踏み入れる様なものだ。だが、目の前の危機に対しては、それも一つの手だった。

 あと如何いかに竜鬼の目を逃れるかだけが問題だった。


 そう、昏い森の不可解な性質や、竜鬼の行動の謎は有れど、全ては理屈の上に成り立っていて、だからこそ予測も立てば段取りも組める。竜鬼を凌いで帰還する細い道筋に目処を付けられる。

 逆に言えば、そんな理屈を前提にしているからこそ、理屈に合わない何かが起これば、思考は止まってしまうものなのだろう。


 ダニールシャは、藪の中から覗き見る視界の隅、自分の居るその後ろに、佇む二本の足を認めてびくりと体を震わせた。

 眼だけを動かして後ろを見れば、確かにそこには膝上までの黒い革靴、それに膝まで隠す黒いスカート?

 這う様にしていた体をゆっくり開いて、へたり込む様に後ろを見れば、そこには困った様な顔をした、コルリスの酒場のマスコット、毛虫殺しのディジーリアが佇んでいたのだった。


 理解出来ないものに遭遇すると、息をするのも難しくなる。そんなダニールシャが答えの出ない頭を働かせようと焦るところに、容赦なくディジーリアの形をした物が手を伸ばす。

 硬直するダニールシャの周りを、見えない何かを剥がそうとするかの様に、腕を彷徨わせては捲り上げていく正体不明の何者か。

 不思議な事に、その手が何かを引き剥がすに連れて、絡まっていた見えない蜘蛛の巣が剥がされていく様な、何とも言えないほわほわした爽快感をダニールシャは感じていた。


 ダニールシャが終われば、次は振り返ったままに硬直しているククラッカとガズンガルの番だ。

 同じく念入りに、何かを剥がされていっているのだが、ダニールシャは自ら体験したそれからは、悪い事をされているとは思えなかった。先駆者の特権とも言うべきか、硬直して震えながら何かを剥がされている二人を、落ち着いて観察する余裕まで出てきていた。


 それにしても、これは本当にディジーリアなのだろうかとダニールシャは思う。

 暗黒地帯から入り込んできた妖精シーの類が、ガズンガル達の記憶からディジーリアの姿を取ったのだと言われても、信じられそうだった。

 一体何を引き剥がされたのかも分からなければ、合間に宙を掻き寄せる様にしているのも良く分からないが、少なくとも友好的な何かだろうとは感じられた。


「な……何を、して、いる?」


 押し殺した声でククラッカが問い掛けたけれど、ディジーリアの形をした妖精は、困った様子で顔を傾げるばかり。黒い帽子から零れる透き通った赤い髪が、益々妖精らしさを高めている。

 嗚呼、やっぱり妖精だと、ダニールシャは納得する。

 こんな所にディジーリアが居る訳が無い、と。


 首を傾げたディジーリアな妖精は、困った顔をしながら問いには答えず、腰の小物入れから三本の小瓶を取り出した。

 ガズンガル達でも街から四日か五日、ディジーリアなら十日は掛かりそうなこの場所で、煌々と光を放つ回復薬の小瓶を。


 一本は良く見知った、街の錬金術屋の回復薬の緑色。

 一本は少し青味掛かって、より鮮やかに輝く翡翠色。

 一本は溢れる様な輝きを宿した、金の色。


 怒り狂う竜鬼が近くに居る場所で、そんな目立つ物を取り出したら只で済む筈が無いのに、何も起こらない。

 酷く、現実感が薄かった。


「ふむむ……一本は、街の回復薬に活を入れて長持ちさせた通常品。一本は、森の薬草で儂が作った特製品。最後の一本は特製品に手を加えて作った特別品、何が起こるか分からぬ謎の逸品じゃ! ささ、お好きな物を使いなされ」


 挙句の果てには、コルリスの酒場で講談するディジーリアの様に、ふるふると体を揺らしながら口にするものだから、ダニールシャは思わず小さく吹き出した。

 この妖精は、随分とサービス精神が旺盛な様だ。


「あたしゃ一番ましだからね。普通の回復薬でいいよ」


 ダニールシャのその言葉に、ガズンガルとククラッカがぎょっと目を剥く。

 慌ててククラッカが口を開いた。


「お、俺は、特製品、だ。何が、起こるか、分からん、特別品は、荷が重い、ぜ」


 その言葉を聞く毎に、ディジーリアな妖精は、こくこくと頷いてそれぞれの小瓶を渡していく。

 愕然としたのはガズンガルだ。


「俺は謎の逸品か!? ばぁさん、本当に大丈夫なんだろうな!?」


 確かにこのディジーリアは、じーさんでは無くて森のおばばな雰囲気だと思いながらダニールシャは聞いていたが、そのディジーリアの姿をした者は、ばぁさんと言われて大きく目を見開いた。


「ばぁさん言うな!」


 そうしてぶつぶつ言いながら、小瓶の蓋を開けて中身を捨てようとしたものだから、ガズンガルは慌ててその小瓶を奪い取る。


「要らねぇとは言ってねぇぞ!」


 そうして一息にその小瓶を呷った。

 何故かそれを見て、自分も同じく呷らなければならないと感じたダニールシャとククラッカも小瓶を呷った。

 喉を滑り降りた力の塊が、腹で弾けた。


 その時の感覚を、何と表現すればいいだろう。

 凍えきった体での入浴を数倍する快感に、奇妙な悲鳴を上げながら、ダニールシャとククラッカは悶絶した。

 だが、その効果は瞭然だ。何と言っても、一人で起き上がれなかったククラッカが、何時の間にか一人で膝立ちしている。

 ほぼ同時に口から漏れた言葉は――


「お腹がぺこぺこだよぅ」「腹が減ったぜ」


 疲れは吹き飛んでも、今度は身動き出来ない空腹感に苛まされた。

 しかし、謎の逸品を飲んだガズンガルだけは、そんな空腹感とは無縁だったらしい。


「ぅううううううぉおおおおおおおぁあああああああああああああ!!!!」


 ぎょっとしているディジーリアな妖精が、ガズンガルの口を押さえようとするのを撥ね除けて、全身から気炎まで噴き上げながら、仁王立ちで吠え上げた。

 ディジーリアな妖精が、度々顔を向けて気にしているのは、先程まで向かう先で暴れ回っていた竜鬼である。

 今はもう、暴れてはいない。

 闇の詰まった曇り硝子の様な両のまなこで、派手に目立ってしまったガズンガルをじっとめ付けている。

 ダニールシャ達もその段になって、漸く竜鬼の存在を思い出したのだから、気が抜けるにも程が有るというものだろう。

 しかしガズンガルに到っては、視線を感じて振り返り、そこに竜鬼を認めては口元が裂けるかの様な笑みを浮かべたのだ。


「ふははははははははは、はーはっはっはっはっはっはーー!!!!!!」


 そして、何を考えたか、高笑いを上げて竜鬼へ向かって突進する。


「ああ、もうっ!」


 酷く狼狽えた様子の妖精は、一つ吐き捨てると、忽然とその姿を掻き消した。


 ダニールシャは、空腹に倒れ込むククラッカを胸に、深く深く納得する。

 妖精は居たのだと。やっぱり妖精だったのだと。

 暗黒地帯にはきっと妖精の界異点が在って、そこから時折友好的な妖精が遊びに来るのだろう、と。

 そう思って、ダニールシャは口元に笑みを浮かべるのだった。


 後にダニールシャは述懐する。

 あの時は、疲れが溜まっていたのだと。

 寝惚けていたんだねと居心地が悪そうに頭を掻くのだった。


 彼らは皆、心身共に疲労の極致に在ったのだ。

 そこへ、ディジーリアの登場で、働かない頭が混乱の中に突き落とされた。

 そうかと思えば、強力な回復薬の力で、体だけが目醒めさせられる。

 緊張から弛緩への急激な落差で、緊張感と共に現実感までが吹き飛ばされ、更に体は起きて頭は眠った白日夢の様な状態に強制的に移行させられていた。

 ククラッカが起きていれば注意を促す事もしたのだろうが、生憎負傷を特製回復薬で急激に癒したククラッカは、反動で体中のエネルギーを使い切ってしまい昏倒していた。

 止める者の居ない中で、ダニールシャもガズンガルも、ブレーキの壊れた思考状態に陥っていたのだ。


 そんなガズンガルが待ち構える竜鬼へと突撃する。

 溢れるばかりの全能感。

 特別製回復薬に加えられていた黄蜂蜜は、失われただろうエネルギーを補充するのみならず、寧ろ力を溢れさせていた。


 近づく迄に、『賦活法』と『限界突破』を同時起動する。

 これが所謂ガズンガルの奥の手であり、『限界突破』したところに『賦活法』で力を送り続けるからか、気力と魔力と体が持つ限りの自己強化が可能だった。

 竜鬼の手前で立ち止まっては、『溜め』られるだけ『溜め』ていく。

 胸の痛みも今は軽く、二度の失敗は心配しなくても大丈夫だろう。

 後は、落ちてくる蜥蜴頭に垂らした大剣を振り上げ下ろし、剣先が当たった瞬間に『発破』で剣先の“気”と魔力を爆発させてやれば、如何な竜鬼とて堪ったものでは無い――


 ――等と、そこまで考えが到る頃には、ガズンガルの頭も冷えてきている。

 幾ら白日夢の中に居る様な状態でも、これだけ体を動かせば目も醒めるというものだ。

 いや、大丈夫だとガズンガルは胸の中でごちながらも、嫌な汗が止まらない。

 何か見落としは無かっただろうかと思いながら、そもそも鬼と言うのだから、攻撃がついばみと薙ぎ払いだけと考えるのは、些か先走り過ぎてはいないかと思いが到った時には、ただ胸を反らして見下ろしていただけに見えた竜鬼の喉から胸に掛けてが、大きく大きく膨らんでいたのを目にするのだった。


 そう、鬼である。竜の名を冠するのならば、当然考えておくべき攻撃は息吹ブレスである。


 それを見て取って、ガズンガルは一気に意識を覚醒させる。

 息吹ブレスを魔術で防ぐにも、ダニールシャ達を置いて飛び出したのはガズンガルだ。

 避けるにしても、息吹ブレスの範囲が分からなければ、後ろにダニールシャ達が居る以上、迂闊には避けられない。

 吶喊したところで、一撃で仕留められなければ、一転して窮地へ陥る事になる。近過ぎる間合いでは、ダニールシャ達に向かって放たれる息吹ブレスを止める事も出来なければ、ただ伸し掛かられるだけでも致命傷だ。

 息吹ブレスを吐く際にも蜥蜴頭を下げるものと信じて、機会を窺い待つ他は無かった。


 上を向いて息を吸い込んでいた竜鬼が、一旦口を閉ざす。

 閉じた口の端から、僅かに黒い炎が漏れる。


 竜鬼が僅かに頭を下げる。

 しかしまだ大剣は届かない。


 更に竜鬼が頭を下げる。

 だが、何処かおかしい。竜鬼の頭は寧ろ上を向いている。


 竜鬼の首の後ろに、垣間見た息吹ブレスに良く似た、黒い炎の迸りが見える。

 竜鬼の頭は滑る様に益々落ちる。


 落ちる竜鬼の頭が力無く口を開く。

 その後ろに、どぼどぼと黒い炎をこぼす竜鬼の首の切断面が見える。


 死んだ竜鬼の頭が大地に落ちる。

 頭の無い竜鬼の胴体は、両前脚を踏ん張ったまま、最早ぴくりとも動かない。


 その首の上に、禍々しい大剣を振り切った影が一つ。

 影は少女の姿と成り、呪われそうなその大剣を掲げて、喜びの声を上げる。


「竜毛虫! 仕留めました!!」


 少女は踊る。首から黒い炎を噴き上げる竜鬼の死体の上で。

 溢れる達成感をその一挙一動に込めて。

 少女は竜鬼の上で踊り続ける。


 ガズンガルは静かに大剣を背負い直した。

 『溜め』た力も霧散させる。

 結局振るう事は無かったからか、奥の手の反動は大した事が無いが、折角の溢れる力がまたも枯渇寸前だ。

 それでもガズンガルは、ただ呆れた様に笑うしか無かった。


「冒険です! 冒険なのですよ!!」


 嗚呼、確かに冒険だ。

 実入りは無かったが、それどころかククラッカが大怪我まで負ったが、今回の探索は嘗て無い大冒険だった。

 未知へ挑み、謎……は、解き明かせなかったが、嘗て無い強敵と目見え、最後には英雄に助けられた。


 そう、誰が何と言おうと、目の前で踊るディジーリアは英雄と言えるだろう。

 街で一番の冒険者を追い掛け、その窮地に颯爽と現れ助けの手を差し延べるに留まらず、鬼族の氾濫という異変を起こしていた元凶を一撃の下に葬り去る。

 それこそ英雄の所業というものだ。


 この冒険は、ガズンガル達にとっても大冒険だったが、どうやら主役はディジーリアだったらしい。

 そう思うと、ガズンガルは溢れてくる笑いを止められなくなっていた。


「おいおいじーさん、規格外にも程が有るぜ?」


 笑いながら、ガズンガルはディジーリアへ向かって足を進める。

 英雄の凱旋が待っていた。



 ああ、冒険だ、大冒険だ。

 少しばかり忘れかけていたが、これが冒険というものなのだ。

 そして、これからも冒険は続いていくのだろう。

 今回はちぃっとばかし譲ったが、俺達の冒険もまだまだこれからなのだから。

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