(25)ガズンさん達を追って。

 喜び勇んで開けた下り坂を駆け下ります。

 もしかしたら、此処は昔土砂が崩れた斜面なのかも知れません。起伏も少ない坂道には、既に草原の様に草が生え茂っていますけれど、木は端の方に細く小さな若木が生えているばかりです。

 時折頭を出している岩や乾いた地面を飛び飛びに、ぴょんぴょん駆けに駆け下りて、対峙した私の目の前に居たのは幻と言われる大猪鹿でした。


 図鑑にも想像図としてしか載っていませんでしたけれど、それもその筈、大猪鹿は今迄生きた個体が見つかった事が有りません。ですが、それも納得というものなのです。確実にさっきまでは丘の下にこんな獣は居なかったのですから。


 恐らく『隠蔽』とは在り方も異なる隠れる技能を持つ大猪鹿の姿は、ずんぐりと猪の様に丸い体で有りながら、角持つ姿は鹿という、見様によっては剽軽ひょうきんな姿でしたけれど、頭の高さはドルムさんより頭一つ高く、角まで合わせると倍は有る中型の獣でした。

 そして図鑑には描かれていない羽の様な背中の突起。これは生きている大猪鹿に特有の物なのでしょうか。

 それもまた角の様に見えなくも無い、枝分かれして大きく広がる羽の様な突起は、透き通る様に透明な青です。放射される力の感じからすると、あれは魔石と同じ魔力の塊ですね。

 そこまで確かめた私は、丘の下で瑠璃色狼を抜き放ち、未だ頭を振る大猪鹿と向き合ったのでした。


 辺りを魔力で覆い、確保したのは私と大猪鹿とを結ぶ道。体を捻って瑠璃色狼を構えたなら、魔力の道に全身に“気”を纏って突入します。これこそが、塊乱蜘蛛チュルキスを屠った技能の発動条件でした。次の瞬間には私は大猪鹿の頭の下に居たのです。


 瞬間移動する技能は、それこそ『瞬間移動』から『瞬動』、『閃』『超加速』と幾つかあるのを憶えていますが、空間を渡る訳でも、いかづちに身を変える訳でも無く、移動した後につんのめるのでも無いならば、きっとこれは『瞬動』なのです。

 全身から気を発するという、明らかに難度の高い技にも拘わらず、不自然に壁の低い発動のし易さには気味が悪く感じるところも有りますけど、時折冒険者協会でも新しい武技を得たと騒いでいる人達が居る事を考えると、これも何かの切っ掛けで手に入れた祝福技能なのかも知れません。きっと、今の私を『技能識別』出来たなら、そこには『瞬動』と書かれているのでしょう。

 それでも少し気持ちが悪いので、壁の低さに頼らず発動出来る様に、精進はするのですけれどね。

 何にしても、この『瞬動』が有った為に、“気”の扱いが理解し易くなったのも確かでは有りました。


「やっ!」


 瑠璃色狼を一閃すれば、拍子抜けする程に容易く大猪鹿の首が落ちました。

 気を通した瑠璃色狼は、これだ! とばかりにその刀身を輝かせて、まるでその手応えを残しません。「活力」とは違う何かで灼かれたその斬り口からは、血の一滴も零れずにスパリです。

 まぁ、血抜きをしないといけませんので、止血されてしまうのも困りものなのですけれど。


 と思って苦笑しながら倒れた大猪鹿に近付いた私でしたが、そこで大きく目を見開いてしまいました。


 大猪鹿の角と、背中の突起から、滲む様にその魔力が漏れ出てしまっています。慌てて私の魔力で大猪鹿全体をくるみ込んで、逃げる魔力を引き留めたのは、鍛冶で魔石を扱う様に成ってからの反射行動でしょうか。

 ですが、角は兎も角、背中の突起はどう見ても魔力の塊です。魔力が抜けてしまえば、いずれ消えてしまいそうです。今迄見つかった死体にこんな突起が見当たらなかったというのも必然ですねと思いながらも、当然の如くここは確保の一手なのです。

 大猪鹿の力が隠れる力なら、きっとこの魔力こそその鍵となる物に違い無いのですから。


 魔力を押さえ込みながら、突起の根元に剥ぎ取りナイフで切り込みを入れて引っ張れば、丸く膨らんだ突起の根っこをぼこりと引き抜くことが出来ました。

 左右の突起と合わせて二つ。

 角の根元も確かめれば、額に歪な魔石が埋まって、そこから角へと細い道が通じています。歪な魔石を抉り出して、角の中の魔力も出来るだけ回収します。

 そしたらそれを『根源魔術』の力を借りて、丸く綺麗な玉に整形し直して、歪の編み目も整えたなら、漸く魔力の漏れ出しが止まりました。

 見た目は腕で抱え込む程の巨大な魔石です。性質から言っても、魔石で間違い無いでしょう。

 大猪鹿の体の中を魔力で探ってみましたら、胸にも普通の魔石が有ることを確認しました。これは解体しながら回収すればいいですねと思いながら、丸く纏めたばかりの大事な魔石を背負い鞄に仕舞い込むのでした。


(お肉と毛皮の他も、出来るだけ回収した方がいいのでしょうか?)


 ふと、そんな考えが頭に浮かびます。

 私にとっては魔石と装備に使えそうな素材が回収出来ればそれでいいのですが、生きた状態で見つかったことの無い幻の獣ならば、血や内臓も人によっては垂涎の的なのではと思い至ったのです。

 寧ろ、幻の大猪鹿を狩りながら、迂闊に捨ててしまうとどんな恨みを買うか分かりません。私も色々と街の人の手伝いをしてきて、拘りに深く嵌まり込んだ人達の狂気というものは見てきたのです。


(血抜きをした血は桶に入れて、内臓も桶に入れて……もの凄く面倒ですね)


 でも、仕方が有りません。

 ですが、時間が無いのも確かです。血抜きと解体は直ぐにでも手を付けないと、お肉が不味くなってしまいますからね。


 幻の大猪鹿。その名を広く知らしめるのは、そのお肉の美味しさからと聞いています。

 どんな理由で死んでいたのかも分からない大猪鹿の死体の肉を、誰が何を考えて食べたのかは分かりませんけれど、今目の前に有るのは私が斃したばかりの新鮮なお肉なのです。

 お肉を美味しく食べる為に、手を抜く訳には行かないのです。


 灼かれて閉じていた首の血管をじ開けて、頭と胴から「流れ」を使って血抜きをします。

 抜いた血は、覆った魔力と『根源魔術』で、ぽよんと玉に丸めたら、海魔の水衣を使ってぐにゃりと周りを覆ってしまいます。

 ぽよぽよした塊が四つ出来ましたけれど、量はドルムさん二人分というところでしょうか。

 これを運ぶことを思うと気が重くなります。買い取りしてくれなかったらと考えると尚更なのです。

 ですけど、売れればそれはそれで、私の秘密基地の在る空き地の購入資金になるのです。

 それは、抗えない理由というものなのでした。


 剥ぎ取りナイフでお腹を開けて、内臓をごっそり抜いたら、頭も血も胴も内臓も、「流れ」と「活力」の逆作用の力も使って、凍る直前まで冷やします。

 取り敢えず、ここまで出来たら一安心。流石に腸の内容物まで持って帰る気に成れませんが、文句を言われるのも嫌ですので、本の一部を二箇所縛って、その両端で切り落とします。これで何か言われても、知った事では有りません。他のお肉も合わせて川沿いまで引き摺ってから、しっかりと内臓を洗ってみれば、大猪鹿はどうやら草食の獣です。うんちを流して下流の人に怒られないかとも思いましたが、水棲の生き物達が既に垂れ流しで今更なのでした。


 そんな頃にはもうお昼を回っていました。

 獣も魔物も近寄って来ないのは、私が『隠蔽』で覆っているからかも知れませんが、昏い森方面から聞こえてくる騒ぎ声も影響しているのでしょう。

 グギャグギャ言ったり、グオーと吠えたり、まだまだ昏い森は騒がしいですね。

 私もそちらに行くべきなのかも知れませんが、何だか気分が乗りません。

 昏い森の狩り場は街にも近く、今は人も多いことから、もしかしたら脳筋姫様の部下に見咎められるのではという思いと、もう毛虫には飽き飽きしているという思いとで、今更昏い森に行こうという気にはなれないのです。

 それに、今の昏い森では、無意識の『隠蔽』が掛かっている私へ向かって、流れ矢が飛んで来るかも知れませんから。


 魔物は自分達の界異点を離れると、力が削がれてしまうのですから、まだまだ豊穣の森側にも殆ど出て来ない毛虫達に対して、街の心配は不要なのです。

 いずれにしてもこことは違う昏い森での話ですので、今は丁度いい安全地帯になっている豊穣の森のこの場所で、お昼を食べてしまう事にいたしましょう。


 洗った内臓をそれぞれ少しずつ切り分けて、残りは血と同じく海魔の水衣でくるみます。街を出る前に買い足したと言っても、既に残りは何とか腕を包む程にしか有りません。ですが、桶を作るのも面倒になってきましたので、もうこれで通す事にするのです。

 大猪鹿の胴体からも、ちょこちょこ肉を切り落として、集めてあった木の実や果実と一緒に平たい石の上に置いたら、石も一緒に魔力で包んで「活力」で確り焼き上げます。いつもの癖で、立ち上る煙を纏めて上空に「流れ」で逃がしていましたが、焼き上げて『根源魔術』を解いた途端、辺りに漂うその芳香。

 薄く切って、口の中に放り込んだそのお肉の美味しさと来たら!

 思わず何か毒でも持っていたのではとも思ってしまいましたけれど、そんなことは有りません。このどきどきする胸の鼓動も、ぽかぽかと温まる体も、ほわほわと上気する思考も、状態異常では無く美味しさが齎したものなのです。

 痺れる美味しさというのが理解出来てしまいましたよ?


 残るお肉に塩を振って噛み締めて、焼いた木の実や果実もお腹の中へ。思わず追加のお肉も焼いてしまいました。

 ですが、そこからが一苦労でした。


 皮を剥ぐのは簡単に終わりました。黒岩豚と違って素直な毛皮は、丸で草原の獣のようです。魔の森に棲んでいるとは思えない只の毛皮は、技能の力でいつも安全な何処かに隠れてのんびり生きる生き物故と思えばいいのでしょうか。装備には使えそうにも有りませんが、一枚がこれだけ大きい毛皮なら、大猪鹿の希少性も相俟って、そこそこの値段が付きそうに思います。

 きっとお肉の美味しさも、安全にのんびりと、しかし食べる物だけは豊穣の森の最高級の草花という環境で、培われてきたものなのかも知れません。成る程、美味しい訳なのです。

 そんなお肉を切り分けて、心臓の近くからは確り拳大の魔石を回収して、しかしそれだけでは持ち帰る事も出来ない荷物を量産したに過ぎません。

 いかだを作って川に流すか、荷車を作って牽いていくか……。

 そこで私が選んだのは、荷車でした。


 川に流せば労力は小さくなるかも知れませんが、水棲の生き物に突かれて海魔の水衣が破れたり、綺麗に剥ぎ取った毛皮が傷むのは見逃せません。お肉にしても、この幻のお肉は水棲の生き物たちにとってもご馳走でしょう。何が起こるか分からないのに、危険を冒す理由も有りません。

 どちらにしても、何本か木をり倒す必要が有るのですが、生憎なことに斧は持って来ていません。せめて鉈でも有ればというところですが、森に来るのに何とも言えない失敗なのです。


 まぁ、無ければ無いで有る物で工夫するしか無いのですけれど。

 そうは言っても、剥ぎ取りナイフを鉈に改造する気にもなれなければ、背負い鞄の横に吊した鎚を斧に鍛えるのも迂遠です。毛虫殺しは木を伐り倒すのに協力はしてくれないでしょうし、瑠璃色狼を打ち込むのは論外です。

 いずれ私も抜き打ちで木の一本や二本伐り倒せる様に成るのかも知れませんが、今は刀が負ける未来しか見えません。


 ですから、今出来るのは『根源魔術』を使った力業しか無いのです。

 木々の根元から「活力」を抜いてやれば、弱くなったりしないでしょうか。あるいは「流れ」で水気を一箇所に集めたら、内側から破裂して倒れてくれたりしないでしょうか。

 試せる物は試して、一番効率的な方法を採る必要が有りました。

 ですが、森を駆け抜けたこの数日間は、私にもう一つの知識も与えてくれていたのです。まずはそれを試すのが一番ですね。


 森を走りながら、八本有る剥ぎ取りナイフを次々に振るえば、蜘蛛には蜘蛛の剥ぎ取りナイフが、森犬には森犬の剥ぎ取りナイフが、通りが良い事に気が付きました。

 どうやら同種の魔力である程に、獣達が身に纏う魔力強化をすり抜け易い様なのです。

 同族殺しの方が容易いなどと、どうにも殺伐としていますけれど、それが摂理と言うのなら、文句を言っても仕方が無いのです。


 そんな剥ぎ取りナイフですが、植物由来の物はまだ有りません。二代目採取ナイフは植物特化に育てようとはしていますけれど、刃が小さい上に植物の魔石を練り込んでいる訳では有りませんので、木を伐り倒すには使えません。

 ならば、得物の魔力を木々と合わせるのでは無くて、木々の魔力を抜いてやればいいのです。


 ここ豊穣の森の木々は、昏い森と較べると、種類も多ければ力強さも上でした。

 そんな木の内の、真っ直ぐ伸びた一本に目を付けました。太過ぎても伐り倒すのが手間な上に、板にするのも大変ですので、荷車が作れる程度のそこそこの木です。

 両手を当てて、魔力を流して、確りと木の魔力と馴染ませてから、ズルリと魔力を引き出します。私の魔力に引き摺られて、綺麗な緑色をした木の魔力が引き抜かれました。


 ……ん? 緑色の魔力、ですか?


 改めて見てみましたけれど、やっぱり魔力には色なんて有りません。緑色と感じたのは何故でしょうか?


 首を捻りながらも、引き出した木の魔力を私の魔力で覆って押し留めて、その間に宙に伸ばした魔力の腕で、辺りの歪を絡め取ります。

 この数日間でその性質を知ることになりましたが、歪というのは面白いもので、魔力に会っては押し流されて、“気”に当たっては消滅します。

 余程弱って魔力や“気”の防御も失われているか、或いは無防備に何の防御も纏わずに森の深部に入ったりという事が無い限り、そうそう歪の影響を受けるという事は無いのでしょう。

 魔石の様に魔力にも守られず、あるいは鉄に打ち込んだ訳でも無い歪は、蜘蛛の糸に喩えた様に、ただそれだけでは脅威にもならない弱い物なのです。

 まぁ、それこそ白くけぶる様な密度になれば、話は違うのかも知れませんけれど。


 そんな集めた歪で引き摺り出した木の魔力を纏めれば、先程見たと感じた色と同じ、綺麗な緑色の石に成りました。


 …………?


 ………………??


 ……………………おや?


 何か、おかしな事をしましたね?

 おかしな事を、してしまった様に思いますよ!?


 ……見なかった事にいたしましょう。

 ええ、ええ! それが一番ですね!


 こっそりと、緑色の魔石は背負い鞄の中に隠して、しかしこれで植物由来の魔石が手に入ったとほくそ笑んで、私はそっと鞄の口を閉じたのです。


 魔力を抜けば、魔力強化の反発が抜ける分、きっと刃が通り易くなる筈です。魔の森の木なのですから、魔力強化も馬鹿にしたものでは無いに違い有りません。

 ですがそもそも樹を伐る為の刃物の持ち合わせが無いので、少し考えていた通りに木の中の水分を「流れ」を使って膝の高さ辺りに集めました。木の皮が捲れ上がって、若干木の幹も膨らんだ様に思えます。

 そんな水の塊を回転させながら円盤状に伸ばしていくと、プツンプツンと何かが千切れる音を立てながら、水が薄く木の中を斬り裂いていきます。

 技能教本で見た『水刃』という技から発想を得たものですが、一発で何とかなりそうな結果を得られたのは、やはりお勉強は大事という事なのでしょう。

 回転する水の刃が木の表面を突き破る寸前に水を止めて、今度は「活力」の逆作用で凍らせれば、ミチミチと音を立てて氷に押し広げられた切り口が開きます。魔力で掴んで押し倒せば、「倒れるぞ~」とばかりに見事伐り倒す事が出来ました。


 木が倒れれば、同じ様に水を操って、薄く四枚輪切りにします。これは荷車の車輪になりますが、これだけでは細いので、後で木の皮を剥いだ物でぐるぐると巻く予定です。

 輪切りの中心には、剥ぎ取りナイフを楔にして、鎚を打ち付けて四角い穴を開けました。剥ぎ取りナイフにも魔力を通しておけば、この程度では刃も痛みません。

 皮を剥いだ木は、同じく水の円盤を縦に動かして、板状に切り分けていきます。サクサクとは言わずとも、それに近い軽快さで切り分けることが出来るのは、やはり魔力を抜いた効果が有るのでしょう。まあ、切るのに使っているのが水というところも、水を含んだ木を切るのに効いているのかも知れませんけれど。魔力を抜かない木で試したら、切れない事は有りませんが、粘りが纏わり付く様で、籠める魔力も切れる速さも、比べ物に成りませんでした。

 切り出した硬い心材は力の掛かる構造部に用います。柔らかい辺材が殆ど無い木でしたが、それらは荷台の敷板や、転がり落ちない為の枠板です。ざっくり頭の中の設計図通りに、程良い長さに切り出しました。

 街の外の農場では、ちょっとした荷車は、積みっぱなしの木材や端材を使ってその場で組み立ててしまいます。冒険者に成る前も、冒険者に成った後も、色々なお手伝いをしましたけれど、その全ては私の力になっているのです。


 二本の心材で作った車軸は、それぞれ端を四角く削り、同じく加工した車輪を鎚で叩いて嵌め込みます。木の皮をぐるぐる巻いて、径を太くすると同時に偏りを解消したら、蔓を使って木の皮を縛り付けていきます。荷車の車体は井の字に組んだ心材の枠組みの上に、辺材の箱を載せた様な簡単な物です。全て木組みで作っているので、こんな森の中でも作ることが出来るのでした。

 車輪に乗る部分の木枠は、只くの字に切り欠いているだけですので、車輪が何かに乗り上げたり、車体が跳ねただけでも車輪が外れそうな代物ですけれど、簡易な荷車ですのでこんな物でも充分なのです。

 最後の仕上げに木枠の切れ込みが載る部分の車軸を丸く仕上げたら、その上に車体を載せて完成です。

 ですが、試しにごろごろと押してみると、車輪がどうも引っ掛かる様な気がします。

 車軸をより滑らかに、木枠の凹みも丁寧に、と手を加えながら、最終的には車軸と木枠の水分を抜いて、それで漸く普通に動く様になりました。


 鍛冶仕事とは違いますが、これはこれでいいものです。――とは思いましたけれど、空を見上げれば茜色です。

 晩ご飯ですねといそいそとお肉を切り分けて、「活力」で焼き上げて、塩を振って堪能したら、冷やし直した大猪鹿の素材を荷車に積み込みました。空いた隙間に余った木板も踏み板用に積み込みます。

 ここからは長い帰り道なのです。


 丘を迂回する川の流れに沿って、荷車を押していくのですけれど、どちらかと言えば行く手を遮る岩を退かしたり、藪を掻き分けるのに時間を取られます。

 荷車を押すのは、思ったよりも楽でした。水を操る時の様に形を定める必要も無ければ、引き摺って運ぶのと較べても使う魔力は僅かです。何も考えずに魔力で押せばいいので、頭を使う事も有りません。

 ですが、岩を掘り起こせば荷車を通す為には穴埋めまでが必要です。藪は私独りなら掻き分けて進むことが容易でも、荷車を通すには寧ろ薙ぎ払わなければならないでしょう。更には川岸も堤が寄ったり崩れたりと、丸で安定していません。

 結局のところ、何度目かの悪戦苦闘の後で、崩れた堤から森の中に入り込み、川を少し外れた森の中を湖へと向かう事にしたのでした。



「はふぅ~……やっとなのです……」


 遠目に湖近くで野営する冒険者達のあかりを見付けて、ほっと溜め息が口を吐くのも、仕方の無い事でしょう。

 此処まで来るのに、三度車輪の皮が外れて、荷台には十四匹の森犬が追加です。夜目も利けば、魔力での探査に、最近では“気”を感じる事も出来るので、道行きに不安を感じる事は有りませんでしたけれど、魔力を地面に押し付けて辺りに幾つも散らばる光石を光らせるという新技も披露してのやっとの帰還なのです。

 こういう時こそ、ランク零で手に入るという祝福技能、『亜空間倉庫』が欲しくなります。いえ、眉唾と思っていましたけれど、神々にとってはランク零からが一人前というのも、こうなると本当なのかも知れません。こんな大荷物を普段から扱うなら馬車でも無ければやっていられませんが、魔の領域に馬車で乗り込むなんて無謀もいいところです。道も無ければ魔の領域を行ける馬もいません。

 そんな場所を手ぶらに近いなりで闊歩しては、斃した獲物を大量に持ち帰る。『亜空間倉庫』が無ければ、出来るものではないですね。

 私の目標に、ランク零以上の特級冒険者に成るという、具体的なランクの高さが追加された瞬間なのでした。私は冒険をしたいのに、このままでは荷運びに時間を押し切られてしまいそうですから。


 ごろごろごろと荷車を押して、いつもの湖の畔に辿り着いた時は、もう夜中です。

 そんな夜中にごろごろ分け入っても、誰も様子を窺いに見えないのは、これも『隠蔽』の為せるわざです。ごろごろと振動は感じていても、音は「流れ」と「活力」の逆作用に遮られて、辺りには欠片も響いてはいません。

 だからこそ、見張りに起きていた何時もの細身の小父さんと、盛り上げ髪のスカさんとの会話も、良く耳に届いたのでした。


「ガズンの奴ら、帰って来ねえな……」

「へぇ。一度は湖まで帰って来たんでやすが」

「それにしても十日近く前だろう? ――ったく、前に立つ者の責務だ何だと、気張り過ぎだ。ドルムを少しは見倣えってんだ」

「太平楽とはああいうんでやんしょね」


 そんな話を続ける所に、荷車を押して入り込んだのです。


「ガズンさんは戻って来たのですか?」


 その言葉に、気が付いていなかった二人は「うぉっ」と仰け反りましたが、それが私と知って居住まいを正しました。


「嬢ちゃんか、吃驚させるな。まぁ、今もガズンらが戻って来ねぇなって話してたところだな」

「いやね、一旦湖までは戻って来たんでやんすがね、小鬼ゴブリンの大発生を知って昏い森の奥の方へ行っちまったんでやんす」

「それからももう十日近いと言うからなぁ。無事だといいが……」


 それを聞く迄は、大猪鹿という大きな獲物も有る事ですし、そろそろ街へ戻ってもいいかも知れないとは考えていたのです。

 ですが、その選択肢は消えました。

 いえ、ガズンさん達が行くところに行って、何の役に立てるとも思えませんので、これは単にまだ街に戻りたくない私の気持ちの表れかも知れませんけれど。


「ガズンさん達は何処を行ったのでしょうか?」


 そう問いつつ地図を広げると、


「ああ……昏い森の奥なら、こっちだな」


 答えながらなぞる様に指し示した経路は、暫くは昏い森との境の豊穣の森側を行き、途中で切れ込む様に昏い森へと入っていくのでした。


「昏い森側はグギャグギャグオグオ言っているので心配です」

「全くだ。黒大鬼も安定して狩れる様になったらしいが、無茶もいいところだぜ」


 そう言えば、最近毛虫殺しを振るっていません。そろそろ毛虫殺しもケム血に飢えている様な気がします。

 それに、他の人は違っても、『隠蔽』の有る私にとっては、昏い森の方が難度が低いと言えるでしょう。豊穣の森では『隠蔽』を見破られてばかりですのに、昏い森で『隠蔽』を看破された事は有りません。きっと、斃す事は出来なくても、避けて通る事の妨げとなる物は無いのです。

 ええ、ええ、それならば、きっと様子を見に行くのです。――と、その時私は決めたのでした。


 そうとなれば、荷物を何とかしないといけません。

 都合良くスカさんが居てくれたので、スカラタ運送に頼んでしまうのが良さそうですけれど、今回ばかりは物が物です。

 どうするのがいいのでしょうと思いつつ、スカさんの方を見てみれば、そこにはあんぐりと口を開けて荷車を見るスカさんの姿が有りました。


「おお! 何時の間に!?」


 細身の小父さんも驚いています。まぁ、音も無く荷車が現れたなら、吃驚もするのでしょう。


「ひょえぇ~~! サルカムの木で荷車でやんすか!? あっしらの荷車よりも上等でやんす!」

「てか、嬢ちゃん。独りでこれを造ったのか? 森の中で?」

「頑張りました!」

「あっしの『識別』でランク八でやんす。車輪や仕上げに手を加えれば、ランク七は行きやすよ! 充分上等な売り物になるでやんす!」


 自分で識別が出来ないだけに、今一つランクの有り難みが分かりませんけれど、多くの品物を見てきた筈の運送屋さんが興奮するくらいの出来で有る事は理解しました。

 製作者冥利に尽きるというものですけれど、それだけの品だと認めてくれたのなら、それを利用するのも吝かでは無いのです。


「……ちょっとしたお願いを聞いてくれたなら、譲ってもいいですよ?」


 ですが、そんな言葉は目の前の二人を警戒させてしまった様です。

 訝しげに見る二人に、慌てて手を振りながら、事情を説明しました。


「いえいえ、変な事をお願いするのではなくてですね、森の奥で大物を仕留めてきてしまったのですけれど、幾らになるか想像も付かないので、スカラタ運送さんで高く売って貰えたら、と。分け前は七三でいいですよね?」


 まだ湖に着いたのが夕方だったなら、ドルムさんと同じ様に焼肉パーティをしようかなんて思っていましたのに、皆寝静まった今となっては分けるのも惜しくなってる守銭奴振りに、自分でも妙な言葉遣いになってしまいました。

 ですけど、丸で予想も付かない大猪鹿の幻具合は、宝晶石にも引けを取らない様な、いや大した事は無い様な……。

 宝晶石と言えば、森の木々から作った魔石の存在が、非常に悩ましいものでは有りますけれど。

 いえいえ今は大猪鹿です。少なくともお肉の美味しさは折り紙付きなので、安く買い叩かれる事は無いと思えるのですけど、だからこそどれだけになるか全く読めないのです。


 ですが、そんな私の言葉に、二人は警戒を解いて、軽い調子で言葉を紡ぎました。


「何でえ、驚かすなよ」


 細身の小父さんは、新人には良く有る事と言いたげな生温かい視線を投げて来ましたけれど、それもきっと獲物の正体を知る迄の事です。


「換金の代行は通常業務で承ってやすよ?」


 言質を取ったと言いたいところですけれど、きっと大猪鹿なんて獲物は想定していないに違い無いのです。

 そう予想した通り――


「大猪鹿ですよ?」


 そう告げてから暫く経って、二人は何とも言えない叫び声を上げたのでした。

 ええ、ええ、ちゃんと周りは『隠蔽』で囲っていましたとも!



 この日ばかりは徹夜で朝まで見張りをすることに決めました。

 可哀想に話を聞いてしまった小父さんとスカさんも、とても眠れそうに無い様子でしたけれど、信じられないくらい美味しいお肉を一切れずつ焼いて出したら、寧ろ呆然と至高の美味を噛み締めていました。

 空が白み始めたら、荷車の荷物の説明です。


「見れば見る程……どうやって森の中で硬いサルカムの木を板に出来たんだ?」

「魔法です」

「海魔の水衣は知ってやすけど、縛り口も無いでやんす?」

「それも魔法です」


 まぁ実際には『根源魔術』なんですけどね。大体『四象魔術』も『根源魔術』も引っ括めて、魔法と言い慣わす事が多いのです。


 最後には呆れた様に溜め息を吐かれてしまいましたけれど、海魔の水衣分も合わせて、競売では色を付けて交渉する事を、約束して貰えたのです。


 ええ、競売です。流石にスカさんでも判断は付かなくて、冒険者協会でも無理だろうという結論に至りました。幻なのですから当然ですね?

 魔石は自分で使ってしまう事を告げると残念そうにしていましたけれど、こればかりは譲れません。

 荷車に積んだ荷物を冷やし直して、湖の水の氷も多めに積み込めば、お見送りです。

 スカラタ運送の荷車と、私の荷車にそれぞれスカさんの仲間が別れて、更に細身の小父さんの一行が護衛と力仕事に就く事に成りました。どうにも小父さん、心配でならなかった様です。

 斃した私の方が、駄目になったならその時はその時と割り切っているのに対して、面白いものですね。

 少なくとも意地悪をする冒険者とは違う感じで、私も少し安心なのです。


「嬢ちゃんは本当に帰らねえのか?」

「ええ、私はまだやる事が有るので」


 なんて事を言って見送りましたけれど、その実、まだ街に戻りたくないだけなのです。

 まだ私の冒険は、始まったばかりなのです。

 地図に示された昏い森へ続く道。きっとそこを乗り越えた時に、私は冒険の本当の姿を知る事になるのでしょう。


 そうです。冒険です。冒険には目的が必要なのです。

 目的へ向かって探索するからこそ、冒険なのです。そうで無ければ放浪ですよ?

 今日までの湖の周りでの数日は、目的は有っても一箇所に留まっていて、どちらかというと鍛錬でした。まだまだ冒険には程遠かったのです。

 ですが、今、私には冒険の機会が訪れました。

 これから私が踏み出す一歩は、目的へ向かう一歩です。

 何が有るかは分かりませんけれど、進まなければいけない第一歩なのです。


 私は顔を上げました。湖が今日もきらきらと輝いています。

 まずは、目の前にもくっきりと分かれる、深緑と黄緑の境界上を南へ行くのです。


 そして私は左の頬に朝日が昇るのを感じながら、冒険の第一歩を踏み出したのでした。

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