22.優しい知らんぷり

 その静謐な時の中で、慧は時計の音を初めて意識した。

 醒夏祭の本戦は朝の八時にトーナメント表が公開され、九時半から試合開始となる。そして今はそろそろ九時になろうかという頃。

「そうだ醒夏祭! 醒夏祭はどうなった!?」

 慧は思わず大きい声を上げる。突然の大声に宵月は身体を跳ねさせた。

「ビックリした……。ちゃんと行われますよ。侵入者の男も確保しましたし、明朝の時点でスタジアム等の安全確認も終えたので厳戒態勢を敷いての続行、らしいです」

「そうか、良かった……」

 醒夏祭は変わらず執り行われる、その事実に慧はホッと息を吐く。宵月の目標の舞台を奪われることは無かった。それが何よりも嬉しかった。

 だが、それとは反対に宵月の顔は険しい。胸の内に秘めた疑念を、まさかと思いつつ口にする。

「慧、貴方もしかして醒夏祭に出るつもりですか?」

「当然だ」

「当然なわけ無いでしょう!? 何馬鹿な事を言ってるんですか!」

「大丈夫だよ、ほら。身体だって動くし――ってて」

 ベッドから降りようとして、全身に奔る痛みに慧は顔を顰めさせる。

「ベッドから降りるのにも難儀するのは身体が動くとは言いません。怪我人は大人しく寝ててください。要安静、です」

 叱るようでありながらも心配の色を含んだ宵月の声音。慧もそれには気づきながらも、受け入れる訳にはいかない。宵月の方を向き、懇願するように声を出す。

「宵月、お願いだ。俺は宵月の足を引っ張りたくない。俺のせいで宵月が足を止めるなんて、俺は絶対に俺を許せない」

「……」

「宵月……。俺を信じてくれ。俺は宵月の足手まといにはならない」

「今その言葉を選ぶの、本当に意地が悪いですからね。…………はぁ、醒夏祭が終わったら無茶した分も絶対に安静にしてもらいますからね」

 宵月は苦虫を嚙み潰した様子で頷いた。慧を信じると言葉にしてしまった以上、さっきの言い方には頷かざるを得ないが、当然納得はいっていない。

 保健室のスライドドアがゆっくりと引き開けられる。

「ケイ、おみまいにきた」

「お、目覚めたみたいで何より……だけど、えっと、大丈夫……か?」

 ニアと正也が並んで保健室へと入ってくる。正也は起き上がっている慧を見て安堵したのも束の間、宵月の放つ不機嫌オーラに気圧されてしまった。

「シュラバ?」

 ニアは状況を分かっているのかいないのか、平然と口を挟む。

「修羅場ではないな。というか、二人にも心配掛けた。ごめん」

 慧は頭を深く下げる。

「ん」

「ホントだよ。帰ってこないと思ったら、すごい事に巻き込まれてて……。身体は? どっか動かないとか無いのか?」

「大丈夫。全身めちゃくちゃ痛いけど問題無く動くぞ」

 腕を振ったり、手をグーパーさせて健康をアピールする慧。その動作は緩慢で、身体を気遣っているのが丸分かりだったが、ひとまず嘘ではない事が分かり正也は笑みを浮かべる。

「ところで正也、もう本戦のトーナメント表って出てるよな? 宵月と俺の相手が誰か、分かるか?」

 醒夏祭の開催まで時間が少ない。順番によってはそろそろ準備をしておかないと、自分たちも正也たちも間に合わないかもしれない。そう思って、慧は少し会話を急いてしまうが、正也はどこか話しづらそうにしている。

「分かる、けど……」

「けど?」

「これ」

 ニアはスマホを取り出し、慧に差し出す。そこに表示されていたのは本戦トーナメント表の写真だ。それを見て、正也が言い淀んだ理由を察する。

「なるほど、初戦の相手は正也たちか」

 横から覗き込んでいた宵月も今初めて知ったようで、目を丸くしている。

「そうか……、そうですよね。てっきり決勝で戦うつもりでしたが、トーナメント分けはランダムですし、こうなるのもあり得ますよね」

「ヨツキは昨日の夜からずっとここに居て知らないから、おしえようと思って」

「よし、じゃあどっちが勝っても恨みっこ無しだからな」

「ん。わかってる」

「ん……? ちょっと待って、慧、戦うつもりなのか?」

 慧の言葉にノータイムで頷くニアと、驚嘆を返す正也。

「やっぱりそう思いますよね……」

 宵月はうんうん、と共感を示す。

「正也、俺は本気だ。本気でお前らに勝ちに行く」

 戸惑う正也の眼を真っ直ぐに捉えて、慧は闘志を滾らせる。その眼を見て、正也は慧の熱を理解した。他者のために自分を投げ打つ、異常とも言えるその熱量。

 それを感じ取った正也は表情から動揺を消して、慧に問う。

「……良いんだな?」

「ああ。手を抜いたりしたら許さないぞ」

「……分かった。ニア、行こう」

「ん」

 正也はニアを連れて颯爽と保健室を後にする。

 ピシャリ。ドアが閉められて再び保健室は二人きりになる。

「正也……、随分あっさりと認めてくれましたね」

 渋々折れざるを得なかった自分とは違い、正也はもっと強く止めると思っていた宵月は、意外そうに呟いた。

「正也は優しいからな」

「適当言ってませんか?」

 宵月は訝しむが、深く気にはしてない様子だ。

 正也は――今でこそ優先順位の絶対一位にニアが在るが――行動理念の根っこには常に他者の存在がある人間だ。誰かを助けるため、誰かを護るためにこそ、自分の力を発揮できるタイプ。

 本人はそれに自覚的では無いし、恋愛感情においてはとことん疎いため慧の動機の真意にも気づいていないが、それでも慧の瞳に宿る熱を見てこれは止めても無駄だと、止めるべきではないと、本能的に理解をした。

 そしてそれは、自分のためだけでも前を向く事の出来る宵月には分からない感覚だった。

「さて、じゃあ俺らも会場向かうか」

 寝かせる時に脱がされたであろう、ベッドの足元に置かれたボロボロの運動靴に足を入れる。そして慧は自分の脚で立ち上がる。立つこともままならない、という事は無さそうで内心少しホッとする。

「ですね。あそこまで言ったんです、全力で勝ちに行きましょう」

「ああ」

 先導するように歩く宵月。その歩き方に慧は違和感を覚える。

「宵月、もしかして右足怪我してるな?」

「……良く気づきましたね。ちょっと怖いですよ」

 不審者を見る目。

「自分でも気付かなかったんですけど、どうやら少し切ってたみたいで。想造者の身体強化があるとはいえ、やっぱり外は素足で歩くものじゃないですね」

「大丈夫なのか」

「何処かの誰かさんよりはずっと軽傷ですよ。ちょっと消毒して絆創膏一枚貼って処置が終わるくらいには普通の切り傷です」

「……」

「まさか、この程度の傷を気にしてやっぱり止めたとか言いませんよね?」

「それは……もちろん」

 疑る目線が慧を刺す。慧は露骨に目を逸らした。

「ほ、ほら。早く行かないと間に合わないかもしれない。急ごう」

「はいはい。途中で痛みで倒れるかもしれませんしね。そうしましょう」

 宵月がドアを開け放つ。夏らしい熱の籠った空気が、空調の聞いた保健室の空気と混ざり合う。

「……慧」

「うん?」

「醒夏祭、優勝しましょうね」

「当然だ」

 足を揃えて、二人は一歩を踏み出す。

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