21.私と貴方は
重い瞼がゆっくりと開き視界に映ったのは、真っ白な天井だった。ここはどこだろうか。慧はまだハッキリとしない思考を回し、胸の辺りが重いな、と気づく。何かが乗っているような感覚。
のそりと首を倒して自分の胸の辺りを確認する。
結論から言えば、それは宵月だった。慧のベッドの横のパイプ椅子に座る宵月が、慧の身体に一部重なるようにして眠ってしまっているようだ。
閉じられた瞼から伸びる長いまつ毛。形の良い艶やかな唇。起きている時には見られない、あどけない少女のような安らかな表情。すぅすぅと規則正しい寝息と共に肩や背中が小さく上下を繰り返している。
慧の寝ぼけた頭はそんな無防備に眠る宵月に可愛いな、奇麗だな、こんな顔で眠るのか、と感想を抱き、たっぷり十秒見つめた後に一気に覚醒した。
「!?!?」
慌てて上体を起こそうとする。が、身体はそれに猛烈な悲鳴をあげて抗議する。
「――いっ!?」
結果、電気を流されたみたいにビクンと一度跳ねるような挙動をして再びベッドに倒れ込んだ。激しくベッドの軋む音と、枕代わりにしていた慧の身体が動いた事で宵月がもぞもぞと目を覚ます。
「んん……あれ、私、眠っちゃってた……?」
いつもよりも少し低い、寝起き特有のハスキーな宵月の声に、慧の心臓はドキッと高鳴る。
「あぁ、慧。おはようございます……」
まだ覚醒しきってないのだろう、眠気の残った表情で宵月はくしゃりと笑う。
「あ、ああ、おはよう……」
なんだか見てはいけない物を見ているような罪悪感と、今を逃せばこんな姿は二度と見れないんじゃないかという希少性が慧の中で競り合う。
果たしてどうするのが人として正しいのか。慧が一人でそんな事を考えていると、宵月がハッと目を見開く。
「慧! 大丈夫ですか? 生きてますよね!?」
さっきまでの緩んだ表情から一転して、いつも通りの凛とした顔つきが戻ってきた。ここまで取り乱す姿は珍しいと言えば珍しいが、寝起きの姿に比べれば新鮮味は薄れてしまう。
「生きてるよ、ほら――いってて」
「無理しないでください! 身体中ボロボロなんですから。保険医の先生も仰っていました。後遺症は残らないけど、要安静だって」
宵月の言う通り身体中が痛むが、全く動かせない訳ではない。力を入れてゆっくりと上体を起こし、宵月を安心させようと笑って見せる。
何か言いたげな顔をしつつも強く咎める事は無く、呆れと安堵が半々と言った様子で宵月も笑う。
「昨日の事、どこまで覚えていますか?」
「宵月にフラれた」
「そこは忘れ……ないで良いですけど、そうじゃなくて」
少し顔を赤らめながら、ジトっとした目を向ける宵月。
「どうしてあんな無茶をしたんですか? 先に目を覚ました侵入者の男から話は色々と聞きました。テロ行為に、それを陽動としたニアの誘拐。どっちも確かに許しがたい行為で、阻止しなきゃいけないのも分かります」
「なんだ、じゃあもう――」
自分から話すことは無い。そう言おうとした先に声を被せられる。
「だけど、貴方らしくない。一人で向かわずとも、侵入者を見つけた時点で私たちを頼ってくれても良かったじゃないですか」
宵月の目は真剣だった。でも、それは決して責めている訳ではない。どうして頼ってくれなかったんだ、という悲しみ混じりの疑問の視線。
慧はその捨てられた子犬のような目を見てなお、適当な嘘を吐けるほど強い人間ではない。それに、宵月がしているいくつかの誤解をそのままにしておきたくは無かった。慧は洗いざらい話す覚悟を決める。
「あー、もう……。先に言っとくけど、色々買い被り過ぎだ」
「? どういうことですか?」
「まず一つ目、最初は普通に正也とかニアとかにちゃんと頼るつもりだった」
「私は!?」
「流石にフラれたばっかで頼めないだろ……。頼むにしてもニア経由だ」
「それは……確かに……」
昨晩、正也からの電話を取りながら慧じゃなくて良かった、と思った事を思い出し、宵月は何も言えなくなる。
「でも実際、ニアにも正也にも頼ってくれなかったじゃないですか」
「陰から偵察してた時、アイツがこっちに気づいて逃げたから咄嗟に追いかけたんだよ」
あの時はフラれた直後で頭が回っていなかったため気付けなかったが、男によって追いかけるように誘導をされていたた。
恐らくは人目の付かない建物内部におびき寄せて慧を殺した後で、作戦を続行するつもりだったのだろう。そのために、自分は追手に気づいたので急いで逃げた、というポーズを大袈裟に取り、追いかける側である慧の気を焦らせたのだ。
「あと二つ目。アイツの目的を知ったのはもっと後だ。だから俺は偶然にアイツを見つけて、それを気取られて逆に利用されて、戦闘になっただけだ」
仮に一人で解決出来ていたとしてもその衝動的な行動は手放しで褒められた物ではないのに、その結果死にかけて宵月に助けてもらっているのでは話にならない。慧は内心で自分に呆れる。
「で、ですが、テロ行為に気づいて事前に食い止めることが出来たのは、慧のおかげです」
言葉を詰まらせながら宵月が必死のフォローを加える。そこまで気を遣わせている時点で慧からすればかなり心苦しい。
宵月の言う通り、慧にギリギリ誉められる所があるとすれば侵入者を発見したことだが、慧はこれにも疑念を挟む。
「そういえば、宵月はどうしてあの場所が分かったんだ?」
「それはニアのおかげです。あの男と慧の魔力の気配がしたそうで」
あぁ、と慧は頷く。ごく一部の想造者だけが行えるという、魔力の気配の感知。ニアがそれを出来る事は慧も知っているところだ。
「侵入者の男の、想造者としての能力が何かって分かるか?」
「発火や爆発など、そういうのが得意みたいです。会場の破壊もそれで行うつもりだったんでしょう」
「なるほど、じゃあ三つ目。それならアイツ自体、俺が見つけてなくてもきっとニアが気づいた。爆発の小細工のためには絶対に魔力を使うはずだしな」
しかも爆破するのはあの時すぐにではなく、醒夏祭本戦の行われる翌朝だ。対処するには十分な時間がある。ニアの特異性は学園側こそ理解しているため、その言葉を根拠にアクションを起こすのを厭う事も無いだろう。
「……そうですね、そうかもしれません」
宵月が落ち着いた声でそう返す。さっきまで見えていた心配も疑問も、鳴りを潜めたように見える。
これで誤解は全て解けただろうか。三度の自己否定の末、慧は息を吸う。
「だから……俺のした事は全部無駄だった、って事だ。そもそも宵月が言うみたいに、アイツの行動が許せないからとか、企みを阻止するためにとかそんな理由なんかも持ち合わせてなかった」
一つ一つを言葉にしながら、本当にどうしようもないと再認識する。そしてそんな淀んだ気持ちが喉の奥から次から次へと湧いてくる。
慧の手がベッドシーツを固く握りしめる。
「笑っちゃうよな、宵月に近づきたいとか言ってもこのザマだ。分かってるんだ、俺は正也みたいにはなれない。俺はニアみたいにはなれない。俺は、宵月みたいには……なれない。全部分かってるのに……思っちゃったんだよ、俺も宵月達みたいになりたい、って」
「…………」
詰まりを吐き出すように言葉を並べていく慧の姿を、宵月は何も言わずに見つめる。一つも言葉を挟む事無く、けれど一時も目を逸らすことは無く、宵月はただ静観する。
「でも駄目だった、結局何も為せてない。したことと言えば、勝手に首突っ込んで、一人で殺されそうになって、それくらいだ。あとは自分の不始末を他人に拭ってもらって、今もこうやって醜態を晒して、こんな事ならいっそ俺なんか――」
宵月は座っていた椅子から身を乗り出して、慧をそっと抱きしめる。慧の身体を包み込む、暖かな感覚。意識を失う直前に感じたものと良く似たその感覚に、慧は思わず声が止まる。
「それ以上は駄目です。たとえガス抜きでも、言っちゃいけない言葉ですよ」
宵月は後ろに回した手で、慧の背中を優しく擦る。
「あと、貴方はやっぱり自分を卑下し過ぎです。私の事はすぐ分かるくせに、どうして自分の事となるとてんでダメになっちゃうんですか」
「なに、を……」
宵月の両腕に僅かに力が籠る。微笑みかける様な柔和な声で宵月は話し始める。
「慧が何も為してない? じゃあ、恋煩いで悩む私の眼を覚ましてくれたのは? 選んだ服を正也に褒めてもらえなくて内心しょぼくれてた私に似合ってるって言ってくれたのは?」
「…………」
「私は慧に助けられたんです、慧のおかげで今ここに居るんです」
慧は何も言えず、宵月の腕の中でただ聞き入るだけ。
「あと、慧じゃ私や正也みたいにはなれない、でしたっけ。どうして今更そんな事を気にしてるんですか。私に『自分だけの物を見つければ良い』って言ってくれたのは、誰ですか」
「……正也」
「ホントに素直じゃないですね……」
慧はせめてものの抵抗をしてみた。宵月が重ねていく言葉の中で、唯一否定出来そうなのがこれだけだったから。
その抵抗も宵月が呆れる様に、けれど楽しそうに笑うだけで大した意味を持たない。
「貴方はもっと自分に自信を――ああ、分かりました」
「……?」
腑に落ちた、という様子で宵月が呟く。慧を包んでいた腕を離して、パイプ椅子に座り直す。そして良いことを思いついたと言わんばかりに宵月は笑った。
「貴方が自分を信じられないなら、その分も私が慧の事を信じてあげます」
「そんなこと、宵月に何の得があるんだよ」
「得とかそういうのじゃありません、って言えればカッコいいんですけどね。慧に居なくなられたら私、一人でまた立ち上がれるか不安なんです。今の自分は誰かに背中を押されなくても歩けるのか、怖いんです」
宵月はもう、独りじゃないという強さを知ってしまった。独りが悪い訳ではない。だが自分以外の温もりを知ってしまった以上、独りきりの温度がどうしようも無く心寒く感じてしまう。そしてその寒さの中をまた一人で歩くことが出来るのか、宵月は自分に自信が持てない。
「もっと正直に言うならこんな打算的で自己中心的な事を言って、慧に見放されないかも怖いです」
「そんなので見放してるなら、とっくの前にもう見放してる」
「それなら良かったです。安心しました」
今まで何度もその弱さを目の当たりにしている慧にとって、今更この程度では宵月への印象は変わらない。むしろ、そのどこまでも素直な姿にこそ、慧は憧れたのだ。
「慧。私は慧の理想ほど強い人間ではありません。今までは自分しか見ていなかった、だから自分を信じることが出来ていただけなんです。私以外の声が聞こえる様になった途端、私は私を信じて良いのか分からなくなってしまいました」
恋と友情に力を貰いながらも振り回されて、危うく手を離してしまいそうになった。
他者との繋がりの中で、自分を見失ってしまいそうになった。
「それでも宵月は立ち上がった。今、自分の脚で立って前を向いてる、そうだろ?」
「そうですね。でもそれは、私以上に私を信じてくれる人が――慧、貴方が居たからです。誰かが自分の事を信じてくれている、案外それだけで人は頑張れるものなんですよ」
そう言い切って、慧に口を挟まれる前に言葉を続ける。
「だからこれは私のためです。私がこれからも前に進めるように、前に進む私の背中を押し続けてもらうために、慧にも歩みを止めさせるわけにはいかないんです」
「ひっどい理由だな……。自分の背中を押させるために他人の背中を押す。チグハグでめちゃくちゃだ」
「そうです。チグハグでめちゃくちゃで、最悪で酷い話です。こんな話、どんな私でも憧れていてくれて、す、好きでいてくれる慧にしか話せません」
「照れるなら言うな」
宵月は自分で言って、頬を赤らめる。啖呵を切るためとは言え恥ずかしかったのだろう。
「……俺なんかが、本当に宵月の力になれんのかな」
慧はボソッと不安をベッドの上に呟き落とす。
「今まで散々力を貰ったって言ったじゃないですか」
「今まで出来たからって、これからもそうとは限らないだろ。前へ前へ進んでいく宵月に、俺がいつまでも付いていける訳がない。絶対にどこかで引き離されて、背中を押せなくなる。嫌なんだよ……もう自分に失望するのはうんざりなんだ……」
「――私は信じてますよ。慧なら私に絶対に付いて来れるって。私の事を、誰よりも応援し続けてくれる、って」
宵月は臆せず、言う。真っ直ぐな目で慧を見つめて、素直な言葉で慧を信じる。
そんな宵月の言葉を聞いた慧は思う。
「……凄い事を言うな」
慧ならば宵月を信じ続けられる、と宵月が信じるのは最早一種の脅しに近い。そんな事をハッキリと口にした宵月は、何というか、流石だ。
「誰のせいだと思ってるんですか……。慧がそんな必要の無い事で悩んでるから、私がこんな最悪なことを言う羽目になってるんですよ」
「でもそうだなー、宵月に信じられてるなら、俺は宵月の事をどこまでも信じて追いかけ続けないとなー」
「次言ったら本当に怒りますからね」
「はい、ごめんなさい」
怒りますからね、と言って拳を握られたので慧は平謝りをする。
「まったく……。そもそもそんな事、一回も疑った事なんて無かったのに……」
本当に不満そうに溜息を吐きながら、ブツブツと愚痴を垂れる宵月。慧に聞かせるつもりは無いのだろうが、保健室の静かな空気はそのぼやきも逃さず慧の耳に運んでくれる。
慧も別に宵月を困らせたくてあんなことを言った訳ではない。本当に、怖いのだ。自分が宵月の力になれない事が、それでまた自分に失望するのが、怖い。
でも宵月はそれをそんな事、と一蹴した。それだけ自分の事を最初から信じてくれていた。まだ自分を信じる事は出来ないけれど、自分を信じてくれる宵月の事なら信じてみても良いかもしれない。慧は静寂の中で少しだけ前を向く決意をした。
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