18.同じ月の下で。
中庭から女子寮へと向かい、その途中で建物の角を一つ曲がる。ここならば、慧が振り返ったとしても姿を見られることは無い。
宵月は長く息を吐いて、自分の頬を両手で押さえる。まるで風邪でも引いたかのように熱い頬。破裂しそうなくらいにドクドクと煩い心臓の鼓動。数秒前まで良く平静を保っていられたものだと宵月は自分に驚く。
告白されるまで、慧に好かれているなんて露ほども考えた事が無かった。でもこれまでを答え合わせの要領でなぞっていけば、納得出来る事はいくつかあった。
というのも宵月自身、どうして慧はこんなにも自分の事を応援してくれるのだろうかと少しだけ疑問に思っていた。
だがそれらの裏に、『慧は宵月に憧れていて、宵月の事が好きである』という前提条件を置けばその全てが一気に氷解する。
少なくとも、恋という感情の頼もしさと危うさを身を以て知っている宵月にとってはその答えで十分だった。
「そっか……。そっかぁ……」
うわ言のように呟く。熱を持った思考は纏まり切らず、同じ所を行ったり来たりを繰り返す。だけれど、その往復の中で宵月の中にハッキリと浮かび上がってくる想いがあった。
あぁ、私は何て幸せ者なのだろう。
好きな人がいて、大切な恋のライバルがいて、唯一無二の親友に憧れてもらって、好きだと言ってもらえる。こんなにかけがえの無い人達に巡り合えて、目指すべき明確な場所がある。追い付きたい背中がある。こんな恵まれた今のひと時を形容するのに、幸福以上に相応しい言葉を宵月は知らない。
頬から手を離して、パチパチと叩いて気合いを入れる。しっかりとした意志で前を向き、覚悟を決める。
「立ち止まる訳にいかない」
大事な人たちが応援してくれた、一番の想造者になるという夢を。
私を好きな人が背中を押してくれた、この胸で初めて抱いた恋心を。
もし今は掴めずとも、もし今は叶わずとも、そう簡単に諦める訳にはいかない。
東童宵月が東童宵月であるために。
宵月は再び足を動かす。月夜の薄明りを肩で切り、一歩一歩と歩き始める。
*
中庭から男子寮へと向かい、その途中で建物の角を一つ曲がる。ここならば、宵月が振り返ったとしても見られることは無い。
慧は足を止めて、雲の切れ間から覗く星を見上げる。やけに滲んだ光が視界をチラつく。どうしてだろうと考えて、頬に伝う雫の冷たさで自分が泣いているのだと気付く。
「……ははっ」
フラれる事は初めから分かっていた。だから心構えは出来ているつもりだったが、それでもやはり辛いものは辛い。本気で好きだったからこそ、今でもまだ変わらず好きだからこそ、身体は言う事を効かずに涙を勝手に溢れさせる。
もし、もっと早く告白していたら。
もし、もっと積極的になれていたら。
もし。もし。もし。
いくら考えても意味のない、そんな『もし』ばかりが脳裏に浮かぶ。
傷つき折れる事を恐れて、ちゃんと負ける前に逃げる事を憶えてしまったみっともない自分は、そんな空想をする事すら烏滸がましいというのに。
だが、これで宵月の前で泣きだしていたら、みっともないとかそんな次元では収まらない。そうならないよう、あの場だけでも堪えられた自分は誉めても良いかもしれない。そうやって慧は何とか自分に前を向かせる。
確かにフラれはしたが、明日から始まる醒夏祭本戦での宵月の優勝のためにも、ここで慧が腐っている訳にはいかない。
むしろ、宵月にとって大事なのはこれからだ。慧は涙の跡を手で雑に拭い、深呼吸を一つする。これまでの自分と決別するように慧は深く深く息を吐き出し、七月下旬の涼し気な空気を肺や体内に取り込む。文字通り、新しい風が慧の中を抜けていく。
その時だった。慧は奇妙な感覚を肌で感じた。
「……?」
それが何かも分からなければ、どうしてかも分からない。例えるならば空気がネバついているような、何とも言えない不快感。
今まで感じた事の無い初めての感覚に戸惑いつつも、慧はその感覚を頼りに不快感の元へと向かう。胸が嫌にざわついて、自然と早足になる。
夜中に人が出歩く事を想定されていない校舎の周りは灯りが少ない。ポツポツと間を空けて並ぶ外灯と月明かりだけが照らす薄暗い道を進んでいくと、見覚えのある施設へと辿り着く。
衛醒学園第一訓練場。昨日、慧たちが醒夏祭の予選決勝を行った場所であり、明日からの醒夏祭本戦が行われる会場だ。
本来ならば感傷の一つにでも浸るシチュエーションなのだろうが、慧はそれどころでは無かった。
この時間では当然、訓練場の入口は厳重に施錠されている。その入口の前に人影を見つけたからだ。慧は咄嗟に近くの物陰に身を潜めた。入口前の人物が慧に気づいた素振りは無い。
物陰から顔だけを覗かせて様子を観察する。
保安想士は現代における警察の役割も担っているため、求められる能力は戦闘技能だけではない。相手の身体情報を素早く把握する観察力も必要な能力の一つであり、衛醒学園のカリキュラムにも観察力や洞察力を養うものが組み込まれている。
身長は大体180センチ前後でやや細身。薄暗い上にまだ距離があるため顔などはハッキリ見えないが、体格や背格好から恐らく成人男性だろうと慧は推察する。学園の教職員を脳内で照らし合わせていくが、それらしい人物は思い当たらない。加えて、学外と通じるためには通用門を通る必要のあるこの場において、一般人が偶然迷い込むなんて事もあり得ない。
本来居るはずの無い素性不明の人物――端的に言い換えれば侵入者――は施錠されたドアの鍵穴に手を触れる。それからすぐに、鍵穴の奥から小さくカシャンと音が鳴る。ロックの解けたドアを開けて第一訓練場の中へと入っていこうとする。
その時侵入者が偶然、慧の方を見た。すると今まで緩慢な動きをしていた侵入者は慌てた様子で第一訓練場の中へと駆けて行った。
「くそっ……!」
慧も自分の存在に気づかれた事を理解し、走ってその後を追いかける。先ほど侵入者が開錠したドアを開け、続けて第一訓練場の中へと入る。既に侵入者の姿は無かったが、誰も居ない空間で反響する乱暴な足音と、一つだけ開け放たれたドアが侵入者の行動を如実に教えてくれた。あのドアはスタジアムの観客席へと通じるドアの一つだ。
建物内部は複雑な造りをしている訳ではないが、姿を見失うのは面倒だ。慧は開いたドアへと走る。ここから行けるルートは大きく分けて二つ。観客席に沿って進み、別のドアから出るか、もしくはスタジアムへ降りて、選手用の通用口を辿っていくか。
後者は物理的な距離があり、すぐには身を隠せない。前者は距離こそ遠くないが、ドアの開閉が必要になるためさっきの様な足跡が残る。それでも、ノンビリとしていたら撒かれてしまうかもしれない。
慧は脚に力を込めて速度を上げ、侵入者が抜けたドアを通り観客席へ出る――瞬間、ゾッと寒気を覚えた。そして気付く。
「――死ね」
扉口のすぐ横から凶刃による刺突が飛んで来た。
「っ!」
慧は創像武装を展開して防ごうとして、もうそれでは間に合わない事を悟る。だが何もせず刺し貫かれる訳にはいかない。身体に乗った勢いを活かし、地面を蹴って強引に身体を捻り刺突の範囲から逃げる。
胴の正中を狙った一閃が奔る。逃がしきれなかった脇腹を刃が掠め、慧は顔を顰めた。
傷口周辺の服に血が染みて、赤く汚れていく。
更に無理矢理な重心移動をしたせいで軌道もめちゃくちゃになった身体は、観客席の座面部分に左肩から着地する。
「ちっ、殺し損ねたか……」
怒気とイラつきを孕んだ声で刺突の主である侵入者の男が愚痴る。
まだ脅威が去った訳ではない。死ななかっただけマシだと慧はすぐに起き上がり、体勢を立て直す。創像武装を展開して構える。全身に魔力を回し、身体強化を行う。それらの動作の一環で、鈍く痛む左肩が折れてはいない事を確認する。
「……誰だお前」
観客席は中央のスタジアムに向けて緩やかなすり鉢状になっている。見上げる角度で慧は男を睨み付ける。
男の体形は筋肉質という訳では無く、むしろ標準よりも肉付きの悪い瘦せ型。だらりと伸びた細腕にはフランベルジュの如き、刃が蛇のように波打った長剣が握られている。
屋外で見かけた時にはそんな物を持っていなかった。そしてそう簡単に隠せる大きさの物でもない。ならばどこからあの長剣は出て来たのか。そもそもどうやってここまで侵入したのか、それらを一挙に解決できる答えは、最早考えるまでもない。
相手は慧と同じ想造者で、あの長剣は男の創像武装だ。
「答えろ。目的はなんだ」
慧の問いに男は不愉快そうな表情を更に歪ませ、嘲り笑う。
訓練場の天窓から差し込む弱々しい明かりが、波打つ刃に反射する。
「これから死ぬ雑魚が、んな事知ってどうすんだバーカ」
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