8.陽光は天高く
明日の予定の話を終えて席を立とうとした時、突然食堂がざわつき始めた。正確に言うなら食堂の出入り口が何やら騒がしい。
「どうしたんで……え…………?」
声の方へ身体を捩って、宵月は視線の先に居る人物に言葉を失った。
「……! アサヒ!」
同じ方向を見たニアは、そこに居た知り合いの姿に僅かに声を弾ませる。
「久しぶり、ニア。元気そうで良かった」
「どうして、ここに居るんですか……姉さん」
東童朝陽。宵月の姉にして、劣等感の元凶である当人を前に、宵月はそう問う事しか出来なかった。
*
「てーきかんさ」
ニアが言葉を繰り返す。脳内で上手く変換出来ていないのだろうということが何となく伝わってくるその言い方に、朝陽は優しく微笑む。
「そう、定期監査。一応学園卒業までは保護観察の身だからね。ニアが何か変な事、特に反秩序的な事をしてないか、国へ定期的に経過報告をしないといけないのよ。今日はその聴取に来たの」
ニアは頷きつつ話を聞き、それから正也の方を見る。
「全然わからない。どういうこと?」
「ニアが悪い事してないかチェックしに来た、ってこと」
正也は噛み砕いて説明した後、横に座る朝陽の顔をチラリと窺う。朝陽は問題ないと言うように小さく顎を引く。
「わるいこと……」
「もしニアが問題行為を起こしていた場合、ニアはどうなるんですか?」
「国の上層部が、やっぱりニアは更生の余地も無い犯罪者だったと再判断すれば、今みたいな生活は送れない。間違いなくこの学園からは除籍。きっと皆とも永遠にお別れ、かな」
慧の問いに朝陽は軽い調子で答える。ヒラヒラと振られたその手は、言葉の重みとは裏腹な軽薄さがある。
「学園側から受け取っている情報だと座学実技ともに概ね問題無し。素行でも不穏な動きはないと聞いているけど――」
「ごめんなさい」
朝陽が言い終わるのを待たずに、ニアの声が割り込む。
「ニア」
嗜める様な正也の声。言外に静止の意を含めたその言葉は、ニアを止めるには至らない。
「わたしはわるいことをした。マサヤをきずつけた」
「ニア!」
「んん、ちがう。それも運がよかっただけ。あとすこしで……わたしはマサヤを殺すところだった」
テーブルの天面に額が着きそうな程までニアは頭を下げる
「ごめんなさいじゃ足りないと思う。でもあやまりたいから、あやまらなきゃいけないから。ほんとうに……ごめんなさい」
「ニア、大丈夫。大丈夫だから、顔を上げてくれ」
正也は手を伸ばし、伏した頭を優しく撫でる。
「……ん」
ニアは目元を制服の袖で拭う。
「アサヒも、ごめんなさい。わるいことをしたらダメだったのに、ダメだった」
そしてもう一度頭を下げた。
「はぁ……。六月十四日の実技演習。ニア・ルキルシアが行った模擬戦でニア・ルキルシアが
まるで報告書からそのまま抜き出したかのように、朝陽が文章を諳んじる。
「! 知ってたんですか!?」
「当然です。学園内で起きた傷害事故、それも起こしたのが要注意人物のニアなんだから、その日の内に耳に入ってますとも」
「じゃあどうしてあんな嘘を……?」
正也は不思議そうに問う。ニアも顔を上げて正也同様の表情をする。
「ちょっとテストをね。こっちが知らないフリをして、それ幸いにとシラを切るようならお灸を据えるつもりだったけど……」
朝陽の視線はニアを捉える。
「ちゃんと自分から話してくれた」
「ん。うそ、つきたくなかったから」
ニアは少しだけ嬉しそうに頬を緩めて、それからハッとして暗い顔に戻る。
「……もう、マサヤたちとはおわかれ?」
先の朝陽の言葉がニアの中でフラッシュバックする。問題行為を起こしていた場合、ニアは学園から除籍される。物質態の創像武装の使用及び傷害。それが立派な問題行為に当たることはニアも分かっている。
「ま、待ってください! あれはただの事故で、ニアも悪気があった訳じゃないんです!」
必死の様相で正也は頼み込む。椅子の脚を床に擦らせながら立ち上がり、朝陽に深く深く頭を下げた。
「お願いします! ニアを退学にしないでください!」
「わたしも……やだ。わがままだけど……マサヤと、みんなとおわかれしたくない……!」
食堂という公共の場で、他の生徒も多く居る事など忘れているように二人は全力で声を出す。
力強い懇願を一身に受けた朝陽は、
「あー大丈夫、大丈夫だから。ニアも浅見君も、素直でホントに良く似てるね。類は友を呼ぶって案外本当なのかも」
そう言って、笑いを堪えるような暖かみのある光を眼に灯す。
「安心して。さっきまでのはあくまでも鎌掛けだからあの一件について、今更ニアが何か処分を受ける事は無いわ」
「じゃあ」
「これからも、ニアはここに居て大丈夫」
「ほん、とに……?」
「ホント。脅かす真似してごめんね」
「よ……良かったぁぁぁぁ」
バルーンの空気が抜けるように、正也がぐったりと椅子にくずおれる。
ニアの目にじんわりと涙の珠が浮かんで、そのまま溢れて頬を伝い、流れ落ちる。
「あれ……?」
「わっ。ちょっと意地悪しすぎた!? ごめんなさい、ニア!」
「んん……。大丈夫」
慌てて差し出されたハンカチは受け取らず、制服の袖で涙を拭う。
「これからも、みんなといっしょにいられるのがうれしくて……、ホッとして……」
「……そっか」
朝陽は手を引っ込めて口の端を緩ませる。ニアを見る視線には、まるで家族の成長を噛み締めるような温もりが宿っている。
「さて、ニアは素直だったけど、もう一人は誤魔化そうとしていなかったっけ?」
「うっ……すみません……」
ニアや朝陽と同様、もしくはそれ以上に安堵していた正也の顔は、苦い表情に塗りつぶされた。
「じゃあ、そんないけない浅見君に問題。創像武装には
「概念態です」
「では、浅見君たちが目指す保安想士が使用するのは?」
「それも概念態です」
「どうして?」
「概念態は精神だけに干渉して命を奪う事は無い、から」
「正解。概念態の攻撃により、犯罪者を可能な限り無傷で制圧、無力化する。それが保安想士の役目よ」
問われているのはそう難しい事ではない。簡単な一問一答だ。
「では逆に、保安想士の現場において物質態が使われない理由は?」
「物質態は人の肉体に直接干渉し、命を奪う可能性があるからです」
「正解。物質態の刃は、本物の刃と何も変わらない。頬を掠めれば皮膚が裂けるし、心臓に突き立てればそのまま死に至らしめる」
正也は自身の左頬に手を伸ばす。今はもう消えているが、少し前まで一筋の切り傷があった箇所を指でなぞる。
「じゃあ最後の問題。想造者が、殺傷性の無い概念態と凶器である物質態を使い分ける際の、最も代表的な心の動きは?」
これも難しい問いかけではない。町往く一般人に聞いても、似通った答えが返ってくるであろう、初歩的な問題。
「……殺意や敵意、そういった攻撃的な感情です」
その初歩的な正解を、喉の奥底から絞り出す様に正也は答えた。
「全問正解おめでとう。勿論、私もニアに悪意があったとは思っていないわ。その事は浅見君も分かっていると思うけどね」
ニアのそれは言うなれば後遺症に近い。十年以上も血生臭い世界に身を置き続けたニアの身体と精神には、他者を傷つけない穏当な力よりも人を殺めるための無情な武器の方がずっと馴染んでしまっている。
ニアの創像武装が正也を斬り付けた時も、ニアはわざとやった訳ではない。意識して概念態を維持していた所に、模擬といえ戦闘の熱が加わり、そのストッパーが外れてしまった。そこに殺意などは無く、つい癖で、慣れ親しんだ振舞いを身体がしてしまっただけの事だ。
「でも、それじゃあダメ」
ニアが呟く。
「わたしはもう、だれもきずつけたくない」
自分に染み込ませるように、僅かに口の周りの空気と自らの鼓膜を振るわせる。
「だれかをまもるために、しあわせにするためにわたしの力をつかいたい」
その言葉は自分だけではない、外の世界へ向けた発信。未来の自分を信じ、今の自分を奮い立たせるための宣言だ。
強かな決意が発せられたその隣。朝陽が現れて以降ずっと静かだったその座席の住人の喉から一つ、空気の漏れ出るか弱い呼気が鳴ったのを慧は確かに聞いた。
「その言葉、信じているわよ」
「ん。もううらぎらない」
一切の躊躇も見せず、ニアは力強く頷く。朝陽も晴れやかに笑い返す。
「よし、じゃあ私は帰ろうかな」
「さっき来たばかりなのに、もうですか?」
「ここにはニアの様子を見に来ただけだからね」
聞いたのは正也だ。その質問に言葉以上の意味は無かったが、返答には僅かな棘が含まれていた。透明な棘は静かに、けれどしっかりと一人の胸を抉る。
「他に何かやらかしているなら問い詰めなきゃだけど、別に生徒間交際は双方合意の上かつ節度を守っていれば咎める事でも無いしね」
ガタンッ!
天板が下から上へ勢いよく打ち上げられて、食堂の長机が揺れる。
「っ……! なっ、何の話でしょうか!?」
机に膝をぶつけた痛みに耐えながら、正也が上擦った声で反応する。
「ふふっ、これからもニアをよろしくね」
さぞ楽しそうに気品良く笑う。それから椅子を引いて、立ち上がるために腕で椅子の天面を押して上半身を持ち上げる。しなやかな脚が地面を踏みしめ、スラリと伸びたスタイルの良い全身を支える。靴のつま先がクルリと食堂の出口を捉える。太陽をそのまま宿したような金色の長髪を翻して、身体の前面が帰路を向く。
そこまで見届けて、このままでは本当に朝陽は帰ってしまう、と宵月はようやく現実を理解する。そして小さく、声未満の音を薄く開いた口の間から零す。
「ぁ……」
それは本当に小さな音だった。注意していなければ周囲の日常的な喧騒に紛れて聞き流してしまうような、ごくごく微小な音。
その弱々しい音の震えで、朝陽は踏み出そうとした一歩を止めた。
「何か?」
ゆらりと振り返り、迷い無く宵月の方を見た。研ぎ澄まされた眼差しが、宵月を真っ直ぐにねめつける。
一瞬が何時間にも感じられる静寂を宵月の声が打ち破る。
宵月は立ち上がり、毅然と告げる。
「私、本戦に出るんです」
「……あぁ、醒夏祭」
酷く淡白な返事。
「去年は私の未熟さ故に本戦に出る事すら叶いませんでした」
「でも今年は出れた、と。雪辱を果たせて良かったですね」
「はい。ですが、まだです。姉さんはこんな所じゃ終わらなかった」
慧が眉をひそめる。
「一年次から二年連続の醒夏祭優勝。その圧倒的な才覚故に、後進全体の実力を測るという醒夏祭の本分を損ねると判断されて、三年次は異例の出場不可の扱いを受けた」
「そんな事もありましたね。折角なら三連覇、したかったんですが」
さほど気にした様子も無く、小さく息を吐いた。
「だから私も、本戦出場したくらいで止まるつもりはありません!」
宵月は一つ呼吸を挟む。口内に、ベッタリと張り付くような嫌な渇きを感じる。
身体に沿って垂れる右手を握り込み、自分の中から次の言葉を引き出そうとする。しかし喉は縫い留められた様に強張り、脳からの命令を受け付けない。宵月の口は声を伴わない浅い呼吸をただ繰り返すのみ。
「……っ」
まるで、目の前の朝陽の視線が自らを締め上げているような錯覚をする。以前ニアたちに語った目標は伊達や酔狂で語ったものではない。ただ同じ事を言えば良い。それだけで良いのに、それが出来ない。
東童朝陽の威光と栄光を宵月は誰よりも知っている。東童宵月はいつもその輝きが落とす陰の中に居た。小さな頃からずっと恐れながらも、憧れて、その背を見続けた。だから宵月の心は無意識にそこへと回帰して、言葉を誤った。
自由の利かない喉で振り絞る。
「わ、私も……姉さん、みたいに……っ!」
「違う」
宵月の言葉を、低い声が遮った。
「慧……?」
予想外の人物からの声に、宵月は戸惑いを露わにする。
そこで初めて、慧は自分が声を出した事に気づく。考えるよりも先に口が動いた。その事実に驚きつつも、今度は自分の意思で言葉を紡いだ。
「誰かみたいに、じゃない。宵月は宵月だろ」
「!」
宵月は目を見開く。身体を縛り付けていた透明な鎖が蜃気楼のように解けていく。
「そう、でしたね。大事なことなのに、うっかりしていました」
頭を振って、頬をペチペチと叩く。それから、朝陽の眼を真っ直ぐに見つめ返す。
「姉さん。私は醒夏祭で優勝して、やりたいことがあるんです。そのために、絶対に負けるわけには行かないんです」
明瞭な思考で正しい言葉を選ぶ。今の自分の目標は醒夏祭で優勝する事だけではない。その先にこそ、決別するべき宵月だけの到達点が控えている。正也の手前、それが何かを明かす事は出来ないが、もう見誤らない。強い決意を胸に、意志を言葉に起こす。
「私は――私は慧と二人で、まずは今年の醒夏祭で優勝します」
憧れと畏怖に怯えず、友情と恋情を貫き通すため、宵月は言い切った。
「あくまでも醒夏祭が足掛けとは、随分な大言壮語を。良いでしょう。貴女が何をしてくれるのか、楽しみにしています」
侮っている事が丸分かりの、あからさまな挑発セリフ。だが口の端を歪めて不敵に笑う朝陽の瞳の奥に、慧は一瞬だけ純粋な輝きを見た気がした。
意地の悪い表情も引っ込めて、朝陽はコホンと咳ばらいをする。
「言いたい事はそれだけですか? それでは――仲村慧くん、で合ってますか?」
「はい?」
名前を呼ばれるとは思っておらず、若干間の抜けた尻上がりの返事をしてしまう。
「通用門まで、エスコートをお願い出来ますか?」
「……自分でよろしければ」
打って変わってにこやかに笑う朝陽の頼みに慧は素直に応じる。
「ま、待ってください! 案内ぐらいなら私が」
「私は慧くんに頼んでいるのです。貴女は関係ありません」
「でもっ」
「大丈夫だよ。これくらい迷惑でも何でもない」
宵月はまだ何か言いたげだったが、朝陽は気にも留めず早々に歩き出す。案内役を頼まれた慧も、それに付いて行く。
「~~~~っ! はぁ……」
宵月は口に出せずに喉の奥に溜まった様々な言葉の代わりに溜め息を吐く。
そして食堂に残された三人は一波乱二波乱を越えて冷静になって、周囲の視線が余さずこちらを向いている事にようやく気付いた。
有名人かつ羨望の対象である東童朝陽の来訪。不穏さの混じる会話の内容。それに大きな声を何回も出した気もする。これらの要素が合わされば、注目を集めるのも必然だと言えよう。
宵月たちが視線を外に向けると、三人に集まっていた視線は何事も無かったように方々へ散る。
「……部屋、戻ろうか」
「……そうですね。戻りましょう」
「ん」
正也と宵月は恥ずかしさで顔を赤らめながら、ニアは変わらず無表情で、いそいそと寮へ戻るのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます