あつく燃えて③
嫉妬。それが藍沢さんの悩み事。
私にとってその感情は、やはり中学時代の出来事に結びつく。藍沢さんに既に話したことだ。部活動での一件。いけ好かない女の子の、いけ好かない妬み。そしてろくに話したこともないくせに、好きだと一方的に想いを告げてきやがった男の子のせいだ。受け入れても、拒んでも、どちらの道を進もうと自分にとって不利益を被ることになるのだとわかっていた気がする。逃げ場がないのだと。
今は真夏の公園。日の当たらないベンチで並んで二人、私と藍沢さん。
逃げ場、ないよね?
「だったらさ」
私はもはや藍沢さんが私を慕う気持ちを疑うつもりがなく、私がキャシー先輩と舞台でパートナーを演じること、深い関係であるのを嫉妬を抱いている彼女を受け入れて、思いついたことを言ってみる。
「前に話したとおり、海かプールにでもいく?」
私の言葉に、目が点になる藍沢さん。
「どうしてそうなるんです?」
「どうしてって。あんたが、私の……私のことをもっと教えてほしいだなんて言いだしたんでしょ」
「そんなことを言っていましたか」
「なによ、陽炎とでも思えばいいわけ? たしかにあんたは捉えどころのないかもしれないけれど、でも今は確かにそう口にしていたわ。聞いたわよ、私」
「それでその返しというのが、海かプールへのお誘いなんですか」
「そうよ。嫌なの?」
「……ふたりきりでかまいませんか」
ぼそぼそと、彼女らしからぬふうに。
「ちゃんと言いなさいよ」
聞こえていたけれどあえて聞き返す私に、彼女は眉間を寄せる。
「あっ、でも、ダメですよ。わたしじゃ篠宮さんを守れません」
「は?」
「だって、ほら、海にしてもプールにしてもナンパ男が付き物じゃないですか。そうでなくても、クラスメイトの男の子とばったり出くわしたのを想像してみてください。『水着姿の篠宮、綺麗だな……ぐへへ』なんて鼻の下を伸ばして全身を舐めまわすように視線を這わすのは当然じゃないですか」
「変な想像させないでよ」
「わたしだと守れないんです。悔しいです、素直に」
「私がそんなにか弱いやつに見える?」
「わかりません。でも、あなたの強さと共に弱さだって知りたいんです」
「それ、答えになっていないから。で、行くの、行かないの。どっちよ」
「篠宮さんのお家ってプール付きの豪邸ってことありません?」
「ないわね」
「空気を入れて膨らますタイプのビニールプールは?」
「ない。あっても、嫌よ。なんで高校生にもなってそんなので遊ばないといけないのよ」
「でも、わたし……」
「いや、身体の大小は関係ないでしょ」
「それはわかっています。そうではなく、わたしは……その、ですから、ふたりきりがいいなって」
私はもう何度か口にしてしまいそうになっていた。
あんた、どんだけ私のことを好きなのよと。
それを形にしてしまえば、楽になるのかな。大好きですよと生真面目に言われるのならまだどうとでもなる。きっと平然と今、そう返してくれるのならそこにあるのは友情だからだ。けれど、と考えてしまう。まさか、と思ってしまう。たぶん宮尾先輩が悪い。あんな話をするから。
もしも彼女が返答に窮して、その頬を赤く染めでもしたら、私はそれからどんな言葉をかけてやればいいんだ。
全部、私の勘違い、自意識過剰であったらいい。それでいい。
隣にいるこの同級生の女の子は私なんかのことをもっと知りたいと言う。
愛想もユーモアも、コミュニケーション能力もない、私を。
そこに友情ではない心情を見出すのは「誤り」だと直感している私がいるのと同時に、それを「誤り」といたずらにみなすべきではないと警告している私もいて、だから、なんていうかな、蝉よりもずっとずっとうるさく、煩わしい。私たちの間に流れる沈黙に耳を塞ぎたくなるのだ。目を背けたくなるのだ。
「べつに、泳ぐことが重要ではないんでしょう。それなら、海かプールでなくてもいいわ。とにかく、どこか行きましょう。ふたりで。それで普段学校で話さないことだって話せばいいじゃない。それで……」
仲を深めればいいじゃない。
嫉妬なんて消し飛んじゃうぐらいに。それでいいじゃない。
「篠宮さんはそれでいいんですか」
「何が言いたいのよ」
「篠宮さんも、そうしたいって思ってくれているんですか。それともわたしにただ付き合ってあげてもいいかなって、憐れみですか。藍沢憐みの令ですか」
そんな法令出す幕府はない。どこにも、いつの時代にも。
おふざけを挟んだのは余裕があるからではなく、余裕があるように見せたいからなのだと彼女の表情から読みとる。
初めて話した時になんて無表情な子なんだろうと感じたその顔に、動揺がありありと浮かんでいるのだ。
「ねぇ、藍沢さん」
慎重に、と思った。言葉を選ぶ。嘘はつきたくないって。それは舞台の上だけでいいって。私は日常に演技を溶け込ませる気なんてない。
「私だって、藍沢さんとこの夏休みを高校生らしく謳歌したいと思っているわよ。それじゃダメなの?」
また一段と顔に緊張が浮かんで、そして消えた。そんな彼女を見守るしかなかった。かける言葉が見つからない。だって、客観的に考えてみれば、ただ友達同士で夏休みにどこか遊びに行こうってそれだけの話なのだ。そうでしょ?
「夏祭り」
しりとりでもするみたいに、ぽつりと藍沢さんが呟いた。
「夏祭り?」
「はい。花火大会とセットであるんです、一週間後ぐらいに。有名ってほどではないです。どこにでもあるようなのが。篠宮さんが住んでいた町でもありましたよね」
「そうね、河川敷であったわ。数回しか行った覚えないけれど」
「浴衣ってお持ちですか」
「……ない」
「待ってください」
「うん?」
藍沢さんがスマートフォンを取り出して操作する。普段、教室にいるときはめったにしない。校則云々ではなく単に、スマートフォンを操作しながらおしゃべりする子ではないというだけ。暇つぶしのゲームアプリさえ入れていないのは私で、彼女のほうはどうだか知らない。
当たり前だけれど私のほうだって、彼女の知らないことっていっぱいあるんだ。
「一万円あれば、下駄とセットで買えるみたいですね。ほら」
「へぇ。これ、ネット通販?」
「えっと、最寄りのショッピングモールでも、この時期はセールしているようですよ。高い水着よりも安く買えるぐらいです。布面積は断然、こちらのほうがあるというのに」
「なるほどね」
合点してみせたが、後が続かない。そんな私に、藍沢さんが提案する。
「明日や明後日にでも、なんでしたら今からでも買いに行きましょう」
「へ? 海やプールをやめて、夏祭りってこと?」
「そっちは行くかどうかわかりませんけれど、でもとりあえず夏祭りには行きましょう。そういうことです」
そう言って目を合わせてくる藍沢さん。瞳から迷いが消え、表情から憂いが失せている。
「そうね、そうしよっか。お金がないから、明日でいい?」
「わかりました。明日は一日中、付き合ってもらいますから」
「一日中?」
「浴衣買って、はい、解散だなんて味気ないですから」
「それもそうね」
「本当に思ってくれていますか」
「なに、急に不安になっているのよ。今日のあんたはころころ変わるわね」
「篠宮さんのせいですよ」
藍沢さんが微笑んだ。やっと、笑ってくれた。
私もだよって言えなかった。言わなかった。
もしも藍沢さんが私に見せてくれたこの微笑みを、満面の笑みではなく愛想笑いでもなく、百パーセントの藍沢花恋の自然な笑顔を誰か別の人にほいほい向けているのを想像してみたら、妬けちゃうなって。少し。ほんの少し。嫌な気がする。
「私ね、あの時あんたに言われたのを覚えているわ」
「はい?」
「放課後の図書室でのやりとりの翌日、帰りに寄ったあの洋菓子店で言ったこと」
あの日彼女は言った。『篠宮さん、あなたは舞台の上でどんな花よりも綺麗に笑えるんです。その笑顔をわたしは見たいんです。その笑顔がきっとわたしを救うんです』と。
「ええっと、なんでしょう。いろいろ話したのでどれを指しているか定かでないのですが」
「あんたは私の笑顔を見たいと言った。今では私もそう。ううん、私のってことじゃなくて、あんたの、藍沢さんの笑顔を見たいって思っている。これ、知っておきなさい。いいわね」
高飛車に、高慢に、照れを隠して。私は彼女に有無を言わせない。
この子は大袈裟にも、私の笑顔が自分を救うと口にした。そして私は今この時になって、彼女の微笑みの価値に気づいた。私をこれまでに何度か惑わせ、妙な気持ちにしてきたそれ。
ちゃんとわかっていてほしいものだ。私なりにあんたを想っていること。
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