夏風邪と夕暮れ

 ありえない、あの馬鹿

 

 夏休みが終わりに近づいた頃。予定どおり、講堂を貸してもらって本番を想定した稽古を二日間続けてみっしりと行ったその翌日。藍沢さんと夏祭りにふたりで出かけるはずだったその日。

 浴衣も買って、稽古も順調に進んで、それで私なりに楽しみにしていたのに。

 いつもの様子を取り戻した藍沢さんは、稽古終わりに本番まで頑張らないとですねって興奮した調子で前向きに明るく微笑んで見せさえしていたというのに。

 

「なんで、風邪なんて引くのよ……」


 自分の部屋で独り言が漏れる。

 そろそろ着替えてしまおうかなと思っていたところだった。 

 午後四時に駅で待ち合わせて祭り屋台の並ぶ神社へと行き、そこで時間をつぶして、花火が綺麗に望める場所へと移動する、ざっくりとそういうスケジュールだけ決めていた。

 午後三時前に藍沢さんから連絡がきたとき、私は思わず冗談かどうかを疑った。


『すみません。風邪引きました。今日無理そうです』


 繰り返し、その文面に目を通してどこにも冗談が挟まれていないのを否が応でも理解する。全部が嘘であるのなら、と思うのはいくらなんでも人間不信にもほどがある。あの子がこんな嘘つくわけないってのは知っている。そう、信じている。


 電話ができないレベルで寝込んでいる? 喉がガラガラ? 熱は、咳は、鼻水は……。憤りは一瞬にしてそんな当たり前の心配にかわる。

 楽しみにしていたのに、なんて言って駄々をこねてもしかたない。だって、そうよ、あの子のほうだってきっと楽しみにしてくれたはずよ。


『大丈夫?』と返信しようとして止める。大丈夫じゃないってわかっている。少しぐらいなら無理してでもくる子なんだ、あいつは。


『しっかり休んで。また別の日にどこか出かけようね』


 私は送る。『出かけるわよ』と一度したのを改めて送る。

 気持ちを落ち着ける。夏休みはまだ終わっていない。それに夏休みが明けたって、あの子と友達なのは変わらない。また会える。会って、話してがいくらでもできる。わかっている。


 もやもやとした。

 誰が悪いでもないのに、何か誰かに、責任を問い詰めてやりたくなった。

 

 私は思い出す。うん、昨日の藍沢さんは健康そのものだった。

 一つ、一つ、思い出す。講堂での二日目の稽古。私は音響や照明の操作にはまったく携わる暇はなくて、ステージ上での発声、演技を主に確認していた。まだステージには立ち位置を定めるテープは貼っていなくて、観客役の藍沢さんがあれこれと指示してくれて。

 声の響き方まるで違った。部室の十倍以上の広さがあれば当然だ。本番では多くの人が座って、また音の伝わり方が変わる。こればかりは場数を踏んで慣れるしかなかった。

 眠そうな真壁先生が途中で顔を出してくれて「青春してんなぁ」といい顔して笑っていたのを思い出す。無愛想な福田先輩が進捗を確認しに来て、美術部に帰る頃には「篠宮、何かほしい小道具とかあったら教えろ。用意するから」と言ってくれたのを思い出す。


 あの子がちゃんと観ていてくれたから。だから安心できたんだなって。


 それを昨日のうちに伝えておくべきだったなって思った。

 脚本・演出担当として一所懸命に。講堂は広いから、声も張り上げて、それでもたとえばキャシー先輩の声には張り負けて、でもそんなの気にせず、思いついたことはなんでも口にして、それで舞台を作ろうとしてくれていた。そんな彼女がいて、だから私も頑張れた。頑張らないとって思えた。

 負けたくないって。勝ち取った主演。『雪乙女』の主人公。心を本当の意味で取り戻す少女。


 返信がくる。つらかったらしなくていい。返信不要と書いておくんだった。


『本当にごめんなさい。生きたかったです あなたと』


 どきりとした。なんて誤字しているのよ。ありえないでしょ。

 ただでさえ私たちが作り上げている舞台の内容、そこで雪乙女はその命を溶かしてしまうのよ。いきなりこんな形で、そんなお別れみたいなこと言わないでよ。冗談でも、嫌でしょ。誤字に過ぎない、彼女なりの強がり、ユーモアなのかわからないけれど、なんしたって胸がきゅっと締まるでしょ。馬鹿じゃないの。あなたと、って付け加えなくてもわかるっての。私だってあんたとふたりで――――。


 私は衝動的に電話をかけていた。

 迷惑かもしれない、わかっている。でも声を聞かないことには収まりそうにない気持ちがあって。言わないと気が済まない想いがあって。


 つながった。


「もしもし?」

「……すみません、篠宮さん」


 開口一番に。暗い声で。


「謝らないでよ」

「ああ、さっきのやつですよね。間違っちゃいました」


 誤らないで、ではない。いや、そっちもだけれど。


「ねぇ、お家の方は今いるの」

「え? いないですけど」

「お見舞い行ってもいい?」

「えっ、あの、いえ、ダメです。うつったらどうするんですか。そんなの嫌です」

「ふざけないでよ。勝手に風邪引いておいて。昨日はあんなにピンピンしていたのに。私だって嫌よ。そうよ、嫌なのよ。会いたいって思ってもいいでしょ。心配したっていいでしょ。首を洗って待っていなさいよ!」

「あの――――」


 私は通話を終えようとする。決心がついて、彼女のお見舞いに行こうとする。藍沢さんが何を言おうが、従うつもりはなかった。必死に拒まれでもしたのなら、それなら考えたかもしれない。

 でも電話を切ってしまう前に彼女が弱々しい声で私に言う。


「で、でしたら……浴衣姿で来てほしいな、なんて」


 私は電話を切った。悩む。悩んでいる時点で負けだった。

 あーっ、もう、しかたない!




 藍沢家の前まで到着したとき、そういえば鍵かかっているわよねと冷静になった。

 そこまで来てやっと頭が冴えた。初めて浴衣姿で電車に乗って――――時間帯が早かったせいなのか、私以外は誰も浴衣ではなかった――――それから駅近くにあるコンビニでスポーツドリンクとゼリーをとりあえず買ってみて、ここまで歩いてきたのだった。


 眠っていたらどうしよう。

 宣言通りに来ておいて、入れないって。ダサすぎる。


 深呼吸して、藍沢さんに電話する。それが最も現実的な手段であった。出てよね。無理はしてほしくないけれど。ぐっすり眠っているならそれでもいいけれど。

 でも、やっぱり出てよね。


「も、もしもし」

「ああ、よかった」


 ワンコールで。眠ってはいなかったみたい。


「あの、ひょっとしてやっぱり来ないっていう……」

「もう目の前。ねぇ、鍵ってさ、どこかに隠していたりってない?」

「そんなRPGのダンジョンではないんですから。開けにいきますよ」

「でも、身体……」

「正直、しんどいです。けれど、それよりも会いたいですから」

「じゃあ、お願い」


 しばらくして玄関扉がゆっくりと開かれる。寝間着姿の彼女がいる。私は扉に手をやり慌てて内側へと入る。姿見を確認する余裕はなかったのだろう、服がはだけてしまっている藍沢さんを通行人にでも見られたくない。扉を閉める。


「まさか本当にきてくれるなんて」

「それ、お見舞いのこと? それとも浴衣のこと?」

「どっちもです」


 見るからに熱のある顔で微笑んで見せる彼女にどぎまぎとした。


「肩、貸そうか?」

「お姫様抱っこでお願いします」

「無理よ」

「ですよね。わたしなんかがお姫様なんて」

「そこじゃない。ほら、あんたの部屋に戻るわよ。階段、あんたが先に登って。下から何があってもいいように身構えているから」

「すみません」

「謝罪禁止。こっちこそ押しかけてごめん」

「篠宮さんも謝るの、禁止です」

「うん、わかった」


 玄関扉を施錠して、私は彼女がゆっくりと階段を上がっていく後ろにつく。

 小さな背中だ。以前も同じことを感じたのに、今となっては支えてあげたい、そして寄り添いたいと思ってしまってもいるのは傲慢だろうか。

 

 部屋に着くと、彼女をベッドに寝かせようとする。でも、少し考えて「汗、かなりかいているんじゃないの?」と訊く。さすがに直に触って確かめはしないけれど。


「まぁ、そうですね。匂ったらすみません」

「謝罪禁止だって。まだ一分ぐらいしか経っていないわよ」

「えへへ」


 何照れているんだ、こいつ。


「汗拭かないとよね。タオル、どこにあるの?」

「えっ。自分でできます」

「わかっている。私が拭くとは言っていない。タオルの場所を聞いただけ」

「ですよね」

「……どうしてもって言うなら、拭くわよ」

「ダ、ダメです。そんなの熱が上がってしまいますから」


 なんでよと訊かずに、タオルの場所をもう一度訊ねる私。

 そうして手にしたタオルを私は濡らしに一度部屋を出る。たしかこういう時って濡れタオルの方がいいよねと。そんなうろ覚えの看病知識。そうして戻ってきて彼女に渡す。さっさと拭きなさいよと、病人に対して催促すらする。どうしてそんな恥ずかしげにしているのよと言いたくなる。でも言わない。


「全身拭くので、その、見ないでくださいね」

「うん」

「ぜったいですよ」

「うん。それより、替えの下着もいるんじゃない?」

「…………たしかに」

「ま、焦らなくてもいいわよ。しばらくはここにいてあげるから」

「なんだったら泊まっていってくださってもいいですよ」

「よくないでしょ。あとスポドリとゼリー買ってきてあるから」

「ゼリー?」

「そう。風邪のときに食べられそうなの。プリンとかおかゆのほうがよかった?」

「いえ、篠宮さんが食べさせてくれるのならなんでも」

「今日だけだからね」

「え?……え?」


 汗を拭き終え、着替えが終わった藍沢さん。

 上半身を起こしたままベッドにいる彼女、その口にスプーンで蜜柑ゼリーを運ぶ私。なんだこれ。

 自分で承諾しておいてなんだけれど、どうかしているな。ううん、友達だったら普通でしょ、きっと。


「今日の篠宮さんは甘いですね」

「かもね」

「生まれて初めて風邪を引いてよかったって思っています。あ、でも夏祭りは残念でした」

「そうね」

「花火大会は今日限りですけれど、屋台を回るだけなら明日でもいいかもしれません」

「ふうん」

「篠宮さん」

「なによ」

「ありがとうございます」

「……うん」


 空っぽになったゼリーの容器。私の分も買ってくればよかったかな。


「親切ついでに、もう一つ、二つわがままをきいてくれますか」

「言ってみて」

「わたしが眠るまで、手を握っていてほしいなって」

「いいわよ。それぐらい」

「あと子守唄を」

「それはなし」

「では、わたしから少し話してみてもいいですか」

「何の話?」


 藍沢さんは右手で私の左手をとる。軽く。握るのを躊躇うかのように。

 そして徐ろに横たわって目を閉じる。そのまま眠ってしまうのかと思いきや、また口を開いた。


「トラの話。まだ話していないことがあるんです」

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