あつく燃えて②
午後一時前。日陰は存外、涼しかった。
私と藍沢さんは駅から出て、しばしうろうろしてしまったが、小さな公園を見つけてそこで話すことにした。ちょうどベンチに木陰がかかっている。
砂場と遊具が二つしかない簡素な公園だった。横に並んだブランコに腰掛けて話す気にはならなかった。暑いし、なんだか恥ずかしいから。
小学二年生ぐらいの頃の私はどちらかと言えば外向的で、男の子に混じって遊びもしていた。ブランコの思い出もその中にある。
高く、高く。
空まで届かないのはわかっていても、どれだけこいだって、飛べはしないと知っていても。それでも本当に僅かな距離でも近づくあの空と振り子になった自分の身体にかかる力に惹かれて何度もこいだ。最初の頃は誰か大人の人が背中を押してくれいたかもしれない。いつしか一人だけになって、そして何かの拍子に手を離して、そのまま飛び立とうとして、ブランコから跳んで……着地に失敗して怪我をした。
「どこにでもある話よね」
私はそんな話を藍沢さんにしていた。自動販売機で買った缶ジュースを手に、まずどうでもいい昔話から話しはじめていた。
「やんちゃだったんですね」
「そうね。虫取りだってしていたのよ。親戚の家がね、いわゆる田園風景の真ん中にあるお家だから、小さい頃は従兄に連れられて田んぼで遊びもしたんだから」
「想像できませんね。そんな外での遊びより、たとえば人形遊びやお絵かき、それにおままごとでもしなかったんですか?」
「しなかったわ。ああ、でも好きだったぬいぐるみはあった。ペンギン」
「くまではなくて」
「そう。ただね、テレビなんかで目にするペンギンとそれとを結び付けて考えていなかったと思う。手触りのいい愛らしいそれと、血が通っている生き物とを同一視していなかった。だって、そもそも大きさが違うでしょう? 動物園に行って実物を見せられて、それもまぁ、悪くないなって思ったけれど、ぬいぐるみのほうが好きだったな。ふかふかしているやつ」
「今でもそれを抱いていないと眠れない、と」
「もうないわよ。いつだったか、処分したの。記憶が曖昧なのよね、そのへん。大事にしていたつもりだったけれど。いつの間にか、そんなに大事じゃなくなっていたのかな。人間のお友達がたくさんできたわけでもないのに」
「篠宮さんの自虐って、どう反応していいかわかりません」
「スルーしておきなさい。藍沢さんは? 部屋にぬいぐるみは一つもなかったけれど、昔はどんな子だったの? お絵かきで、自分の世界を表現していた?」
「残念と言うべきか、その頃からクリエイティブな才能の片鱗を見せていたわけではありませんよ。おままごとする相手もいませんでした。篠宮さんと同じく」
「私、一人もいなかったとは言っていないわよ」
「では、いたんですか? 幼い頃に夫婦の真似っこをして、おもちゃの指輪を交換して、大人になったら結婚しようねと誓いも交わした幼馴染の男の子がいるんですか」
「い、いないけれど。なんでぐいぐいくるのよ」
「よく考えたら、いても引っ越しをしているから離れ離れなんですよね。あ、でも、むしろそういう一時の別れを経て、大学や職場で再会するなんてロマンチックですね。篠宮さん、ずるいです」
「何がずるいのよ。あんた、何回かそう私に抗議しているけれど、全然わからないわよ」
やれやれと私が肩をすくめ、暑さで急速にぬるくなるジュースを飲む。
人気のない公園だ。時間帯ゆえか、犬の散歩をしている人さえ見かけない。時間帯を意識したらお腹空いちゃったな。
「それで、篠宮さん。話したいことってなんですか。まさか昔話をしたかったわけではないでしょう?」
「あのね……ここのところ、ちょっと変だなって。藍沢さん」
「わたしですか」
「そうよ。夏バテ? なんだか無理していない?」
「気になりますか」
「それはそうよ」
「どうしてですか」
「は? 特別な理由はいらないでしょ。やっぱり天邪鬼ね。心配しているのよ、あんたを」
私がそう口にするとまた微妙な表情になったが、それを缶ジュースを飲むことで隠す彼女だった。
飲み干して、ぷはぁ、とわざとらしく息をつき、それから「知りたいですか」と訊いてきた。
「知りたくなかったら訊かないわよ」
「言葉足らずでした。もしも、篠宮さんにとって複雑な気分、場合によっては不快になる事情があっても、知りたいですか?ということです」
「それは……」
いつもの冗談ではないふうだった。
家庭の問題だったらどうしよう。藍沢家で何かあって、それで心を乱しながらも、部活に参加してくれていて、というのだったら。
そうだったら、私は聞くことしかできない。前向きに考えれば、聞いてあげられはする。
つまり――――
「話すことで、あんたが少しでも気が楽になるのなら、私はそれを受け入れるわ」
「優しいんですね」
やや棘のある調子だ。彼女が嫌味っぽさを出すのは珍しい。風変わりな物言いはあっても、皮肉屋とは違うから。
「ねぇ、藍沢さん」
私もジュースを飲み干す。空っぽの缶。軽い。
「こんなことを大真面目に言うのは気が引けるけれど、でもたしかに私たちは友達でしょう? だから悩み事があれば相談に乗ってあげたいのよ。それが同じ目標に向かって懸命に練習を重ねている仲間であるのなら、なおさらね」
「わたしは舞台に立ちません」
「なに不貞腐れた顔しているのよ。あんた抜きじゃ、いろいろ無理でしょ。今日だって、そう。あんたのアドバイス、役立っていたじゃない。最初こそ、みんな半分聞き流していたふうだったのが、あんたが的確なことを口にするものだから、今はもう信じているじゃないの。あんたが誰よりもあの舞台を理解しているって」
「振りをしているだけです。わたしは舞台に立てないんですから」
「藍沢さん、もしかして――――」
舞台に立ちたいの?
それを私は言いよどんだ。彼女自身が私に前に教えてくれたのだから。一度は志して、そして諦めているのだと。幼き彼女が夢に見た舞台。それは今では別の形で関わっている。小さな舞台だ。小さな演劇部の。彼女の夢はきっとそこで終わりじゃないんだろうな。そんなことも思った。
「違いますよ」
「え?」
「篠宮さんが今、考えていること。その表情から読み取れること。たぶん違います」
「それって……」
「わたしは舞台に立ちたいと、あたかもかつての夢を思い出したわけではないんです」
ばっさりだった。
驚いて、困惑した。見透かされた心。私は彼女をまじまじと見た。彼女ができたように、私は彼女のその可憐な無表情に何か見出せると信じた。他の人ができなくても。私なら、と。
「や、やめてください。そんな、見つめないでくださいよ」
藍沢さんが顔を逸らす。微かに震えた声に、困惑が増す。
「教えなさいよ。せめて今あんたが悩んでいるのって、舞台のことかそれとも無関係の家庭や勉強、進学、そういう問題なのか、教えてよ」
「なんで悩んでいる前提なんですか」
「どうして隠すのよ」
「ち、近いですって。なんなんですか、なんでこういう時はそんなに近づいてくるんですか。そういうのが、ずるいって言っているんですよ!」
「意味わかんない。早く教えなさいよ。じゃないと……」
「じゃないと?」
「えっと……」
次が出てこなかった。仲良しの友達同士だったらこういうシチュエーションだと、どうするんだろう。脇腹でもくすぐればいいのか。私がこの子の? こんな暑いのに? いや、暑さはどうでもいいけれど。だったら、脅す? 隠したままなら、私、舞台に出ないからって。
なにそれ、フェアじゃない。そんなのは嘘でも口にしたくない。こういう意地があるから、人とうまくコミュニケーションできないのかな。
結局、私は何もアイデアが出てこなかった。いっそ泣き落としでも、と思い至ったときに藍沢さんが溜息をついた。観念したっていうふうに。
「篠宮さんは優しいですね」
今度は皮肉めいたトーンではなかった。
「なによそれ」
「そのままです。わたしにこんなに構ってくれる人ってなかなかいませんよ」
「それはあんたに問題があるんでしょ」
「問題児がお好きなんですか」
「曲解しないで」
「では、嫌いですか?」
「…………あんたのことは嫌いじゃない。いいから、もう言いなさいよ」
「ここまで引っ張っておいてなんですが、大した話ではないです」
「そうなの?」
「ええ。それこそさっき話してくれたブランコでの怪我と同じぐらい、ありふれた話かと」
じゃあ、どうしてこうも、もったいぶったのだ。焦らす価値がないのなら、さっさと話してよ。お腹空いているんだぞ。あんたもそのはずでしょ。私は全部飲みこんで、彼女が続きを話すのを待つ。
「嫌だなって思ったんです」
「なにがよ」
「篠宮さんがキャシー先輩と、ハルとユキをしているのが」
「……どういうこと?」
だって、藍沢さんはむしろキャシー先輩の演技力を信じている。稽古中でも、ダメ出しなんてほぼない。キャシー先輩は彼女なりに目指しているユキの姿、言動込みのキャラクター像があって、そこに近づくために、その修正のために私や藍沢さんを「使って」いる。積極的に評価を頼まれる。キャシー先輩自身が一番考えているのはわかるが、それでも彼女は周囲からは思うように演技ができているか直接確かめる。そうやって、徐々に理想を現実にしていく。
それが役作りだと。私はキャシー先輩に教わっている。教わってばかりだ。
かつて藍沢さんのやり方を否定した人とは思えないぐらい、キャシー先輩は舞台に、そうだ、『雪乙女』に本気だ。
だから私もその相方を務める、ううん、主人公を演じる者として精一杯練習している。それでもまだ足りないと思っている。これじゃ、ただの学芸会レベルだって。それを抜け出さなきゃって躍起になっている。
そうした意志と意思が藍沢さんからだって感じられた。
それなのに「嫌だな」って。なによそれ。なんなのよ。
「違いますよ」
また彼女はそう言った。今度は、つい憤りを感じてしまった私がその怒りを冷ましてしまう程度に、暗くて弱い、呟きだった。
「篠宮さんたちの演技に不満があるんじゃないんです。このまま練習を重ねていけば、きっと本番にはすっかりハルとユキを演じられるのだと予感しています。期待、と言い換えてもかまいません。わたしが嫌だなって言ったのはつまり……」
両の手でアルミ缶を包み込む藍沢さん。ぎゅっと握り込んで、缶がへこむ。少し。
つぶれはしない。彼女の力ではそれは形を変えられても、失くすことなんてできない。
「嫉妬しちゃっているんです。キャシー先輩に。あるいはユキに。篠宮さんのいろいろな表情を向けてもらえる相手に。割り切れないわたしがいるんです、あなたがハルとして舞台に立っていて、あくまで演じているってのを。そうだって納得しているはずなのに、望んだはずなのに、わたしは……わたしにも、いろんなあなたを教えてほしんです。もっともっと」
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