時に非凡よりも凡庸が怖い
午後五時過ぎの演劇部の部室は明るい。
久しぶりの明るい日差しを取り入れようと、宮尾先輩の提案によってカーテンが開かれたのだった。窓を背にして、演技を行うこととなる。建物の位置関係からして逆光に目を眩ませはしない。
「まずは主人公であるハルからだろうな」
そう宣言したのは、木下部長だった。取り仕切るのは得意ではないみたいだが、部長になった経緯にしても前に言っていたように他に誰もやりたがらなかったから、そもそも三年生が彼一人なのだから引き受けたわけだが、いざとなれば部長らしさを発揮する人だった。
ただ、今日に関してはもう一人、この場にまとめ役を買って出そうな人はいる。演劇部ではないけれど。
桜庭会長が私たち演劇部員から距離をとって部屋の隅に立っている。それこそ、陰の実力者っぽい佇まいで、そういう演技をしている真っ最中みたいに。「オーディションに口出しはしないよ」と本人は問われる前から言っていた。あくまで七尾先輩の付き添いらしい。
七尾先輩にしてみればプレッシャーというより、原動力に近いのかもしれない。今朝のやりとりを思い出して私はそんなふうにも考えた。
『雪乙女』の主役ハルの立候補者は、私と七尾先輩の二人だった。想定通りである。ここでもう一人、二人、挑むとなれば番狂わせが起こりそうで怖い。
何はともあれ、私は私なりのこれまでの練習の成果を見せるしかない。
「一週間前にも言ったが」
木下部長が部員たちを見まわす。聞いてくれているのを確認して続ける。
「今日のオーディションは、現時点での出来具合でしかない。本番は夏休みを挟んで、さらに二学期に入って一か月後の十月頭。それまでに演者同士のみならず礼司のような裏方とも刺激し合って、この『雪乙女』をよりよいものにしていく。当然だがな。演技力を測るってだけなら、何も『雪乙女』の台本を使わなくてもいいが、それぞれの役に対する真剣ぶりを知るには、むしろ使うしかない」
やや緊張しているのか、あるいは部長らしく振る舞おうとしているのか、硬い表情と声色の木下部長だった。
「ようは、上手い下手を気にするよりも、本気で演じてみろってことでしょ?」
キャシー先輩がよく通る声で結論付ける。木下部長が「ああ」と短く返した。
「それじゃ、どっちからにするの?」
キャシー先輩が私と七尾先輩を見る。そして当の私たちも視線を交わす。
読めない。彼女の表情が。緊張している素振りはない。見知ったクールな顔つき。
「ええと、ここは公平にじゃんけんや、コイントスで決めたらどうかなぁ」
「宮尾さんの意見に賛成。それでいい、篠宮さん?」
「あ、はい」
七尾先輩って宮尾先輩のことは、さん付けなんだ。そんな些細なことを気にしている場合ではない。
「そ、そういうことなら、こちらをどうぞ」
どこからともなく照井さんが出してみせたのは、謎のコインだった。五百円硬貨っぽいが、意匠が全然違う。いや、ほんとどこから出したのよ。
「へぇ、何かの記念硬貨?」
「そ、そんな感じです」
部長に渡すかと思いきやキャシー先輩に渡す照井さん。問われて、曖昧に答えているが、もしやと私は思い当たる。果たして私の隣にいた藍沢さんが「あれもアニメのグッズです」と小声で教えてくれた。
コインケースではなくコインやメダルそのものもグッズとしてあるのか。
花が描かれているのが表、剣と音符が描かれているのが裏なのだと、やはり早口で話す照井さんだった。それなら、と藍沢さんが表が出れば私から、裏であれば七尾先輩からと取り決める。
「ほいっと――――」
キャシー先輩がコインを指で弾く、そして手の甲で受けとめ、もう片方の手で覆った。お見事だ。私なら取りこぼすかも。慣れているのかな。私生活でそんなにしないと思うんだけれど。
「裏ね。それじゃ、七尾。あんたからよろしく」
「わかった」
かくして七尾先輩から演技を始める。
拍手が起こった。部屋の隅から。
その桜庭会長の上品な拍手につられて、私を含めて皆が拍手をする。音は徐々に小さくなって消えた。静まり返った部室で、藍沢さんが「では、次は篠宮さんですね」と平然と告げる。
七尾先輩の演技。
普通にうまかった。
何をもって演技の良し悪しをつければいいのか定かでない私であっても、決して下手でないのはわかる。早くも前言撤回となりそうだが、藍沢さんとの相対評価をして七尾先輩の演技が上手であるのは明白だと思える。
けれど、そう、けれども「普通に」という、すなわち異様ではないのを強調し、想定外でないのを示す修飾語がつくレベル。
私は七尾先輩の怒った声や表情、逆に悲しげなそれを初めて目にしたが、最初から演技をしているという前提、そして先入観――――もちろん、それは今は事実なのだが―――があったから、そこまで心を揺さぶられはしなかった。
言ってしまえば、あの日、藍沢さんと文化会館で観た劇と大差なかった。
だから、怖くなった。
私もそうなんだって。
冷静になった。なってしまった。
私はまずはこの日のために一所懸命に稽古をしてきたものの、こうした場で見せる演技というのは特別なものではなく「普通」に収まってしまうのだと、そのことを突きつけられた。
だって、七尾先輩でこれなんだから、私が卓越した表現力を誇示できるなんてありえない。
驕りがあったのだろうか。藍沢さんに期待されたから? あるいは演劇部の一員となり、他の部がやっていないこと、演技の練習を毎日して、鏡の中に知らない自分を作って、それから……。
「篠宮さん」
「えっ?」
「あなたの番ですよ」
そう言われて自分がさっきの藍沢さんの声に何も反応していなかったのに気づいた。足が踏み出せずにいた。怖気づく。ここにきて。七尾先輩の演技に奇妙な形で圧倒されてしまっていた。
あ、やばい。自分の顔がこわばるのがありありとわかる。
「えいっ」
「なっ!?」
自然な素振りで、あたかもどうかしたんですかと寄り添いでもするように、近づいてきた藍沢さんが私の背後に回って、膝をカクンっとしてきた。あわや転倒しそうになる。
「なにしてんのよ!」
「それはこっちの台詞です。――――みなさん、五分ください。わたしと藍沢さんに」
藍沢さんが私の手を引く。そのまま部室から出ようとする。
「ダメだよ、花恋。フェアじゃない」
出入り口のドアの前に立ちはだかる桜庭会長。
まるでドラマのワンシーンみたいだ。当事者なのにそんな浮遊感があった。
「本番では何かあっても、観客は待ってくれないよ。ちがう? ボクの言っていること間違っているかな」
「ええ、間違っています。ここにいるのは観客ではありませんから。本番でもない」
「だからって逃げるのはどうなんだい?」
「逃げません。お化粧直しみたいなものですよ」
私を引くその小さな手が、私の汗ばんだ手を握るその力が強まる。ぎゅっと。逃がしてくれない。
なんでかな、その手が私の恐怖を拭う。彼女の体温に安心する。
逃げたくない。私も強く手を握り返した。
「篠宮。君はされるがままになっているけれど、それが一番問題だってボクは思う」
桜庭会長が鼻付近をクイッとする。今日も眼鏡はかけていなかった。
「そうですね」
「篠宮さん?」
藍沢さんの手を引っ張る。今にも私を連れ出そうとしていた彼女を軽く抱き寄せる。
「えっ!? あ、あのっ! な、なにやっているんですか! みんな見ていますよ?!」
「アニマルセラピー」
「へ?」
「あんたに間抜け面は似合わないわね。そして私にも」
「し、篠宮さん? いきなり抱き寄せておいて、犬猫扱いですか!?」
「ありがと。おかげで、演じられるわ」
「あっ…………どうせなら、もう少し」
ダメよと言う代わりに、さっさと彼女を離した。それから木下部長から照井さんまで、そしてぽかんとしている桜庭会長含めて全員の顔を見る。
「すみません、取り乱しました。――――次、篠宮夕夏、演じます」
「一分でよかったねぇ」
宮尾先輩が微笑む。キャシー先輩も楽しげだ。照井さんはなぜか口許を両手にあて顔を紅潮させているが気にしない。福田先輩なんて依然として我関せずの表情である。木下部長は露骨に動揺しているし。
七尾先輩は私をまっすぐ見据えてくる。キャシー先輩に比べたら、きつくない眼差しだ。そのまま見つめ返す。
そうして私は演技を始める。
流れとしては七尾先輩と同じ。まずは冒頭、モノローグ。
「『白、白、白。視界に入る色はそれだけ。染まる世界。体と心を凍らせる白』――――」
求められた一連の演技が終わると、全身から汗が噴き出すのがわかった。ライトを浴びてなんていないのに。他の人の声もなく、知らない人の目もないのに。それでも演技を終えて、緊張が後からやってきて私を包み、確かな熱を与えた。
拍手はなかった。
「それでは、篠宮さんがハルということで」
藍沢さんが淡々とそう言うだけ。
私にはわかるんだからね。その表情、微笑みを隠している。
「海美、今回は相手が悪かったみたいだね」
藍沢さんの次に口を開いたのは、桜庭会長だった。その内容は予想外。
ごく自然に部屋の隅から七尾先輩の傍にまで移動している。椅子に腰かける先輩の髪を、撫でる会長。傍から見ると絵になる取り合わせだった。
「そうみたい」
七尾先輩はしれっとそう返した。他の部員も異論はない様子だった。
そうして私はハルの役を得たのだった。正式に。
「それじゃ、次は雪乙女ユキ役だな。立候補者は?」
木下部長の言葉に「はい」とすぐに挙手してみせたのは、キャシー先輩だった。
それに続けて「は、はい」とそろりそろりと手を挙げる照井さん。
「私もです」
ついさっきとまったく同じトーン、テンションでそう主張したのは、七尾先輩だった。
「ええっ!?」
「なに驚いているのよ、照井」
「だ、だって! なんでキャシー先輩はそんなに落ち着いているんですか!?」
「ねぇ、それってあたしとの一騎打ちだったら勝てる自信があったけれど、七尾が加わると自信ないってこと?」
「ち、ちちちっ、ちがいますよー!」
あんまり照井さんに先輩風を吹かさないでいただきたい。
私は藍沢さんを見やる。七尾先輩がユキ役でも立候補するのを知っていたかどうかと目で訊ねる。
しかし、通じなかったようで、彼女は今度こそ微笑んだ。私が役を勝ち得たのを称え、嬉しく思うその笑みに私はしてやられてしまい、思わず目を逸らす。
ほんと、油断ならないんだから。
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