早起きは三文の徳?

 オーデションの朝を迎えた。よく晴れている。梅雨の晴れ間。

 

 いつもより一時間も早くに目が覚めた私は、四十分近く早く学校にたどり着いてしまった。乗る電車を二本前倒しした結果。

 自室でのストレッチであったり、鏡を使っての表情の練習であったりを軽くしてみたところで、落ち着かなかったのだ。つまり当日になって、ひどく緊張してしまっていた。数日前の学期末テストのときの何倍も。あの日、キャシー先輩とコーヒーショップでお茶して以来、人前で演じる際の緊張をほぐす画期的なトレーニングというのは行われなかった。先輩の言うとおり、むしろ肩の力を抜くことから始めないといけなかった。

 ちなみに昨夜は昨夜で、普段より丁寧に授業の予習・復習をしてしまった。すぐに寝付けなかったものだから。


 電車には、朝練のある運動部の人たちが多く乗っていた。無論、私の通う高校とは別の生徒もたくさんだ。運よく座ることができた私は文庫本を取り出して文字を目で追うも、どうにも頭に入ってこない。自意識過剰なのか、視線を感じもする。普段見かけないやつだからなのだろうか。私は私で隙をうかがって、車内にいる子たちの顔を見やりもする。入学して三か月余り。自分のクラスの子に限れば、男女ともに顔と名前が一致するかもしれない。実際に話したことがある生徒はぎりぎり片手では数えきれなくもなった。……知っている人、電車に誰もいないな。

 

 そういえば先日、照井さんと一緒にいる姿を目撃されたせいなのか、私のクラスの合唱部の子から声をかけられたこともあった。なぜだか、彼女は警戒していたというか、ぎこちない話しぶりであった。もしかせずとも愛想悪くしてしまった私に原因があるのだろう。藍沢さんは「迂闊にクラスメイト相手に、笑顔の練習しないでくださいよ。篠宮さんに笑いかけられたら、すぐに落ちちゃう子ばかりですから」などと、ぬかしていたが別にそういう練習をするつもりは毛頭ない。あの子の私への過度な評価はそろそろやめてもらいたい。


 教室に行くと誰もいなかった。

 テスト明けで朝練が再開された運動部の人たちはさっさと荷物を置いて出ていったようだ。駅から学校までの道のりにしても、歩調が私よりずっと早かった。きびきびしている。聞こえてくる声はそうでもなかったけれど。

 またいつかの雨の日みたいに窓辺でぼんやりするのも、うん、もったいないよね。

 私は念のために貴重品を身につけてから、西棟の部室へと向かった。不用心なことに戸締りがされていない部屋だから、この時間帯でも入れるのは知っている。

 少し声を出しておきたかった。

 半月前の私が聞いたら驚くだろうな。声を出して心を平静にしようとしているなんて。沈黙こそが安らぎであるはずなのに。

 あの子がいたら、と私は教室を出る前に藍沢さんの席をちらりと見やった。当然、そこには登校している気配はない。話し相手にはなったのかなって。




 先客がいるとは予想外であった。

 もてなすべき客ではなく、かといってその部屋の主とも言い難く、とにかくそこには私と同じ演劇部に所属していながら、まだ直接、会話をしたことのない人がいた。

 

「鳴かと思った」


 七尾先輩は私を見てそう言った。

 足音が聞こえたのか、私の到来そのものに動揺はまるでしていない。直前まで立って声を出していたのか、腰掛けていた様子はなく、椅子が部屋の隅に置かれたまま。

 今日はおさげを編み込んでいる。三つ編み。顔立ちからして、幼い印象は受けない。むしろそれは一つの主義、彼女なりの信条を体現しているふうだった。

 

 遅れて私たちは挨拶を交わすと、七尾先輩が「朝練?」と訊いてきた。


「えっと、そういうわけでは。偶然、早くに目が覚めてしまい、それで早く着いて、なので」

「そうなんだ。いつもこの時間帯から秘密特訓していたのではないのね」

「え、ええ。そういう先輩は……?」

「同じ。早く起きたからなんとなく。置いてきちゃった鳴には後で何か言われるかもだけれど」

「桜庭会長とは一緒に登校しているんですか?」

「そう。それで一部の生徒の注目を受けもしている。王子様と姫様って。どう?」

「どうって……」


 そういうの自分から振ってくる人だとは思っていなかった。

 私は七尾先輩のことを台本共有の日のときしか知らない。七尾先輩はこの一週間、部室に来なかった。クラスメイトであるキャシー先輩曰く「最初は行く予定だった、とか話していたけど、たぶん嘘ね。はじめからあの会長とふたりで乳繰り合いながら練習するつもりだったのよ」ということらしい。事実なら、むしろ彼女がしていたのが秘密特訓だ。


「お似合いだと思う?」

「えっ」

「鳴と私」

 

 まさかの追求に、私は「ええ、まあ」と曖昧に返事をする。だって、会長にしたってこの一週間は全然顔を見ていないのだ。七尾先輩と桜庭会長を頭の中で横に並べてみて、それでお似合いかどうかなんて、うーん……よくわからない。


「鳴はね、どういうわけか、花恋ちゃんを一目で気に入ったの」

「はい?」

「同じ中学校にいたでもなく、小学校も違う、幼い頃に会ったこともない。それなのに、四月に花恋ちゃんと少し話す機会があって、それで気に入ったのよ。どうしてかしら」

「さ、さぁ」

「波長が合うんでしょうね。ほら、鳴も花恋ちゃんもずれているから。個性が強い。まるで小説の中の登場人物みたい。ねぇ、そういうのって大学や、社会人になったら損なわれ、喪われちゃうのかな。それって残酷じゃない? どう思う?」


 また訊かれる。私の答えを必要としていないふうなのに、それでも私が返事をよこすまではじっと見つめて待っている。そうなると、また私は「そうかもしれませんね」と、無難な言葉を口にするしかなくなった。


「ちょっと妬ける。篠宮さんも、そうじゃないの?」

「妬ける?」

「ジェラシーってこと」


 嫉妬や、やきもちだという意味なのはわかっている。ただ、七尾先輩があたかもジェラートと言い間違えたかのように、甘く香しい雰囲気でだったから、私は反応に窮した。大抵の場合――――たとえば藍沢さんが私がかつていたソフトテニス部の話をしたときもそうであったが――――嫉妬というのはマイナスの意味を持ち、仄暗い語であるというのに、そのときの七尾先輩から発せられたその語は、恍惚とした美しい何かを撫でるような心地があったのだ。


「何にですか」

「鳴はね、ひょっとすると篠宮さんも気に入るのかも」

「え?」


 受け答えがちぐはぐだった。


「だとしたら妬けちゃうな」


 そう呟いた先輩が私に近づいた。軽く、蝶が止まるかのように彼女は右手で私の左頬にそっと触れた。背丈は私と変わらないのに、なぜか大きく感じた。先輩としての圧、とでも言えばいいのか。


「綺麗。……妬けるわね」


 三度目のそれは私の瞳の奥を覗いて発された。

 私は一歩退いて、彼女の手から逃れた。しかしその目からは逃れられないでいる。


「いい舞台にしましょう。鳴もそれを望んでいる」


 七尾先輩は微笑み、手を差し出してきた。

 その微笑みは藍沢さんのそれとは異なる意味合いで、私の心をかき乱さんとする。

 

「よ、よろしくお願いします」


 私はその手をとった。握り合う。


「それじゃ、放課後」


 そうして立ち去った七尾先輩と残された私。心を穏やかにするつもりでやってきたのに、思わぬ遭遇と不可解な会話で戸惑う。

 

 その後、十五分ほど控え目に発声練習と台詞の確認をしてから私は教室に戻るのだった。


 放課後、私と藍沢さんは部室へと向かっていた。

 照井さんのクラスは先に終礼を済ませていて、一足先に部室へと行ったようだ。そうさせる程度に、終礼が長引いた。どうも間が悪い。くどくどと担任教師が説教垂れていたが、私には無関係の事柄だった。クラスとしての一体感や連帯感というのは薄い。それとも単に私に欠けているだけ? 耳にした話では、文化祭実行委員というのが明日か明後日にもでも決められて、生徒会執行部とともに夏休みの間も、他の生徒よりも多めに準備に勤しまないといけないのだとか。

 帰宅部であったのなら、押し付けられる可能性があったものの、今の私は演劇部なのだから堂々と断れる。他薦なんてされてたまるかである。

 ……こういう非協力態度を客観的に見ることができるのは、家に帰ってからで、いくらか後悔したりしなかったりである。


「わたしなりに考えてみました」


 西棟への渡り廊下を進んだところで、藍沢さんが言いだす。


「何を?」

「おまじないです」

「おまじない? 何のためのよ。天気だったら、今日は晴れているじゃない」

「篠宮さんって時々、天然ですよね。そんなの篠宮さんのオーディションのために決まっているじゃないですか」

「実力勝負でしょ」


 そう強がってみてから、ぎゅっと拳を握った。わかっている。殴り合うのではない。

 ほんの一カ月前まで声の出し方すら知らなかった私が、演劇部の先輩に挑もうとしている。主役の座をかけて。これが強豪演劇部を題材にした物語であったのなら、先輩陣営と後輩陣営のそれぞれの思惑であったり、知られざる過去であったり、土壇場で覚醒する超常的な能力であったり、とにかくスペクタクルな展開があるんだろうな。


「篠宮さん、握りしめるのは拳ではなく、こっちにしてくださいませんか」

「うん?」


 藍沢さんが歩みを止めてスッと手を出す。今朝、七尾先輩に差し出された手を比べると、なんと小さく、頼りなさげで、でも安心してしまう。


「あの、わりと恥ずかしいので嫌なら嫌と早く言ってください。」


 円陣。二人だけだと円にならないけれど。でも、そうか。たしかに決戦前に手を重ねるというのは、別段、珍妙な儀式ではないのだ。そう自分を納得させると彼女の手をとった。

 すると、彼女は私の意に反して、私の手を両手で包み、祈るような仕草をした。

 いや、祈りではなくおまじない。その違いを気にしはしない。

 大切なのは、この子が私を想っていることだ。


「……これはこれで、恥ずかしいわよ」

「お互い様です。篠宮さん、もしも、もし万一、あなたが認められなかったら、そのときは駆け落ちしましょうね」

「冗談でも笑えないわね。信じてくれているんじゃなかったの?」

「そうですね。失言でした」

「ほら、行くわよ。誰かに見せつけていいものじゃないわ」

「もう少しだけ。お願いします」


 なんでそんなに大切そうに握るのよ。やめてよ、そんなの、朴念仁のあんたらしくないし、私らしくなくなっちゃうでしょ。


 そして私は自分からしておいて頬を赤く染める彼女を連れて、部室へと向かった。廊下に鏡がなくてよかった、なんて思いもした。

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