芸名はキャシーではない

 八歳の春から十一歳の夏までの三年余りを、キャシー先輩は子役として過ごした。


 いわゆる「天才子役」と世間から持て囃されるまでには至らずとも、ローカルな人気は獲得していた。先輩はそれ以上どれだけ売れていたかについては話さなかった。ローカルな人気と言われても私がピンときていないのはお見通しだったと思う。結局のところ、過去の話だった。どうにもならない。


「おおよそイメージどおりよ」


 フラペチーノを啜って笑うキャシー先輩の目は笑っていない。


「イメージどおり?」

「子役の。子を売り込むのに熱心な母親と役を演じ続ける子。ようは、スパルタ。体を休める時間はあっても心は全然休まらなかったわ。ああ、体を休める時間があるってのはね、つまりスケジュールがそこまで過密でない時期もあったってこと。いい? それが意味していたのは、子役としてのあたしがまだまだ世間に求められていない、油断したらあっという間に舞台が遠のく、もっともっとレッスンを増やして、もがいて、媚びを売らなきゃいけないってこと。心が磨り減り続ける時間」


 先輩が「なんてね」とわざとらしく肩を竦める。


「そういうの、普通だと思っていた。それが正しいとしか思わなかった。

 学校にいる話したこともない連中よりもずっと世界の多くを知っている気がしていたのに、後になって気づけば狭い世界に、広くて大きく作られた、そう見える檻に閉じ込められていただけ。って、こんなポエミーに言って悲劇のヒロインぶりたいんじゃないのよ」


 悲劇のヒロイン。

『雪乙女』が悲劇ならば、私はまさにそのヒロインになろうとしている?

 あの結末をして、喜劇ではなくとも悲劇と捉えるのはどうなんだろう。助からない雪乙女。最期を笑顔で送り届けるハル。

 先輩はどう思っているのかな。そして藍沢さんは。


「嫌なことばかりじゃなかったわ。役を勝ち取り、何もかもがうまくいったときもあった。単純だけれど、母親に褒められるのもモチベーションの一つだった。勘違いしないでよ。それがすべてだったんじゃないの。もしも、母親の期待に応えるのがすべてだったら、あたし、もう少しあそこにいて、それで皮と骨になったところで、それでもスポットライトを求めるんだったら、汚いおっさんの欲望でも満たす人形になっていたかも。なんて、これも言いすぎね」


 先輩は今度は形だけでも笑わなかった。

 私はシトラスティーを飲むタイミングを見失う。


「幕切れはあっけなかった。あたしじゃなくて母親が諦めちゃった。

 あたしが一番になれないことに気がついたんだ、やっとね。

 幸せなことに、そう、これは本当に幸せなんだって信じているんだけれど、父と母と私の三人の家族は繋ぎ止められた。抜け殻みたいになった母と、それから無惨な私は年月をかけ、住む土地も変え、吸って吐く空気を入れ替えてみて、それでなんとか今はどこにでもある家庭として成立しているわ」


 先輩は哀しそうな笑みを一瞬見せると、それを引っ込めた。そして「さて」と咳払いをする。


「オーディションの話ね。最初のプロダクションに所属するためのものとは違うやつ。何回もあったわ。それを抜きにして、プロダクションがコネで押し込めるような逸材ではなかったからね。オーディションで選んでもらって、成果を出す。それを積み重ねるほかなかったもの。

 篠宮って、どんなに規模が小さくてもいい、何かオーディションらしい選考って受けたことある?」


 私は自分の記憶を辿る。オーディション。ない。まったく。


「えっと……強いて挙げれば、小学校中学年のときの学校祭のための劇があったのですが、そのとき形だけの選考はあった気がします。セリフって主役の子を除くとほとんど一言、登場も少しの時間でした。その学年の子、みんなが出演しないといけなかったから。そういう舞台でしたから」

「篠宮はそのとき主役をやりたいって思わなかった子?」

 

 私は肯く。つまり大多数の子。

 当時からして友達は少なかったが、皆に訊いて回らずとも彼らの表情から、べつに主人公を演じたいと思っていないのはわかった。目立つことが悪い、みたいな同調圧力があったのか、単に主人公に相応しい子が他にいて、自分たちはそうでないと思っていたのか。両方だが後者が強いのだろう、物心がつけば自分自身を中心に世界が回っていないのを人は知るものだ。自分よりずっときらきらした人がいるのも。

 

 それでも主人公を演じたいと名乗りを上げた子は何人かいた。

 当時の私はどうとも思っていなかったが、今では素直に感心してしまう。


「篠宮は、いかにも自己アピールって苦手そうよね」

「そうですね」

「自分とは何かって、難しいものよ。……こう言うと、ほとんど誰もがそうだそうだと肯くか、ああそういう話ねって微妙な表情をする。流行りの曲、歌詞を追っていけば色恋以外だと、自己理解や他者理解ってのも素材として多いわよね。むしろそういうのが恋愛にも繋がるのかしらね。あの人のことを知りたい、自分を知ってもらいたい、わかってもらいたい、みたいな」


 抜けきっていないのだろう。

 本人に自覚があるのかまで追究しないが、会話を続ければ続けるほど、キャシー先輩の身振り手振りというのはどこか「演技」っぽくなっていった。ある意味で、こうしてリラックスした状態で話をしているからなのかもしれない。子役を止め、どこにでもいる高校生としてここにいる先輩は、どこにでもいる高校生らしい人生観と哲学を語る。

 決して私は先輩を貶めるつもりはない。その気があるなら、彼女に直接言っている。 一般論をべらべら話してみたってしかたがないじゃないですかと。


 なんでかな。少し、苛立っている。私。

 私はやっとシトラスティーをもう一口飲んで思う。

 たぶん痛かったんだ。はっきりと、自己アピールが苦手だと言われて。それをそのまま「そうですね」って冷ややかに返してしまう自分が嫌だったんだ。

 付け加えるなら、先輩が話してくれた過去に、何か気の利いたことが言えない自分が。「先輩が子役をやめていなかったら、こうして会えなかったのだと思うと寂しいですね」ぐらい口にしてもよかったのだ。藍沢さんだったら、そうする。


「今回のオーディションは篠宮にとって、殻を破るいいチャンスなのかもね」

「え?」

「なんで驚くのよ。そのとおりだって思わない? 肩の力を抜きなさい。今日の練習のときから、いいえ、きっとあの日以来、肩に力が入りっぱなしなのよ、あんた」

「そう、でしょうか」

「宮尾だって気づいていたわよ。でもあいつは、照井のフォローに回っていたわね。まぁ、気持ちはわかる。それにあんたにはあいつがついているんだから」

「あいつ?」

「藍沢よ。誰よりもあんたを信じている子。ああ、理由なんて訊かないわよ。あんたたち二人の秘密のあれこれなんて詮索したくないって」


 そんなものない。……ないよね? 

 キャシー先輩はフラペチーノを飲んでいく。美味しそうに。演技ではなく、樫井玲子の等身大として。偽りない彼女。


「でも藍沢だと不安もあったから、こうしてあたしがわざわざ世話焼いているのよ。感謝しなさい」

「ありがとうございます」


 苛立ちがスッと消える。上から目線の物言いを受けたのに、それでも先輩が私を心配してくれたのを理解したから。

「先輩」にこんなふうに気を遣ってもらうなんて初めてだ。中学生の時のソフトテニス部では、私と例のあの子とのごたごたがあった時には既に私は最上級生で、頼りになりそうな先輩はいなくなっていた。後輩連中は、私が彼女たちを一切可愛がらなかったせいなのだろう、まったく私を案じなかった。非難するつもりはない。自業自得だ。宮尾先輩は優しく見守ってくれ、キャシー先輩は時に強すぎる目力で激励してくれる。幸せだな、そう思った。


「ぼんやりしないでよ」

「は、はい」

「じゃあ、改めて。現状、あたしからできるアドバイスは二つ。心して聞きなさい」

「……よろしくお願いします」

「まず、何よりも表情」


 痛い。今度は苛立ちがないが、しかし痛い。正論が耳を打つ。


「ですよね」

「わかっているわよね、そりゃ。藍沢ほどじゃないけれど、今日のあれじゃダメ。ラストシーンはおろか、雪乙女のユキと出くわしたときの怒りってのがまるで伝わってこない。憎悪であり、殺意でしょ、あそこでハルがユキに抱くのは。映画やドラマと違って、遠くの観客からじゃ見えないからいいってものじゃないのよ」

「そ、そうは思っていないです」


 ちょっとだけ。すこーしだけ考えたけれど。でも、それはだからこそ表情はくっきりとつけてしまったほうがいいのだろうって、前向きにだ。


「もちろん、顔だけじゃなくて体全体、動き込みでの表情ね。そういう意味では、表現力って言うのが適当かしらね。でも、それって抽象でしょ。だから、あたしとしてはまずあんたには、鏡の前で徹底的に練習するのを勧める。強く推奨する。昔、あたしは狂っちゃうぐらいにやらされたわ。そうね、あの部室に足りないのは更衣スペース用のパーテーションだけじゃない、鏡よ、鏡」


 私はキャシー先輩の言葉尻に、白雪姫に出てくる王妃を連想した。世界で一番美しいのは誰かと鏡に問うあれだ。


「どこからか借りてこられるか真壁先生に頼もうかな。あるいは倉庫に眠っているかは探してみないといけないわね。当分は手鏡での練習。いいわね?」

「……はい」


 鏡の前で一日五分、なんていう手軽さはなさそうだ。

 

「二つ目は、緊張感」

「緊張感?」

「不安なのよ。部室だと演者としての緊張を感じさせずに演じているだけに、舞台本番になって、ガチガチになるのが。これまで、人前で何か発表した経験ってある?」

「いえ……小学生のときに習っていたピアノの発表会ぐらいしか。あれは、聞いている人たちの顔をほとんど見ずに済みましたし、演奏を始めたら視線だって気にならなくなりましたが」

「そう。今回の舞台だって、観客に目線を向けなくても成り立つわよ。台本読む限り、直接的に観客に訴えかけるように振る舞うシーンってなかったわよね」

「ええ。モノローグ部分も、客席部分を向かずに演じるようですから」

「本番までに、どうにか人を集めて、篠宮を見てもらう機会を設けるのがいいかもね」


 公開処刑。その四文字が頭に浮かび、打ち消した。


「あの、念のため言っておきますけど、野外でゲリラ演技なんてしませんよね?」

「そういう荒療治をしないためにも、あんたなりに考えておきなさい」

「はい」


 


 キャシー先輩と私がそれぞれのドリンクを飲み干すのはほぼ同時だった。

「帰るわよ」と立ち上がる彼女に礼を言うと「ある意味であたしのパートナー候補なんだから当然よ」とニヤリとした。そうか、先輩がユキで私がハルなら、そうなるのか。


「そういえば、七尾先輩ってどんな人なんですか?」


 ふと気になったことをキャシー先輩に訊ねる。

 私が役を競う相手。桜庭会長の従妹。


「あの子は――――クラスでは、姫って呼ばれている」


 先輩は露骨に面白くないって顔をした。

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