フックばかりじゃいられない
配役オーディションは一週間後となった。
テスト期間と重なっているが「一夜漬けなんてせずに、こつこつ勉強さえしていれば、むしろいつもより多く自由時間があるじゃないか。午前中で終わるのだからね」と桜庭会長が言い、木下部長が了承した。理には適っている。演劇部のみしか入っていない私はたしかに授業時間が減るから、稽古に時間を当てられる。
それに早く役を決定してしまうに越したことはない。夏休み直前まで、役が定まらないままの状態はまずい。今現在、夏休み中の演劇部の活動日程は曖昧だ。
木下部長にとっては受験生の夏であり、彼は進学志望組だから勉学に励みたい意志もある。それでも部長として定期的に顔を出し、文化祭で公演する段取りを真壁先生や生徒会執行部たちを打ち合わせするのを担ってくれると約束してくれた。
ちなみに藍沢さん曰く、部長は「演技は普通にできる人」とのこと。
その普通というのが、たとえば前に文化会館で観たあの子たちのレベルより上か下なのかまでは聞かなかった。
テスト一日目が終了して、隣のクラスに照井さんを呼びに行き、私たちの教室でお弁当を食べた。照井さんは早起きして、お母さんといっしょに弁当を作っているのだという。藍沢さんの菓子パン・総菜パンメドレーランチには難色を示していた。「そうだ、藍沢さんの分まで、お弁当作って……でも篠宮さんに悪いし……」とぶつぶつ言っていたのは聞かなかったことにした。
それから部室へと向かった一年生小中大トリオを迎えてくれたのは、キャシー先輩だった。宮尾先輩はまだ来ていないみたい。キャシー先輩と同じクラスであるはずの七尾先輩は今日は生徒会活動があり、そちらを優先するとグループチャット上で前もって知っている。テスト日の生徒会活動ってなんだろう。いくらでも雑用があるのかな。それはそうと桜庭会長って日頃の演劇部の活動にはついてこないよね?
「篠宮、今日はいっしょに帰るわよ」
キャシー先輩は部室に入ってきた私を見るなりそう言った。
「それってどういう……?」
「藍沢、そんな顔をするな」
訊いた私ではなく藍沢さんを牽制する。
でも、藍沢さんの表情は無に等しい。仏頂面に見えなくもないかな。
「二人で話す時間が欲しいのよ。オーディションに向けて、先輩としてのアドバイスとか、その他諸々、ね」
「は、はぁ」
今ここで話してくれたらダメなのだろうか。案の定、藍沢さんが口を挟む。
「ふたりきりである必要ありますか? わたしを納得させてください」
「あ、藍沢さん……え、えっと」
おろおろする照井さんだったが、当事者である私が同様では困る。
「いいですよ、私は。先輩がそのほうが話しやすいのなら、べつに何かされるってことはないと思いますし。ですよね?」
「当然よ。あたしが後輩いびりするように見えるわけ?」
「少なくともわたしは可愛がられた覚えありません」
すぐにそんな減らず口を挟んでくる藍沢さんだった。
「うっさいわね。あたしが後輩を可愛がるように見えるわけ?」
「あ、あの、でもキャシー先輩はけっこう優しく教えてくれました、声の出し方や姿勢……」
「照井! その気持ちがあるならキャシー先輩じゃなくて、樫井先輩とでも呼びなさいよ!」
「ええっ!? わ、私だけがそれだと浮いちゃいますよ!」
「話が逸れましたが、他ならない篠宮さんが同意しているのであれば、わたしはこれ以上何も言いません。篠宮さん、いざとなったら右ストレートですよ。こう、左のジャブをフェイントにつかって」
「それどんな状況よ」
とりあえず、私とキャシー先輩はその日二人で帰ることに話が落ち着く。
体操服に着替え、るるストレッチから始めることになった。照井さんが、木下部長や福田先輩が部室に来ることを考えたら、目隠しになる更衣スペースを設ける必要があるのではないかと皆に説くと、後日、どこからかパーテーションでも持って来るわよと応じるキャシー先輩だった。「トイレで着替えて来ればいいでしょ」だったり「サッと着替えればいいでしょ」と言わないあたり、やはり優しい先輩だった。
途中で宮尾先輩が合流し、稽古が終わった。
宮尾先輩はハルの姉役であるナツを目指し、キャシー先輩と照井さんは雪乙女役であるユキ。そして私はハルだ。藍沢さんは端からオーディションを受ける気はない。
意外と言ってしまうと失礼だが、照井さんは腹を決めたのか、やる気に満ち溢れていた。会長に提案されたアキ役よりも、彼女自身がユキでオーデションに挑戦したいと言い出した。
キャシー先輩の演技を目にしてその意志が痛ましいほどに削がれてしまったのも見て取れたが、しかしまだ諦めていない様子であるのも事実だった。
ところでそのオーディションは、ハルについては台詞量が多いことを理由に一部の場面、特に感情がプラスとマイナスに振り切るパートを演じてもらう、というのが会長の案だった。
しかしそれに異議を唱えたのが藍沢さん。
言いがかりをつけたわけではない。「台本を担当したわたしとしては」と彼女はまず主張して、オーディション方法を再提案した。
なるべくほとんどの場面を演じてもらうというもの。
藍沢さんはハルが持つキャラの特性をして、感情が正負のどちらかに振り切れる部分のみでの勝負は不適切だと示した。フラットな面を演じてみて、それと感情の大きく揺さぶられている様とを比較してみないことには、ハルは任せられないと。
笑顔や泣き顔よりも自然体のハルを演じることが難しいと感じるかもしれない、しかし必要であるシーンはいくつもあるのだと。
藍沢さんの再提案には会長も「それもそうだね」と素直に肯いていた。
オーディション時点で完璧な演技を仕上げてこれるとは思っていない、そう口にしたのは木下部長だった。気のせいではなく、私を見て言った。
部員による多数決を原則をするが、役に対する想いも考慮するよと言い足すのだった。それを受けてなのか「茶番にならないことを祈るよ」と捨て台詞を残して、七尾先輩と共に一足先に部室を出ていった桜庭会長はまだ記憶に新しい。
あの自信とプライドに溢れた振る舞い。一周回って憧れる。
そんなふうに台本お披露目&オーディション開催の決定した日を思い出していると「なに、ぼんやりしているのよ」と隣を歩くキャシー先輩に言われてしまった。
二人で学校を出て、駅前まで到着したところだ。「あそこ、寄るわよ」と彼女が示したのは世界的に有名なコーヒーチェーン店。「奢らないからね」とわざわざ言う。私だって、ねだるつもりはない。
「あー……うん、そうね。えっと、篠宮?」
オーダーした商品を受け取って、店内の奥の方に空いていた席に向かい合って座った。キャシー先輩にしては歯切れが悪い。
ここに来るまでもほとんど無言だったけれど。
「なんですか」
「悪く思っていないから、謝る気なんてさらさらなかったけれど、いちおう謝っておくわ。いちおうね。ごめんね、オーディションの件」
「え?」
「あの会長が、七尾のことをハルにぴったりだって言ったとき。あたしがオーディションって話をしないで、たとえば……そうね、あんた自身がハルを演じる意欲ってのをあの場にいた全員にしっかりと伝えて、そもそもそのために演劇部に入ったのだと主張していれば、オーディションを免除ってのもあり得たのかなって。日が経って、その可能性に気づいたの」
「それだと桜庭会長は納得しないのでは」
「あの人の納得ってそんなに重要視される事項ではないでしょ」
「それは、そうかもしれません。ですが……私は言えませんでした」
キャシー先輩が今言ったようなことを。
藍沢さんに期待され、私自身が演じるのだと信じ切っていたそれを。
言葉にしなかった。できずに流れに身を任せてしまった。
「篠宮、本心を聞かせて」
真剣だった。藍沢さんや宮尾先輩、照井さんにはない目力。
「ここには他に誰もいない。あんたはハルを演じたいってどれだけ思っている? 七尾を差し置いて、いいえ、相手が誰であろうと、役を競って勝ち得る覚悟が、そのためにできることはなんでもする度胸ってあるの?」
見つめてくるキャシー先輩を私は見つめ返す。
「先輩が望む答えではないでしょうけれど、いえ、本心を求めているなら、ええ、本心を言います」
「そうして」
「『雪乙女』を誰よりも理解して、誰よりもいい舞台として完成させられるのは藍沢さんだと思うんです」
物語を紡いだのは彼女。消極的な演劇部員を再集結させたのも彼女。私を巻き込んだのも彼女だ。
「その藍沢さんが、主人公役としてはじめから私を選んだ。選んでくれていた。その期待を裏切りたくないんです。やっぱり別の人でもいい、なんて今更言われるのは癪なんです。私にも意地があって、負けん気があって、欲があるんです。まずはあの子を、それからみなさんを、そしてまだ知らない大勢の人たちを打ちのめしてやりたいって。そんな気持ちになっているんです。
それが、私なりの右ストレート。
やっと拳の握り方ってのがわかってきたところなのに、もう構えなくていいから降ろしなさいなんて、嫌なんです」
言い切ってしまうと、すっきりした。
どんな形であれ、言っておいて正解だった。変な喩えを出してしまうあたり、藍沢さんから影響受け過ぎかもしれない。とにかく本心だった。負けないでと言われなくたって、負けるつもりはない。誰より自分に。
キャシー先輩が笑う。「そっか、そっか」と
「あたしは、はじめは篠宮を藍沢に連れてこられただけのお人好しだと思っていたわ」
そういえば初対面のときもそんな話をされたっけ。
「いや、つい最近までは。そう思い続けていた。篠宮はストレッチも発声練習も、他の練習も全部真面目に取り組んでいて、手なんて抜かずにこなしていた。
けどね、こっちが圧倒されるような熱意ってのはそんなに感じなかったわ。クールなのよね。揺るがない決意であったり、目標へとひたすらに向かう情熱だったり、そういうのを感じさせない。それがあんた。だから、結局のところ、あの子に言われたのをきっかけに流されるままに付き合っているだけなのかなって、そんなふうに見ていたの。こっちを謝るべきだったわね」
キャシー先輩がキャラメルフラペチーノのキャラメルのかかったホイップクリームをスプーンで掬って口に入れた。私は遠慮がちに冷たいシトラスティーを啜る。
「でも違ったわ。あの子に唆されているんじゃないのね。
たしかにあたしが想像していたとおり、あんたの一番は演劇ではないし、演劇に対して死ぬほど本気ってでもない。そりゃそうよね、そうだったら最初から演劇部に来ているわよね。でも……『雪乙女』についてはマジ。それが今、わかった。
それで充分よ、だなんて言うつもりはないわ。そんな評価を下せる権利はあたしにない。
ねぇ、篠宮。藍沢からあたしのことって聞いている?」
そう言われても何を指しているのかわからなかった。かぶりを振ってから、もしかしてと藍沢さんとのやりとりを思い出す。
「キャシー先輩が演劇に興味を抱いたのが高校生になるよりも前だというのは聞きました。えっと、詳しくは本人に聞くべきだって藍沢さんが」
「そうね。あいつ、そういうのベラベラ、話はしないのよね。だから、まぁ、憎めない。……大した話じゃないわよ? けど、オーディションのヒントになるかも。聞いてくれる?」
「聞かせてください」
私は姿勢を正す。キャシー先輩が笑う。
でもすぐにまた真剣な面持ちになって、それからわざとらしく咳払いをした。
「あたしさ、元子役なのよ」
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