顔も知らない子の家に行く

 数日後、昼休みに入ったなり、担任教師に呼び出された。


 もしかして水曜日のサボり魔図書委員が判明したのかなと思っていた。私にはそれぐらいしか呼び出しを受ける心当たりがなかった。

 まさか藍沢さんが話していたような、私に関する根も葉もない噂が蔓延しているんじゃないでしょうね。





「ノルウェーにある二つの町が有名ですよね」

「は?」


 担任教師のもとから帰ってきた。昼食をいっしょにとる用意をしながら、藍沢さんに呼び出された事情を話すと、予想だにしない返答があった。


「名前なんでしたっけ……そう、ホニングスヴォーグにハンメルフェスト。

 わっ。覚えていたのが自分でもびっくりです。白夜や極夜ってさほど心そそられないんですけれど、オーロラは観に行ってみたいです。一生で一度は。

 国内だと北海道の北のほうでも観測できるそうですね。でも、せっかくだからカナダだったりスウェーデンだったり、それこそノルウェーだったり。それ相応のお金を貯めないといけないですけれど」

「藍沢さん? 

 何の話をしているのよ。どう聞き間違えたら、いきなり北欧の町が出てくるのよ」

「え? 不凍港って言いましたよね。冬季でも凍らない港。先に挙げた二つの町の港は、暖流の影響で海が一年中凍らないんです。

 でも、ノルウェーと言えばむしろフィヨルドのほうが有名ですね。ご存知ですか? 百万年の氷河が溶けだしたことで山を削り谷を侵し、織り成された入江の魅力」

「ちがう。私が言っているのは、登校して来ない、不登校。社会的問題。そして、ついさっき演劇部の問題ともなった」


 担任教師が私に話してきたのは、隣のクラスの不登校生徒についてだった。

 その子は藍沢さんから前に聞いた、一年生で合唱部と演劇部を兼部している女子生徒。彼女は六月に入ってから登校拒否を続けているのだという。つまり二週間近くだ。現在は保健室登校を提案したみたところで、実現はしていない。

 そのあたりの処置の妥当性や効力を私はよく知らない。出席日数を賄うための方法というのはわかる。

 

「偶然、真壁先生からうちの担任の耳に、私が演劇部に正式に入部した話が入った。そして担任は隣のクラスの担任から、不登校生徒の件を相談されていた。これは偶然ではないわ。その子の部活も聞いていた。合唱部、そして演劇部ってね」

「ふむふむ。それで?」

「どうも先月、合唱部で揉め事があったんだって。それで彼女は来なくなった。早い話、私にその子が健全な学校生活を送ることに協力してほしいって」

「なんと」

「うちの担任ね、これまでは演劇部員というと、クラスで浮いていて、言動に問題ありの小柄で可愛い女の子しか知らなかったみたい。その子ではなく私に白羽の矢を立てやがったというわけ」

「へぇ、キャシー先輩とは面識があったんですね」

「あんたに決まっているでしょ!」

「え…………そ、そんな可愛くて食べちゃいたいだなんて、大胆ですね、篠宮さん」

「いい? ふざけている場合じゃないわよ。いきなり言われても困るだろうから、ってその場は話を聞いただけで終わったけれど、今後、どうしたらいいんだろう」


 私に不登校生徒の支援経験なんてない。

 

 第三者どころか無関係に等しい人間が介入して、どうにかなる問題とは思わない。保護者と担任教師とカウンセラーや支援機関の関係者でもなんでも、そういう彼女に手を差し伸べるべき人間が解決に取り組むべきだ。そして言うまでもなく彼女自身の問題だ。

 ようするに、私を厄介事に巻き込まないでほしかった。クラス内で言うなら、藍沢さんと同等に浮いている存在である私が、顔も知らない不登校女子に何ができるんだ。


「篠宮さん、眉間に皺が寄っていますよ」


 いつもどおりパンを机の上に並べた藍沢さんが言う。暢気なものだ。


「わたしだったら、そんな顔しません」

「でしょうね」


 先生にあてにされなかったこの藍沢さんだったら、頼まれても首を横に振るのだろうか。それとも状況を悪化させる一手を打ってしまうのだろうか。藍沢さんを知る人間が彼女に寄せている、ううん、寄せていない信頼と、私の彼女に対する認識には多少ずれがある。そんな気が最近する。


「勘違いしていませんか」

「なによ?」

「つまりですね、わたしが篠宮さんの立場だったら、そんなの自分と関係ありませんって突っぱねて終わりにするだろうって話です」


 さらりと彼女は言う。メロンパンの袋を開けた。


「よくもそんなひどいことが言えるわね。同じ演劇部でしょ。……私は会ったことないけれど」

「そこです。篠宮さんは、ほんとお人好しです。弱小演劇部というこれまた弱小な繋がり。それだけで頼まれたことに、真摯に向き合って憂いて、何かしようとしている。できないって思いながらも、きっぱり断ってしまう人ではない。気が強そうな態度なくせして押しに弱い。優しいんです」

「悪かったわね」


 藍沢さんが微笑んだ。ドキっとした。いや、していない。断じて。


「逆です。そこがいいんじゃないですか。わたしも手伝いますよ、もちろん。いっしょに天岩戸開きに乗り出しましょう」

「……何か策があるの?」

「ないですよ」


 ずるっと私は右肩を落とした。オーバーリアクションではあったが、私の心情は藍沢さんに的確に伝わった。そのはずだが、そのままの調子で彼女が続ける。


「不登校生徒への特効薬なんてないんです、きっと。ようするに学校に行きたい、行かなきゃって思わせればいいんです。そうですね……たとえば家を爆破してしまう」


 イッツ藍沢ジョーク。笑えないっての。


「藍沢さんって、嫌いな運動会が開催されないためには、大雨が降るのを祈るんじゃなくて、宇宙人が侵略しに来るのを夢想するタイプよね」

「女の子はちょっと夢見がちなほうがいいんです」

「彼女が登校してきたときに、それが保健室や別室であっても、そのとき顔を合わせて話をしてみるのが現実的よね」

「家庭環境に問題がなければ、直接お家に出向きませんか。交通費は経費で落ちますよね」


 落ちないと思う。私たちは仕事として行くのではない。

 ボランティア? それもなんだかなぁ。


「たしかにその子にとって自宅というのが安心できる場所であるのなら、まずはそこで話をしてみるのはいいと思う」

「ただし、聖域化していたら『帰って! 入ってこないで!』って言われるやつですよね。ああ、けれど、ドア越しのやりとりって少し憧れますね。ドラマチックです。舞台に取り入れてみましょうか」

「はぁ……とにかく、藍沢さんも協力してくれるのね。わかった、放課後に先生と話してみる。私ね、こういうのはなるべく早くに行動するのがいいって思うの。時間が解決してくれるだろうと構えていたら、どうしようもない事態になっているときもあるだろうから」

「手土産何にしましょう。定番のメロンですかね。高いから、代わりにレモンでいいでしょうか。それこそ爆弾に見立ててそっと置いて帰るのもいいかもです」

「私見だけれど、不登校は病気や怪我じゃない。だからお見舞いとは違う。どう?」

「もう冗談を言うムードじゃないですね。わかりました、先生への相談、わたしも付き添います。もしも先生に嫌な顔されたらフォローしてくださいね。『藍沢さんは頼りになります。私では入れなくても、彼女だったら入れる隙間があるかもしれませんよ?』って」

「……例の子のご自宅がアスレチックハウスだったら、その時はよろしく」

「喜んで」


 そして、もそもそとメロンパンを食べ始める藍沢さんだった。

 一人より二人のほうが心強い。うん。



 

 先生たちとの打ち合わせの結果、金曜日の放課後に私と藍沢さんでその不登校の合唱部兼演劇部員こと、照井歌織てるいかおりさんの家へとお邪魔することとなった。宮尾先輩たちにも事情を説明してある。大勢で押しかけるわけにもいかないので訪問するのは私たち二人だけだ。

 

 学校から徒歩十五分余りの距離に住まいがあり、照井さんは自転車通学であるらしかった。彼女の母親がその日、家にいてくれるそうで、彼女自身は部屋に籠りきりではないとのこと。

 来訪は母親経由で本人にも事前に知らせる。半ば強硬策を行って、自室に引きこもられでもしたら本末転倒であるから。


 照井さんが私たちの来訪を知って、どんな反応をしたのか、その詳細は聞けていない。照井母曰く、少なくとも藍沢さんのことは名前に聞き覚えがあったが顔が思い出せないそうだ。

 藍沢さんが言うには、体験入部期間に一度軽く話しただけの関係だから無理もないとのことだったが、私からすれば藍沢さんが通常どおり会話を広げたり、捻じ曲げたり、歪めたりしていたのなら、忘れはしないと思う。


「人見知りですから、わたし。その証拠に、今とっても緊張しています。あ、これは放課後に篠宮さんの隣を歩いているからってのもありますが」

「私だって人見知りよ。藍沢さんはともかく、私は一度だって顔を合わせていないのだから。たとえ廊下ですれ違っていても、お互いに忘れているだろうし」

「案外、篠宮さんの隠れファンの可能性も……」

「あってたまるか。えっと、照井さんは趣味がアニメ鑑賞なんだっけ」

「お母様が把握している範囲ではそうみたいですね。四月に会話したとき、演劇部への志望動機はアニメの影響だって言っていました。演劇というより、歌劇やミュージカル……あたりが題材だったと話していたような、なかったような」

「うろ覚えなのね」

「はい。けれど、彼女がいわゆるヅカ系の顔立ちでなかったのは記憶しています」

「そうだったら、そっちで覚えているってだけでしょ」


 小雨の中、予定どおりに照井宅に到着した。

 一週間前の私に向かって、演劇部繋がりで不登校生徒の自宅に赴くことになるって教えたら信じてくれるだろうか。隣には藍沢さんがいるわよ、と付け加えたなら、信じるだろうな。またあの子に振り回されているのねって。

 実際には、今回はもともと私に振られた話で、だから藍沢さんは協力者の協力者ってことだ。

 担任教師は私たちが仲がいいのを不思議そうにしていたけれど……いやいや、仲悪かったら演劇部に入らないっての。上級生との繋がりもないわけであるし。


 でも、と想像してもみる。

 仮に宮尾先輩や樫井先輩、あるいは木下部長やまだ見ぬ福田先輩たちと別の形で出会って、話して、流れで演劇部に誘われて、その後で藍沢さんを紹介されていたら……?

 

 私はこの子と仲良くなれていたのかなって。そんな状況でも彼女から歩み寄ってくれたのなら、きっとなれただろう。どうも私は押しと孤独に弱いのだから。


 照井家の外観は洋風モダンで、四角くシンプルだった。

 出入り口前にだけ軒があり、そこで傘を閉じてインターホンを鳴らす。少ししてドアが開かれる。インターホン越しのやりとりがあると思っていたので、肩透かしを食ってしまう。私たちを招き入れてくれたのが、照井さんの母親だった。

 玄関で簡単に自己紹介を済ませる。藍沢さんもおふざけなしに丁寧だ。

 



「歌織はリビングにいるの。こちらよ。私は同席しないほうがいい?」


 そう訊ねられて困った。が、藍沢さんが「そうですね。まずはわたしたちだけでお話させてください。心配しないでください。とって食いはしませんから」と努めて微笑みを作った。

 一言余計でしょ、と口にする代わりに私は「歌織さんは、シュークリームって好きですか?」と訊いて持ってきた箱を掲げてみせた。担任教師のポケットマネーで買ったものとは言わなかった。無論、とって食うために買ったものだ。


「甘いものはだいたい好きよ」

「それはよかった。えっと……お母様には最初、いてくれると助かります」

「それから『あとは若い人たちで』と任せてくださる展開でいきましょうか」


 お見合いじゃあるまいし、と私が藍沢さんの補足説明に内心ツッコミを入れる一方で、お母様は「ええ、わかったわ」と肯いてくれた。


 いよいよ天照大御神とご対面である。

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