いい感じの参考書は見つからなかった
一時間足らずの公演が終わると、客席からまばらな拍手が舞台上に送られる。カーテンコールはないようだ。観客数はざっと数えて三十余名。このうち主催校と同じ高校と思しき生徒が六から七割。それから親族らしき人が何名か。残りは不明。終わった後に、受付で生徒と親しげに話していた老夫婦は、口ぶりからするにそこの高校の卒業生で、都合が合えばいつも観に来ているようだった。
私は藍沢さんにあれこれ聞きたいことがあった。私から言いたいことも。無論、たった今観終わった演劇について。彼女がどんな印象を抱いたのか知りたくなっていた。私の観劇にはない視点を彼女が持っていると信じていた。観る前にいくつか聞いておけばよかったなと悔やみさえしていた。
そんなわけで、私は少しばかり早足になって文化会館を出ようとしていたのだが、藍沢さんがお手洗いに行きたがった。私一人取り残されても、と思って私も同行する。道中、「劇の話はあとで」と彼女は私に釘を刺した。見透かされた心地がして、表情に出ていたのかなと顔に手をやった。
そうして改めて二人で外に出ようとしたそのとき、「藍沢さん」と後方から声がかかった。男の人の声だ。初めに振り返ったのは私だった。それから隣にいる藍沢さんがゆっくりと振り返り、声の主を探した。いや、探すまでもなく彼は私たちのもとへ大股で歩いてきていた。
「ああ、やっぱり。藍沢さんだ。観に来てくれたんだな。先輩に誘われ……ってことはないか」
「藤村くん、久しぶりですね」
「藤川だよ。会ったのは卒業式以来で、話したのは半年ぶりぐらいか。そちらは?」
「心の友の篠宮さんです」
余計な修飾部があったが、ひとまず私は藤村、ではなく藤川くんに会釈する。同学年なようだ。先の舞台には少なくとも役者としての出番はなかった。演劇部っていうより剣道部や陸上部ってふうな容貌だ。あくまで直感だけれど。……見るからに演劇部ってわかる人には会ったことはない。
「あの藍沢さんに心の友? 弱みでも握られているんですか?」
彼が目を丸くしていたので、苦笑しておいた。そして私が何か言う前に、藍沢さんが口を挟む。
「篠宮さんへの質問は禁止です。寿司でも握っていてください。へい、らっしゃい。てやんでぇ。わたしたちは急ぐので。では」
唐突な江戸っ子だった。演じる気のない淡々とした口調が、かえってギャグとしては成立している。面白いかと言われたら面白くはない。
「ちょっと待てよ。一つだけ。こっちが本題。……藍沢さん、演劇部なのか?」
「そうです。大会への出場予定はありませんが」
「本気で演劇に関わっていたやつが、遊びの演劇部に入っているのか?」
率直な意見として出てきた言葉らしかった。意地悪なトーンではなく。それでも、遊びと表現されるのは面白くない。藍沢さんのギャグより面白くない。
「いいですか、藤山くん」
「藤川だ」
「わたしは高校演劇や学生演劇を侮辱するつもりは毛頭ありませんが、プロの劇団に入るなり、俳優として事務所のオーディションを受けるなりして、選ばれた人間たちだけで作り上げていく世界に入る、何が何でも入って夢を掴むのが本気の道でしょう。人生を賭ける、それが本気。そういう意味で、わたしは一度だって本気で演劇に関われていなかった。あなたはどうですか?」
すらすらと。もしかしてこれは口論の兆しか?それは御免だ。私は二人を交互に見やったが、どうも既に私は意識にない。はぁ、そうですか。
「すり替えるなよ。その手には乗らないからな。俺が言いたいのは……今の藍沢さんからはあの頃みたいなギラギラとしたオーラが感じられないって話」
「なんですか、その抽象的かつ意味ありげな台詞は。あたかも過去のわたしをよく知る人で、ライバル関係になるキャラクターみたいなのはやめてください。今のわたしは――――篠宮さんはどんなふうに劇を観たんだろう、どんなコメントしてくれるのかな、わたしはそれにどう応じればいいのかな、というので頭がいっぱいなんです」
藍沢さんも私と似たような気持ちになってくれていたのだった。言葉にされると反応に困る。そんな私の傍らで、彼らの話はまだ続く。
「ああ見えて野崎先輩も藍沢さんのことは、認めていた。最近知ったけどな。ここだけの話、うちは台本や演出担当に逸材がいないってのもある」
藍沢さんが鼻で笑った、のだと思う。「ふんっ」て口にしたのはそういうことだろう。それから「野崎先輩……?」と右のこめかみを指でつついた。そして「ああ」と手のひらをぽんと叩く。
「まだ好きなんですか。片思い続行中ですか。追いかけ受験だったんですか」
スリーコンボ。少しニヤリとしている気もする。
「っ?! うるせぇ。悪いかよ。いずれ恋人同士になるっての。それじゃあ、戻るわ。その美人さんと喧嘩しないようになっ!」
謎の捨て台詞を残してそそくさと受付付近に戻っていった。しばし見送っていたが藍沢さんがくるりと出入り口へと再び方向転換した。「行きましょう、篠宮さん」と言う彼女に、藤なんとか君について話を掘り下げるか迷った。ううん、正確には彼個人ではなく藍沢さんの中学生時代について。
「まず舞台の感想を聞くものじゃないですか、普通」
藍沢さんは至極真っ当なことを呟き、私と共に文化会館を出た。
ぱらぱらと雨が降り出していた。持ってきた傘を開いて駅まで移動する。安っぽいビニール傘を差す私に対し、藍沢さんは外出時には携行しているという折り畳み式の傘を差していた。
これが舞台なら、この雨は凶兆なのだろうなと思う。雨というのは往々にして、フィクションの中で悲劇を告げる手軽な装置として働くものだ。そういったことなら私だって知っている。
私たちは駅構内にある某チェーン店のカフェに入った。
「どうでした? 篠宮さんは初めてだったんですよね、高校生だけの演劇を観るの」
「そうね……ありのままに言ってもいい?」
「もちろん。わたしたちの仲じゃないですか」
心の友というのは言い過ぎよ、と謗るのはよしておいた。
「全体的に地味だったわ」
「でしょうね」
予期していたとおりと言わんばかりの態度の藍沢さんだった。
「机と椅子を舞台上に置いて、それで学校の教室に見立てる。そこから展開される物語がわたしたちの予想を裏切り続け、遠く彼方に運んでくれることって万に一つあったらいいぐらいの確率ではないでしょうか」
あり得ないとは言いませんが、と藍沢さんは。
劇の内容を短くまとめてしまうと、同級生五人の暴露大会だった。道徳の教科書に載っていそうな。賛辞になるかはわからない。一部、古典の説話からとったようなくだりもあった。
いくらテレビやPCの画面越しに観る映画や舞台と、生で直に見聞きするそれらの臨場感に差異があると言っても、セットや衣装にお金をかけておらず、照明やその他の演出効果に特別なものがない、そしてなにより自分と年の変わらない素人役者たちの演劇にそこまで感動することってまずないですよ―――藍沢さんはそうも説明した。彼女はふたりで今観た演劇をこき下ろしたいのではない。事実をそのまま伝えているだけだ。そして藍沢さんは「けれども」と口にした。
「どんなに舞台セットに力を入れ、衣装やメイクに最大限の気を遣い、照明や音響にもこだわって、プロの役者を用意したと言っても、必ずしも観客全員を虜にできるとは限りません。そうですよね? そして一見、陳腐にしか思えない舞台でも刺さる時は刺さる。心にぐさりと。感動を作るのに、たとえばストーリー構成上の王道や常道はありますけれど、そこから外れた道も確かに存在するわけです。なければ、やっていられないです」
普段から頭にあるのだろう、淀みなく言い切る藍沢さんを私は眺めていた。無表情のなかにでも、生き生きとした想いを感じる。好きなんだな、舞台が。
「さて、と。一般論をとめどなく語ってもしかたありません。そんなのはおじいさんおばあさんになってからいくらでもすればいいんです。わたしたちが話すべきは、自分たちがああいった良くも悪くも等身大の高校演劇から何を学び、わたしたちの舞台にどう生かすかです」
「建設的ね」
「そのほうがいいでしょう。どうか篠宮さんも後ろ向きな批評家にならないでください。せっかくこうして休日に会ってお話するのに、あれはない、これはない、とマイナスばかりを言い合うよりも、よかった探しするほうが精神衛生的にも良好です」
「えっと……よかった探しもいいけれど、いくつか気になったことについて話してみていい?」
「はい、お願いします」
私はミルクティーを一口飲んでから記憶を辿る。物語の順を追ってではなく、印象に残った部分からどんどん話してみようと思った。
「あっ、その前に。もう午後三時近くですよね。おやつに何か食べていいですか」
好きに頼みなさいよ、と私は肩をすくめてみせた。
三十分ほどで出るつもりがついつい長居してしまう。気がつけば午後四時を回っていた。一貫して演劇の話だった。私側の知識が足りないので、藍沢さんが私の何倍も話していた。滑舌だけを考慮すれば役者向きなのでは、と思うぐらいだった。話の中心はいつの間にか今日実際に観た演劇ではなく、これから作ろうとしている私たちの演劇についてになっている。それは藍沢さんにとっては最初から中心だったのだろう。藍沢さんの演劇に対する想いの強さを知ることができる。ひしひしと、ううん、ばしばしっと伝わってくる。
不意に、藍沢さんがぷつりと話すのを止め、目をぱちぱちっとさせると私を見つめ「聞いてくれますよね?」と不安げに口にした。不安がその表情にあったのだ。それで私はぷっと吹きだしてしまった。数日前に、放課後の図書室でああも長々と話したときには一度だってそんなこと訊かなかったのに、どうして今日はそんなに慎重に振る舞うのかと訊ねたのだった。
「うまく信じられないんです、たぶん」
「何が?」
「あの篠宮さんがこうしてわたしの前にいて、わたしの話を聞いてくれて、篠宮さん自身の意見もまっすぐに言ってくれる。そんな関係性であるのが」
「どの篠宮さんよ。私って薄情な噂があるわけ?……ああ、笑わないってのはあるのか」
「なんだか幸せだなって思ったら、同時にこれはもしかすると夢なのかなって」
「大袈裟だって。変なの。まぁ、でも……私って中学生、ううん、それよりも昔からこうして長いおしゃべりをする友達っていなかったのよ。だから、新鮮。毎日は勘弁願いたいわよ? そこまで甘やかすつもりないから」
私の冗談めかした言葉に、藍沢さんは上の空になっていた。そうだとわかるのに時間がかかった。彼女は深く考えている様子だった。今まさに決心している。何か。
「――――書き始めてみます」
そう言うと藍沢さんは立ち上がった。「え?」と見上げた私、そして周囲の雰囲気に気圧され、彼女はまた席に座った。どうしたんだ急に。
「わたし、今日は帰ります。それで書き始めたいんです。舞台の台本」
僅かに残っていた宇治抹茶ラテを飲み干して彼女が言う。
「これまでだったら……もっともっと細部を練るに練って取り掛かるんですけれど、でも、今回はそうやって突き詰めていくのが、そうするのがもったいなく感じちゃって。えっと……何て言ったらいいんでしょう、今すぐに、そうしないとって思ったんです」
高校演劇の部員男女比率やら演目ジャンル傾向やら、役者以外の動きについても滑らかに解説していた彼女からがらりと変わって、とつとつとした話しぶりになった。
「それって、執筆に突き動かす強い衝動がそのちっちゃな体の中で暴れ回っているんじゃない?」
あの男の子が言っていたギラギラってのが今の藍沢さんなのだろうか。
「そうかもです。けれど篠宮さん、誤解しないでください」
「誤解?」
「わたし、楽しみでした。観劇はもちろん、篠宮さんとウィンドウショッピングしたり、可愛いお洋服を選んで試着させたり、お揃いのアクセサリー買ってみたり、流れでカラオケに行ってデュエットしたり……そういうの妄想していました」
「そ、そう」
「今日のところは台本執筆を優先するってだけですから。本当に楽しみだったんです、とっても、とっても。篠宮さんと一緒に友達らしい時間を過ごすのが」
そんなにかしこまって言わなくてもいいのではないか。なんだ、明日にでも転校するのか。お別れなのか。いやいや、それだったら作り上げようとする舞台はどうなるんだ。
「また今度すればいいでしょ?」
「え…………?」
「なんでそこで驚いているのよ。そんな顔、今までしなかったのに」
「いえ、あまりに自然と次のデートの約束ができて、やったなぁって」
「不自然にもほどがある!」
「えへへ……」
嬉しそうに照れていた。あの藍沢さんが。不覚にもきゅんときた。
店から出ると、「それでは」と今にも駆け出しそうな藍沢さんだった。この駅からであれば、今から私も家に帰るのなら途中まで彼女と同じ電車に乗るはずだ。しかしそれを彼女はわかっていない。頭にあるのは台本のことだけ。
私は時計を見やり、どうせなら一人で書店にでも行ってみるかなと思った。
その前に、私はぽんと彼女の頭に手を置いた。ちょうどいい高さにあったからだ。深い意味はない。そして軽く撫でて「頑張ってね。期待しているから」と口にした。本心だった。
白状してしまうと、私は舞台に立つ気になっていた。昨日、宮尾先輩を前にして話した以上に、そういう気持ちになっていた。
実際の高校生の演劇を目の当たりにして、これだったら私にもできるかな――――そんなふうに感じたからではない。正直、あの演劇部には申し訳ないけれど、そこまで心を揺り動かされなかった。プラスにもマイナスにも。
藍沢さんと話して、彼女を知って、それでその熱意に応えたいと思ったのだ。結局、私はお人好しなのだろうか? それともシンプルに彼女とそして演劇そのものに惹かれてしまっているのかもしれない。そんなの照れくさくて言えはしないが。
「篠宮さんはずるいです、やっぱり」
「え?」
「なんでもありません。それでは、また学校で」
「ああ、うん。気をつけて帰ってね」
手を小さく振る私に、彼女は手を振り返してくれず、顔を見せてもくれずに駆けていった。
もしかして頭を撫でるのはまずかったのかな? 身長を気にしているのがわかっているのに、からかいが過ぎただろうか?
そして私は彼女の後ろ姿を見送り、書店へと向かう。宮尾先輩が参考になる本を貸してくれる手筈になっているけれど、自分でも演劇について調べてみようかなって。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます