実は早めに来ていてそわそわしていた

 翌日の土曜日は曇りだった。予報では夕方から雨となっていたが、午後一時過ぎ現在でいつ降ってきてもおかしくない空模様。それでも駅前を行き交う人は多い。私と同い年か年下の子たちも当たり前に見かける。通学時に利用しているどの駅よりも大きく、県内では最大級だろう。都会人目線では、田舎にしては大きいとでも言うのだろうか。


 駅構内の支柱、デジタルサイネージが私の知らない私立大学を宣伝しているところに、藍沢さんがいるのを見つけた。私と同じく制服姿。学校の外であっても着崩してはいない。むしろいつも以上にきちっと整えているぐらいだ。これから他所の高校主催の劇を観に行くのだからそれで正しい。って、私はどこから目線なんだ?


「おはよう。待たせちゃったみたいね」

「お気になさらずに。わたしが昨晩から泊まりで待機していただけですので」

「本当だったら引くわよ。……けっこう待ったの? 私はほぼ時間どおりに来たと思うんだけれど」

「そうですね。電車の発着時刻からしても、予想どおりです。かく言うわたしも五分前ほどですよ」

「そう。それならいいわ」

「今日は来てくださってありがとうございます。ドタキャンされたら、教室でギャンギャンと泣き喚いてやる心づもりでした」


 頭を下げ、恭しく話す藍沢さん。こういうのも慇懃無礼なのかな。


「それなら来てよかったわ。……誘ってくれてありがとね」

「なんのなんの、です。開場が一時半、開演が二時なので余裕はあります。ゆっくりいきましょう」


 いくらか楽しげな藍沢さんと共に私は市民文化会館へと移動し始めた。


「篠宮さんはこのあたり、よく来ます?」

「引っ越してきてから三度ほどかな。洋服とか見に。あと本や雑貨」


 六階建てのいわゆる駅ビルにはファッションも雑貨も大体が揃っていて、家の近所にアパレル系のお店、古着屋ひとつも見当たらない私としてはここまでやってくるのが最善というわけだ。とはいえ、そんなに服を買いこむほどに流行にうるさくもなければ、資金が潤沢でもない。


「もしかして観劇よりも、普通にショッピングしたほうが仲を深められたのでは」

「え、今それ言うの」

「うーん……でも、デートしませんかって言ってもきっと来てくれなかったでしょうし」

「それこそ普通に誘いなさいよ。遊びとか買い物って言えばいいじゃない。って、そうじゃなくて、観劇の目的はべつに私たちの親睦を深めるのが第一じゃないでしょ」

「つまり?」

「私に高校演劇というのが、どんなふうなのか知ってもらいたいんじゃないの?」

「そうですね。と言っても、篠宮さんが肩ひじ張らずに楽しんでいただければなによりです。わたしはそうします」


 私は藍沢さんにそこの高校の定期公演にはよく足を運んでいるのかと訊く。あの話が真実ならば中学生のときも彼女は演劇部だったのだから、その関係で出向いていたのではないかと思ったからだ。

「二、三度ですかね」と淡々と返事をよこす彼女。考えてもみれば藍沢さんのかつての同級生や先輩に会う可能性があるわよねと言ってみるが「どうでしょうね」とはぐらかされた。彼女にしては珍しい反応で、聞かないほうがよかったのかな。けれど、それならあの日、図書室で過去をああも流暢に自ら明かすだろうか。よく意図がわからない。


 その後も、文化会館に着くまでたわいない話を続けたが、どうも藍沢さんの歯切れが悪い。そして駅から出発して十五分後。文化会館すぐ手前の横断歩道の赤信号で立ち止まったとき、急に彼女が「篠宮さん」と改まって名前を呼んだ。


「どうしたの? ひょっとして、体調が悪い?」


 顔に出ないだけで、もしかして駅で会ったときからよくなかった? もしや本当に昨晩から待っていた? そんな私の馬鹿馬鹿しい想像はすぐに杞憂となる。


「いえ、元気です。もりもりです。そうではなく―――――あの、よければでいいんですけれど」

「なに?」


 信号をよそにしばし見つめ合った。


「観劇が終わってまだ時間があったら、遊びとか買い物をしませんか。わたしと。……篠宮さんがよければですが、はい」


 私はぽかんとしてしまった。

 信号が青になるも、前に進まない私。藍沢さんが立ち止まってしまっているから。彼女はなぜか私を上目づかいで見ている。ううん、目線についていうなら彼女が小柄なせいで上目づかい気味なのは平常か。それをふまえてなお、お願いしている雰囲気があった。なぜだ。


「ほら、渡るわよ」


 とりあえずこのまま止まっていると妙な空気が私たちの周りに沈殿すると思って、私は彼女を促して横断歩道を渡る。


「ねぇ、もしかしてさ」


 渡りきって、数歩、歩いてから私は思いついたことを言う。


「それを言うか言わないかで悩んでいたわけ? 駅からずっと」

「だとしたらなんですか」

「なんでちょっと怒っているのよ」

「わたしがですか? わたしが怒ることなんてめったにないですよ。毎月五の倍数日ぐらいですよ」

「週に一度より多いじゃない。どうしていつもみたいに図々しく頼めなかったの?」

「そんなに図々しいでしょうか、わたし」

「遠慮なく、冗談ぶっこんでくるじゃない」

「それはそれですよ。わたしは日々、ユーモアに生き、ユーモアに生かされているんです」

「べつにいいわよ」

「今なんと?」

「だから、劇を観終わった後で駅やそのへんの商店街に寄るの。いいわよ、休日なんだし。夜遅くにならなければ何も問題ないわ。断ると思ったの?」


 藍沢さんがこれまた読み取りにくい表情をした。無ではないが、明るくもないし、暗くもないし、もしかするとこれが彼女の素に最も近い顔色というやつなのだろうか。そんな憶測にかまわず、彼女は「篠宮さんはずるいです」とだけ言った。なんなんだろう。藍沢さんは内弁慶ならぬ校内弁慶なのか? ケージから出てしまうと怯えてしまう小動物なのか?


「さぁ、行きましょうか」


 切り替え上手なのだろう、藍沢さんは三歩前を行き、振り返って私にあの微笑みを向けた。私は黙って隣まで進む。彼女の態度がどこかいけ好かなくなって、その頭をわしゃわしゃと撫でてしまおうかと衝動的に思ったが、寸前のところで冷静になって実行しなかった。私はスキンシップする柄ではないのだ。


 市民文化会館の外観は私がイメージしたよりもずっと洗練されていて、駅前通りに立ち並ぶ高層ビルと比べてたったの三階建てというのにはっきりと目立っていた。ガラス張りの一階部分にうかがえるのはエントランスホールにホワイエ、そして同じくガラス張りの二階へと繋がる階段。晴天時には差し込む太陽の光で芸術的な影が出来上がりでもするのかもしれない。

 入館し、館内図&施設ガイドを見てみると、三百人前後の規模を対象とした小ホール客席&舞台と千二百人超の席がある大ホール客席&舞台とが館内の大部分を占めているらしかった。その他に事務室やリハーサル室および楽屋、大道具置き場で構成されている。各々のホールが商業目的以外に小中高大の演奏会なり合唱コンクール、それにもちろん演劇に利用されているのだとか。それらに加えて入場無料の地域ゆかりのミュージアムも併設している。こちらも周辺の教育機関の生徒たちの作品を多く展示しているのだという。


「どうしてそんなに私をじっと観察しているのよ。まだ時間に余裕はあるわよね」

「ええ、催促ではないですよ。あの、篠宮さん。お手洗いでしたらあちらですよ」

「わかるわよ、標識があるし。館内図を眺めている私がそんなにおかしい?」


 藍沢さんは首を横に振った。そして、小ホール、大ホールへとつながる大きな両開きの扉を順に指さした。あたかもそのふたつだけがわかっていれば問題ないというふうに。あと、お手洗いもついでに。


「真面目だなって。初めてくる職員関係者でもなければ、そうまじまじと検分しないでしょうから」

「そう? 充分に立派な建物じゃない。二階には会議室が三つに、託児室、和室……三階には歴史資料室なんてのもあるみたいよ」

 

 藍沢さんの口にした「真面目」には皮肉や嫌味の感じがしなかったから、私はそのまま館内図から読み取れることを彼女に共有してみた。


「この先の未来で篠宮さんが踏み入れない場所も多くあるんでしょうね」

「そうね。むしろ、ほとんどそうかも。私ね……思い出したの」

「前世は名女優だったんですか?」

「ちがう、っていうか知らないわよ。そうじゃなくて幼い頃の話」

「さぞ可愛かったんでしょうね。フォトアルバムがあれば今度持ってきてくださいますか」


 持ってきてたまるか。無視してそのまま話すのをやめようかと思ったが「何を思い出したんです?」と遮ったくせして聞いてくる藍沢さんだった。私は続ける。


「前に住んでいたところにも、こういう文化ホールがあったわ。どこにでもあると言われればそうなんでしょうけれどね。小さい頃、コンサートか何かを聴きに両親に連れられてやってきたときに、私ってば隙を見て一人で探検に向かったのよ」

「それで迷子になったと」

「うん、そうなのよ。この手の施設での迷子って、たとえば大型ショッピングモールで迷子になるのとは違うでしょ? 人ごみにまぎれて、ってのがあまりない。そうね、舞台裏巡りとでも言えばいいかな。子供が1人でうろうろしても全然楽しくないはずなのに、私は開くドアがあれば開けていた気がする。よく考えれば、もしそうなら誰かが部屋の中にいたときには迷子かなって思われるだろうから、開けて誰かいたらすぐに閉めていたのかも。とにかく、あちらこちらと歩き回った覚えがあるわ」


 小学二年生になったばかりだったと記憶している。昼ではない。夜だ。思い出してみると暗い町を抜け、たどり着いた明るいロビーから、また薄暗い客席ホールに入るのが嫌だったのかもしれない。両親はどうしていたんだろう。誰かと話でもしていたんだろうか。その年齢の他のエピソードと同様に曖昧模糊としている。


「誰にどうやって見つけてもらったんですか?」

「それが覚えていないの」


 ここでこうしているからには、誰かに見つけてもらったはず。もしくは自分で両親のもとへ帰って事無きを得たのか。

 何にしても、わざわざ人に話さなくてもいい内容だった。中身らしい中身がない。昨晩に見たありふれた夢の話を語るのと同じぐらいに価値が低い。ほんのりと自虐的になっている私に、藍沢さんは思いがけない提案をする。


「では、こうしませんか?」

「うん?」

「幼い頃の篠宮さんを迷子から救ったのは、幼い頃のわたしだったということで。偶然にも、わたしもそこにいて一人で歩き回るあなたを見つけ、その小さな手を引いてエントランスホールにでも連れていき、無事に親御さんと合流できた。わたしたちの間に、そんな運命的な巡り会わせがあってもよくないですか?」


 無表情だと冗談めかしているのか否かも掴めなかった。それでも記憶の霧よりも遥かにくっきりとした面持ちの彼女にたまには乗るのもいいと思った。


「悪くないわね。それで再会してどうなるの?」

「そうですね……王道は――――っと開場ですね」


 私たちとは別の制服を着た数人の男女がやって来て、小ホールの出入り口付近に置かれた受付用テーブルにそのうちの二人がつく。行きますよ、と藍沢さんの瞳が私を誘う。


 王道はきっと……恋に落ちるんだろうな。

 私は言葉にはせずに、胸にそっと仕舞った。

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