おっとり美人先輩、現る

 放課後、私は藍沢さんに連れられて廊下を歩く。窓の外では、雨がしとしと降り続いていた。二階の渡り廊下の向こう側、美術室や音楽室、そしてその他の文化部の部室がある西棟へと辿り着く。私たちの教室がある東棟が四階建てであるのに対し、こちらは三階建て。放課後に私がここへと踏み入れたのは初めてだった。四月の体験入部期間に行こうか迷って、行かなかった場所。

 三階の最も奥まった位置にある部屋が演劇部の部室だった。机と椅子が端に二つ三つしかなく床面の大半が晒されている。それとカーテンがベージュ色ではなく黒色であるのを除けば、通常の教室と何ら変わらなかった。あまり掃除されていないのか、埃っぽく感じる。美術室のように画材等の独特な匂いこそしないが、そことなしに陰鬱な気配が漂っていた。


「ここにない小道具・大道具類は別に倉庫部屋に保管されているんです。いえ、眠っているといいますか。見に行ってみますか? 探せば、不慮の事故で亡くなってしまった女優の卵の怨念が憑りついている舞台道具なんかもあるかもです。手に触れた瞬間に電撃が走るか、もくもくと煙が立ち込め、篠宮さんに並外れた演技力を授けてくれる展開が期待できますよ」

「憑かれるか呪われるかしているじゃない。ねぇ、それよりも他の人は?」

「見てのとおりです」

「まだ来ていないってだけよね?」

「やっとふたりきりになれましたね」

「協力してくれる先輩たちがいるって話なんでしょ。忙しい人たちなの?」

「ええと、一部省略していた経緯がありまして」


 藍沢さんが数日前に、先輩方や顧問相手に意思表示をしたのは昨日聞いた。すなわち演劇部を再興する。部室を与えられていながら、活動に消極的で、かつては毎年上演していたらしい新入生勧誘目的の劇もせず、稽古どころか在籍部員が部室に集まらないという現状の打破。

 その詳細を藍沢さんは私に話していなかったのだった。それを今知ることとなる。


「台本ができあがるまでは集まらない?」


 私は思わず訊き返した。


「より正確に言うのなら、台本が出来上がり、それが部員全員の納得のいくものでなければ、その後の稽古なんてする気はないそうです」


 私は自分の眉間を指で軽く抑え、溜息をつく。部屋の蒸し暑さも加わって、苛立ちが募る。昨日の話しぶりでは、あたかも藍沢さんの表明に心打たれて部員たちが既に動き始めたってふうじゃなかったかと。けれども、藍沢さんは賭けに出たというのが現実だった。部員たちのモチベーションを向上させられるような、「この舞台をつくりたい」とまで意欲を出させる台本を作り上げる。そこがスタートなのだ。なんだ、まだ何も始まっていないじゃない。


「ねぇ、本当に藍沢さんの熱意に負けて協力を約束してくれた先輩はいるの?」


 顔を上げ、もしやと疑念が生じた私は藍沢さんを見据えてうかがう。


「はい。たとえば『そこまで言うのなら書いてきなさいよ。面白かったら木でも看板でも郵便ポストの役でもなんでも演じてあげるわよ』って」

「…………」

「他には『ぼっちのあんたがいったいどんな子を連れてくるのか楽しみね。それはそれはすごい名女優なんでしょうね』とも」

「……一つ、わかったことがある。あんたに演技は向いていない」

「知っています」


 アウェイだ。劣勢だ。だって藍沢さん、期待されていなさそうだもの。少なくとも先輩女子に可愛がられてなどいない。厄介がられているんじゃないのか、これ。

 そんな藍沢さんのはったりに、その大回転する口車に乗せられてここまで来てしまったのが私だ。

 いや、今ならまだ引き返せる。ごたごたに巻き込まれて恥をかくのと、妙な友達をひとり失ってしまうのとを天秤にかけてみる。どっちが重い?


「あのね、藍沢さん。私――――」


 その時、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。通常教室と同じ規格のものであるため、上部についたガラス窓からノックの主の顔は見えている。その女子生徒と私の目があった。そして返事を待たずにガラガラとスライドされるドア。藍沢さんもそちらを向く。


「やっぱりアイちゃんだったぁ。子猫かなぁって思いもしたんだけど。窓から見かけたんだぁ」

「それでわざわざここまで確かめにきてくださったんですか、宮尾先輩」

「それよりもぉ、その人が例のヒロイン?」

「ご明察です」


 藍沢さんに宮尾先輩と呼ばれた女子生徒が私を見る。第一印象としては温厚。人懐っこい笑みを浮かべている。ゆるゆるの語尾には長音が常についているみたいだった。地毛なのか薄茶の髪を高めのサイドテールにしていた。体格は私とそう変わらないから160㎝過ぎといったところ。スカートからのぞく足の太さは私と変わらないのに、その胸部は私や藍沢さんと比べて、たしかな隆起があった。私だって人並みはある、たぶん。この人が大きいのだ、うん。


「い、一年の篠宮夕夏です。えっと、実はまだ……」

「よろしくぅ。二年の宮尾るるですぅ」

「よ、よろしくお願いします」


 反射的にそのまま自己紹介する。まだ役を引き受けてはいないと言うタイミングも逃した。それに先の藍沢さんの棒読みの再現だとこの宮尾先輩こそ、藍沢さんに微塵も期待していない先輩の可能性もある。今、藍沢さんと私の姿を遠くから発見してここまで来たのも嫌味を言うのが目的かもしれない……?

 どっちだ? そんな人間不信なりかけの私は、安心してこのままおしゃべりしてかまわない人なのかと藍沢さんに目配せする。が、藍沢さんは気づかない。なんでこういうときはこっち見ていないのよ。


「ふうん、アイちゃんってこういう子が好みなんだぁ」

「書こうと決めた台本ありきでの人選です。わたし個人の趣向と………違うとは言いませんが」

「それはそうでしょー。先週の段階で、全然書けていなかったんだよねぇ。だったら、むしろこの子ありきの台本になるんじゃないのぉ? 勝利をもたらす女神様なんでしょー? 何に勝つのかわからないけどぉ」


 何か言わないとこのまま藍沢さんと宮尾先輩だけで話が加速していきそうだった。先輩の話し方は緩いままだけれど。


「えっと……」

「大丈夫ですよ、篠宮さん」

「え?」

「宮尾先輩はいつもこんな感じです。いたずらにわたしたちにプレッシャーを与えたり、初対面でじろじろと値踏みしたりする方ではありません。そうですよね?」

「もちろんだよぉ」


 宮尾先輩はにこにことしている。藍沢さんは相も変らぬ無表情で応じている。

 だから、どっちだ? ゆるふわと見せかけて腹黒先輩って線もまだ捨てきれない。


「シノちゃんは演技経験が豊富なのぉ?」

「シノちゃん? わ、私ですか」

「うん。篠宮さんだから頭をとって。アイちゃんと同じ方式だよー」


 ああ、なるほど。でも小中学生のときにそう呼んできた人はいない。小学生のときにいた忍君は忍者だ、忍者だとからかわれていた覚えはある。にんにん。

 そんなことよりも、だ。


「いえ…………ありません」


 その場しのぎの嘘で好転する事態はほとんどない。宮尾先輩のにこにこ顔から視線を外して、私は事実を明かす。


「ふふっ、想定内、想定内~」


 ぶい、と指を二本立ててみせて。それに対し、藍沢さんはまたも「ご明察です」と言う。困惑する私は再度、藍沢さんに目配せを試みた。が、彼女はこっちを見ていなかった。くっ。


「ふむ……この邂逅も運命でしょうね。宮尾先輩、わたしのお願いをきいていただけないでしょうか」

「えぇ~、どうしようかなぁー。報酬しだいかなぁ。あっ、前払いねぇ」

「と、言いますと?」

「まずは~、このあと三人でパフェ食べに行こうよぉ。ぱっ、ふぇ。ね? アイちゃんの奢りでさぁ。じめじめとした気分を吹き飛ばしちゃうやつ~」

「『まずは』というのが気になりますが、わかりました。ただ、気分を高揚させるのであれば先輩が好きな熱々のコロッケでもよくないですか。安上がりですし」


 宮尾先輩の目元がぴくりとした。


「何を言っているのかな? るるはそういうのじゃないから」


 ぶんぶんと手を振って否定する宮尾先輩。

 コロッケか。私も好きだけれどなぁとは言い出せない雰囲気。


「けれど、わたしと先輩が親しくなったのは、先輩が帰り道に一人で商店街のお肉屋さんで……」

「アイちゃんさぁ! 羞恥を感じる出来事って人それぞれじゃん? 察しなよ! いいから、ほら行こうよぉ。ね? シノちゃんもパフェ食べたいでしょぉ」

「は、はい」


 二日連続でスイーツを間食するのは気が引けるお年頃なのだが、興味がないといえば嘘になる。そうだ、嘘をつくべきではないのだ。


「こう言ってはなんですが、わたし、お金に余裕ないですよ。昨日は篠宮さんとのデートで出費もありましたし」

「ただの寄り道をデートと称しないでよ」

「アイちゃんが食べるの我慢すればいいでしょぉ」

「……。藍沢さん、昨日は奢ってもらったから今日は私があなたの分を奢るわよ」

「シノちゃん、優しいねぇ~。アイちゃんに弱み握られているのぉ?」


 それは先輩のほうなのでは。私は別に十代女子が一人で肉屋で買い食いしていたって気にしない。けれど先輩はたとえばクラス内ではそういうタイプの人でないのかもしれない。周りからのイメージを大切にする、なんてのは私や藍沢さんのような少人数行動が常である人間だと疎くなる傾向がある。

 

 それはそれとして――――宮尾先輩は、藍沢さんの演劇部再建を応援している側の人間であるようだった。「みんながそうだったらいいんだけどねぇ」と先輩は小さく漏らす。今はまだ穿鑿しないでおくことにした。

 

 がらんとした部室を後にして、私たちは学校を出る。そして雨の中を傘を差して駅へと進んだ。


 幸い、雨足は弱まっていた。駅前通りにあるお店に着くと、先輩はお手洗いへと行き、藍沢さんとふたりになった。ちなみに先輩は「これ、注文しておいてねぇ」と言い残していたが、ジャンボを冠したそれは写真だけで胃もたれしそうだった。彼女は健啖家なのか? ううん、シェア前提だ、きっと。後輩たちにおすそ分けしてくれる優しい先輩なのだ。今回の元手はその後輩からなのだが。


「ところで、お願いってなにを頼む気なの?」


 藍沢さんは私の問いかけに対し、まじまじと見つめ返してきた。それはちょうど、お昼休みに私が条件としてラブシーン禁止を伝えたときそっくりだった。


「なによ、なんなのよ」

「篠宮さんなりの推測はないですか。わたしはてっきり通じ合っているのだと考えていたので、悲しいです。空も泣いています」

「朝から泣きっぱなしじゃない」

「篠宮さんに関することですよ、お願い」

「へ?」


 当たり前じゃないですか、と藍沢さんは拗ねた。それがわかる程度に表情が動いた。その顔が生意気な子猫っぽくて可愛いと思ったのは内緒だ。

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