三つ目はくるみパン
私は押しに弱い人間なのだろうか。
駅で別れる際、藍沢さんに「明日は演劇部の部室に行きましょうね」と言われて、了承してしまった。どうにも拒否の言葉が出てこなかった。着々と外堀が埋められ、後戻りできない状態になってしまうのではないか。本音を言えば、藍沢さんが書く演劇台本そのものは気になる。読み物として。だが、その主役を自分が演じるというのは別次元だ。求められても、実感なんて湧かない。
「どうしても嫌なら無理強いはしません。ですが、わたしはどうしても篠宮さんがいいんです」
そんなふうに言われたのは初めてだった。愛の告白めいている。「断られたら、末代まで呪いますけど!」と物騒に言い足して、彼女が乗る電車が到着するホームへと駆けて行く後ろ姿は小さかった。
結局のところ、押しにではなく私は孤独に弱い人間なのかもしれない。たった2日連続、藍沢さんに声をかけられ、おふざけ混じりの会話をしてみて、多少なりとも楽しくなってしまって、それで…………自分から彼女を手放してしまうのを惜しんでしまった。それまでが孤独だったから。それでいいって思っていたはずなのに。自分の心の内をその時々で、正確に解析できたらいいのに。複雑怪奇な心にも解の公式が存在していて、あてはめれば解けてしまう代物だったらいいのになって。
眠るときになってあれこれ考えてしまう。みんなそうなんだろうか。たとえば藍沢さんもああ見えて、悩みがあるのかなって。
翌日の金曜日は雨だった。時季としてはそろそろ梅雨入りしてもおかしくない。
お昼休み、雨音は賑わいにかき消される。学校中どこにいても人の息遣いとおしゃべりが聞こえてきそうな時間。入学して以来、独りで過ごしてきた私であったが、その日は藍沢さんとふたりだった。
四時間目の授業が終わってすぐ、私の隣の席の男子生徒がその友人と共に学食へと向かおうして、それを藍沢さんが呼び止めた。席を借りるために一声かけたのだった。私は横目で見ていただけだったが、その男子生徒は「え?あ、うん」と応じた。「ありがとうございます」と丁寧にお辞儀までする藍沢さんに「おう」と「ああ」の中間みたいな声を返して教室の外へと出ていった。
「よいしょっと。ほら、篠宮さんも机の向きを合わせてください。垂直だと変ですから。今からでもクラス内で目立ちたいっていうならそのままでいいですけど」
「お昼までいっしょする約束していたっけ」
「篠宮さん、まさか……いえ、念のため確認しますけど、あなたの中では藍沢花恋ってまだ友達未満なんですか。それとも専属のマネージャーを通してでないとダメとか?」
「マネージャーなんていないわよ」
「あー……こほん、ん、ん。わたしと友達になってくださいっ、篠宮さん」
「ちょっ、声大きいわよ。って何言っているのよ」
「こうしたほうが篠宮さんとしてはいいのかなって」
よくない。幸い、こっちを見続けている子はおらず、ちらっと視線が向くだけだった。ひそひそ声はあっても聞こえないふりをしておく。
「わかったから。それでいいから」
「それでいいとは?」
「だから……わかるでしょ?」
「わたしは言葉にしたのに、篠宮さんは言ってくれないんですね。まぁ、いいです。言わぬが花。秘める想いこそ美しいときもありますから」
勝手に納得した藍沢さんは、一旦自分の席に戻ると袋入りのパンを三つ抱えて戻ってきた。購買部のではなく、コンビニのパンだ。登校時に買っているのだろうか。それがいつもなのかは知らない。一昨日以前はもちろん、昨日にしたって彼女がお昼に何を食べているか観察などしていなかったのだから。彼女は「あ、水筒」と言ってまたまた自分の席へと。戻ってきた彼女が持っていたのはブルーのステンレスボトルだった。可愛げはない。デザインよりも機能性重視なのかな、この子。
「どうしました?待てと命じられたワンちゃんみたいになって。お弁当忘れちゃいました?」
「持ってきているわよ。犬扱いしないで」
藍沢さんは私が弁当を毎日持参しているのは知っているみたいだった。
「セッター種やスパニエル種あたりが似合いそうですね」
「なにそれ、犬種?」
「ええ。なかでも猟犬に分類されますね。うん? どういう了見なんだって顔していますね。落ち着いてください。どうどう。机は借りましたけれど、狩られたくはないです」
「よくもそうくだらない言葉遊びが出てくるわね」
「お褒めに預かり光栄です」
褒めてない。……なんで猟犬なのよ。チワワやトイプードルではないのは自覚あるけれどね。
藍沢さんは「どれにしようかな」と机上に並べたパンをどれから食べるか選びあぐねている様子だった。小さい子がそうしていると可愛らしい。同い年だってわかっているし、彼女の顔立ちは童顔寄りであってもいわゆるポーカーフェイスだからキュートっていうのとはまた違う。
私もお弁当を用意する。飲み物はペットボトルのお茶で、今朝のうちに自販機で買ったものだ。
「わぁ、美味しそうですね。手作りですか」
「そういうのはせめて蓋を開けて中身を見てから言いなさいよ」
開けづらくなるでしょうが。あと、私ではなく母親の手作りだ。
藍沢さんはメロンパンを選んで、もそもそと食べ始めた。机の上や床にパン屑を落とさないようにしなさいよ、と老婆心は胸中にとどめておく。
「ねぇ、一ついい?」
「あげませんよ!こう見えて食べ盛りなんです。って今、育ち盛りではないわよねって思いましたね。ハラスメントですよ、それ。親しき中にも礼儀ありです」
「一人で盛り上がらないで。まだ全然できていない台本のことを聞きたいの」
「何かご要望でも?」
「条件ね。最低限の。っと、その前に。まだ引き受けるって決めたわけじゃないわよ? そこは勘違いしないで。そのうえで条件は付けさせてもらいたいの」
「もっとツンデレっぽく言ってくれませんか」
「却下。あのね、ラ……ラブシーンはダメだから。キスとかそういうの。最初からそういうジャンルで考えていないのなら、いいんだけれど」
藍沢さんが黙って私を見つめる。メロンパンを食べるのを中断して、じっと見つめてくる。なんだ、こいつ。
「何か言いなさいよ」
「その発想はなかったな、と」
「そうなの?」
「ええ。篠宮さんのなかでは、文化祭で上演する演劇っていうとどんなイメージがあるんです?」
「えっと……白雪姫だったり、ロミオとジュリエットだったり? そういうのが定番じゃないの」
「ふむふむ。余程、大胆な設定の変更がない限りはつまらなくないですか、それ。演技にしても舞台セットにしても見劣りするのが必至でしょうし、そもそもあらすじが広く知られているってだけで、わたしはやりたくないですよ。面白くないじゃないですか」
世界設定を現代にしたり、悲劇を喜劇調にしたり、途中から原案とはまったく異なる話の筋にしたり、その他諸々、その舞台ならではの個性がなければ、散々演じられてきたものを改めてやりたいとは思わない。藍沢さんはそう主張した。大会でもなく文化祭で高校生が演じるのと、プロの劇団が古典的な作品を何度も演じていくのと違うのは私にだってわかる。
「演劇のジャンルについて話しだすと、パンがいくつあっても足りないですよ」
昼休みでは尺が足りないのを意味しているらしい。時間と言えばいいでしょうに。
「安心してください。話を戻すと、わたしは篠宮さんと誰かを舞台上で情事に及ばせるなんてさせません。それを望む観客がいようとも、わたしは望みません」
「あんた、もっと言い方を考えた方がいいわよ」
情事って。いや、ある意味でオブラートに包んだ表現ではあるのか。
「意外と初心なんですね、篠宮さん」
「意外ってなによ。貞操観念が人並みにあるってだけよ。演技で人前に出てそういうのしたくない」
「そういえば、これも噂で聞いたんですけど、遠方から引っ越してきたのは八股がばれて地元にいられなくなったって本当ですか。地元じゃ八股の大蛇って呼ばれ……」
「そんなわけないでしょ! 怒るわよ」
「十中八九、そう口にしている段階で怒っていますよね」
「その噂、今あんたが考えたんじゃない?」
むしろそうであってほしい。藍沢さんは「そうです。よくわかりましたね」とけろりと言った。
ふざけるのも大概にしなさいよ、と私がおふざけばかりのコミュニケーションを不得意とするのを明確に伝えようとした矢先に「ごめんなさい」と謝ってきた。
「ほしがってしまったんです」
「どういうこと?」
「ラブシーンを演じたくない、それを条件として提示する篠宮さんの顔、恥じらいがあって可愛かったんです。だから、つい」
「……どういうことよ」
「わたしは今日、お昼を一緒にしようと決めていました。一番の理由は、友達としてもっと仲良くなりたいから。二番目に、篠宮さんを舞台に最高の形であげるための台本を書くうえであなたのことをもっと知りたかったから。照れた表情も怒った表情も素敵でした。あ、お世辞ではないですよ」
「なによそれ、今はどういう顔すればいいのよ」
「篠宮さんのいろんな表情、ほしくなっちゃったんです、ごめんなさい」
藍沢さんが微笑んだ。一度目は申し訳なさそうに謝罪したくせに、次は優しく口許を緩めていた。それで私はすっかり怒気が失せた。不思議だ、と素直に感じた。この基本的に無表情かつ無愛想な子が、出鱈目な話の最中に不意に見せてくる笑みに私は弱い。強く出られないのだった。
嘘をついていない、そう信じられてしまうのは私が単純だからか、藍沢さんの澄んだ瞳に魅惑されているからなのか――――。
「篠宮さん」
「なによ」
「要望があればどんどん言ってくださいね。今のうちですから。主役であるあなたを最優先にして台本を作りますから」
「ふうん。じゃあ、他の部員含めて、全員が満足できるものにしなさい。必ず。いいわよね?」
「うーん……そうは言っても観客を楽しませてこその劇ですから、難しいかもです」
「そういうことを言いたいんじゃなくて」
「大丈夫ですよ、たとえば演劇部の先輩方から反感を買いたくないっていう話ですよね? 主役は目立つから主役とはいえ、主役だけしか印象に残らない演劇なんてクソ喰らえってやつですよね」
「なんでお昼食べているときに、そういう言い方するかな」
藍沢さんは「失敬しました」と二つ目のパン、すなわちカスタードクリームパンをもぐもぐとし始めた。メロンパンの小さな欠片が口許についたままなのを私は言わないでおくことにした。ささやかなお返しだ。
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