上がれよ我が舞台に、と藍沢花恋は言った
「思索は終わりましたか、篠宮さん。では、わたしをふーちゃんと呼んでください、愛を込めて。今なら詰め放題ですよ。やりましたね!」
やりましたね! ではない。無表情なのがかえって怖い。
茜色に染まる図書室でその同級生は私の眠気を彼方に追いやった。
「えっと……遠慮しておきます」
触らぬ神に祟りなし。君子危うきに近寄らず。本は読んでも、良く知らない人からあだ名で呼んでと頼まれても困るだけだ。そのうえ何故か愛情の付与をも求められている。なぜだ。物事には相応のステップというものが存在するはずなのだ。
「なして!」
彼女が声を発した。勢いよく。やはり無表情で。もはや疑問符のない感嘆符のみの叫びであったが、それが理由を問うているのだとすぐにわかったのは幸運、もしくは不運。動揺する私に彼女は続ける。
「こほん。……失礼しました。どうやら、わたしに流れている可能性も捨てきれないクレオパトラの血が、時勢に逆らう者への糾弾をわたしに命じたようです」
おかしな子だ。
人は見た目に依らずとは言うけれど、この子がプトレマイオス朝最後の女王の血を継いでいるとは到底思えない。世界三大美女を引き合いに出すには分が悪い。可愛いスフィンクスとでもしたほうがいいのではないか。
「あの、篠宮さん。今日のわたしは耳があまりよくないのです。もう一度訊ねますね。わたしのこと、これからはふーちゃんって呼んでくれますよね」
口調は明らかに訊ねていない、断定している。強迫であり脅迫だ。その強気はどこからくるのだ。
「い、嫌かな」
やけに澄んだ彼女の瞳、その視線が痛くて私はやや臆した態度でとってしまう。
「こほん。あー、どうも今日は近くでオーケストラでも演奏しに来ているみたいですね。今のもよく聞こえませんでした。ええ、まったく!」
なぜ得意気なのだ。そして「こほん」というのは咳払いを表しているのだろうが、棒読みがすぎる。
「いいですか。ツァラトゥストラもこう言っています。隣人よりも遠人を愛せ、と」
「……それってどういう意味なの?」
「さぁ? どうでしょう、いっしょに明らかにしませんか」
「嫌よ」
「心中お察しします。篠宮さんは今、大河に浮かぶ小さなゴンドラに揺られている、そのような心境なのですね。それとも虎伏す野辺、鯨寄る浦を行く思いでしょうか。どちらにせよ、恐れる必要はありません。わたしがあなたを望むところに連れていきますから」
私は気がつく。むしろ耳につく。
「―――ねぇ、さっきからトラ、トラって。未練ありまくりじゃないのよ」
そんなにもかつてトラと呼ばれた頃はこの小柄な少女にとって誉ある日々であったのだろうか。
「ふふっ。ウィリアム・ブレイクも真っ青ですね。実際は炎の如く煌めいていますが」
笑い声に表情が追いついていない。そしていよいよ喩えのディテールがわかりづらいを通り越した。
「いったい何が目的なの」
臆することをやめて、私は彼女の意図を知ろうとする。まさかストレス発散のために、何の罪もない図書委員である私にウザ絡みしてきているわけではなかろう。そこは信じていい……よね?
私の問いかけに、彼女は落ち着き払った調子で話す。
「わたしには未来が見えているんです」
「は?」
急に超自然だ。この「超」は間違っても強意ではない。
「篠宮さん、あなたが舞台に立つに相応しい人であることがわたしにはわかっています。今はまだ信じてもらえないかもしれませんが」
舞台に立つに相応しい? この私が?
「へぇ、とんだカサンドラね」
彼女に見下ろされ続けるのが気に食わなかったので、私は立ちあがる。別段、私は長身の部類に入るわけではないが、それでも彼女を見下ろす形にはなった。視点の高さが逆転する。私は埒が明かないと悟り、本来あるべき正常な対話を試みる。
「ねぇ、
出席番号は二番だったと記憶している。クラス内の身長でも低い方から数えてそれぐらいだ。
今一度、彼女を頭の天辺から足のつま先まで見て、知るところをまとめてみる。体型について言えば、低身長に不釣り合いな胸部や臀部も有していない。いわゆる小動物系とも称されるような子だ。冗談半分にでペット感覚で愛でる生徒がいてもおかしくないが、少なくともクラス内では見聞きしたことがない。愛嬌がないせいか。人のことは言えないけれど。
髪を含め、装飾品らしい装飾品を身につけておらず、スカートの長さも少し短くしているぐらいで、校則の範疇である。換言すれば、どちらかといえば地味で、全体的にお洒落な気配はしない。制服なんてそれでいい、と私も思っている。
声はメゾソプラノ。たぶん、そのぐらい。特徴的とは言えないし、彼女の特長として数えられないと思う。滑舌は悪くないみたいだけれど、あの物言いを誰にでもしているのなら声質など関係なしに変人だ。とんだ酔狂だ。
「はいっ、藍沢です。青は藍より出でて藍より青しの藍に―――」
「ちなみに下の名前は?」
遮って訊ねる。
「
「どこにも『ふ』入っていないじゃない!」
「では、フラワーラブとでも呼べばいいのでは?」
「『ふ』があればいいって話ではないでしょ」
「そもそもフリージアが由来の『ふーちゃん』ですからね。ほら、わたしたちのクラスの鈴木さんだって、なぜかセリーヌって呼ばれていますよ」
ほら、じゃない。彼女を引き合いに出されても困る。
あの子はおそらく、その顔立ちがフランスっぽいからではないか。それに本人も満更でないからよいのだ。男子がテリーヌって言ったら怒っていたけれど。
「わかった、名前の件は一旦脇によけて、聞いてくれるかな」
「はい」
存外、殊勝に彼女は応じる。
「あのね、私、ちょっと困っているの。ううん、ごめん。わりと、かな。私はノリがいいほうではないわ。アクシデントやハプニングといったものに特別強くもない」
「なんと! そうでしたか」
あくまで無表情に彼女は。なんなんだ、この子。
「藍沢さんがね、どうしてここに突然やって来て、嘘か本当かわからない自分自身の過去を、べらべらと話した挙句、あだ名で呼ぶことをそれまで一度だって会話したことのない私に要求するのか」
私はそこで一度区切り、呼吸を整える。
「謎なのよ、かなり」
きっぱりと。言ってやった。主張は内に秘めているだけでは伝わらない。
「なるほど~」
「……ちゃんと伝わっている?」
「はい、大丈夫です。システムオールグリーンです。さすがに不躾でした。すみません」
頭をぺこりと彼女は。そのシステム、壊れていないかな。
「では、改めてお願い致します」
顔をあげた彼女が言う。
「呼ばないわよ」
「いえ、そちらは正直、前置きというか、トークの緩衝材だったんです。ウィットに富んだ」
しれっと彼女は。全然富んでない。あえて言うなら頭のねじが飛んでいるのではないか。それに遠回りすぎではないだろうか。どれだけ前に置くつもりなのだ。緩められたのは眠気だけだ。
「本題は、先に話したとおりなんです」
「というと?」
思い当たるものがなかった。
友達になってほしい、みたいなことも言われていない。
……いや、まさか――――。
「篠宮さん、どうかヒロインになってくれませんか。あなたに舞台に出てもらいたいんです」
はじめて彼女の表情に変化があった。その不敵な笑みが夕焼けでいっそう神秘を帯びる。そして私はそこに、どことなく可愛げのある虎を見た気がするのだった。
「では、続きはまた今度」
「は?」
「チャオ!」
「…………は?」
藍沢花恋はその日、あっけにとられる私を置いて去っていった。風と共に去っていきやがった。繰り返すが、たしかに物事には相応のステップというものが存在する。しかしこうも中途半端で切られてしまうと、げんなりする。「また今度」と藍沢さんは言ったのだから次があるには違いない。
舞台に出る……私が? ヒロインってなんだ、ヒロインって。
しばらく呆けていたが、正気を取り戻して時計を見やる。もう時間だ。
かくして私はいつもどおり図書室を施錠し、日がすっかり落ちてしまう前に足早に家に帰り、それから夜がやってきて、人並みの成績を維持しようと課題をやるべく机に向かった。
英語のテキストの和訳に奮闘しながら、頭に藍沢さんのあの笑みと台詞がよぎってしまう。不安ではない。嫌悪でもない。苛立ちはあったけれど、過ぎてしまえば、もっとふつうに接してあげてもよかったのかもと自省もする。それとほとんど同時に、彼女がふつうでないのだから、それは無理な話ではないかと自分を擁護した。
何か期待してしまっている自分に気づいて、溜息をついた。私はさして鈍感でも暢気でもなく、かといって冷淡ではないと自負している。どちらかと言えばお人好しなのだろう。だから彼女のことで少し頭を悩ますこととなった。
翌日、何事もなく放課後を迎えようとしていた。いや、迎えた。その直後に彼女がやってきた。
他でもない藍沢さんである。帰宅部である私は委員会の仕事もない日は教室に理由なしに長居なんてせずに、さっさと下校する。残念ながら(とそれほど本人が思っていなくても言うべきだろう)一緒に下校するような友人はいない。
「どうして声をかけてくれないんですか」
藍沢さんは開口一番、不服そうにそんなことを言いだした。物珍しげに私たち二人をちらりとうかがう同級生が何人かいたが、すぐに視線を外す。そして彼らの愛すべき友人たちに意識は戻っていくのだ。
私がどう返せばいいか考えて……とくに考えてはいなかったのだが、とにかく黙っていると、藍沢さんがまたもや不満げに言う。
「篠宮さん、気づいていましたよね」
「何に?」
「アイコンタクトですよ! 今日一日中、篠宮さんに向かってしていたんです。こう、パチパチっと。それなのに気づいてくれないなんて! おかげでドライアイですよ。ドライ藍沢です。いえ、ドライなのは篠宮さんです。涙が止まらないですよ、うわーん、うわーん」
乾いているのか湿っているのか。そして泣き真似が下手すぎる。やめてほしい。また同級生が怪訝そうに見ているではないか。
「私、授業中に後ろのほうの席なんてあまり見ないから」
「そんなに離れていませんよ。たかだか数メートルです。声をかけようと思えばできたはずです」
「逆に訊いていい? どうして今日は受け身だったの。昨日は馬鹿みたいにぴーちくぱーちく一人で喋っていたじゃないの。こっちにきて目じゃなくて口を開け閉めしたらよかったじゃない」
「こういうのは、押すだけではなく引くことも肝心なのです。駆け引きですよ、駆け引き」
同意しかねる。
とはいえ実は、声をかけようかなと何度か思った。
でも、二人きりの放課後の図書室ならまだしも、普段の教室や廊下といった多くの目があるなか、彼女に話しかけるのが、すなわち昨日の出来事を確かめるのは気後れしてしまったのだった。会話に慣れていない人間らしく。そんなのだから入学して以来、友人らしい友人がいないのだと指摘されると否定できない。父親の転勤があったために県外からの受験組であった、というのは言い訳だろうか。
「極めつけはお昼休みです」
「お昼休み?」
「ええ。わたしは露骨にチラッ、チラッと篠宮さんを見ながら教室を出ていきました。藍沢花恋、迫真のチラリズムです」
「そういうときに使う言葉ではないわよね」
「それなのに!追いかけてきてくれませんでしたよね。逆に驚いてしまいましたよ、おかげで背がぐぐーんっと伸びました」
「変わっていないわよ」
「うう、気にしているのにひどいです」
「自分から言い出したんじゃないの。それに、追いかけてきてくれると決めつけた藍沢さんにも問題があるわよね」
ちなみに、その時は本当に気づいていなかったのだけれど。
「それで用件は? 非難だけ?」
非難されっぱなしでも話が進まないので、私から進めることにする。
「またまた~、わかっていますよね? あれですよ、あれ」
奇怪な身振りを交えて、もったいつけている。無表情で、だ。この子の距離感は独特だ。
「舞台がどうこうってやつ?」
私がヒロインに云々、と言うのは気が引けた。私の言葉に彼女がぴたりと動きを止める。
「そうです、そのとおりです」
こちらをビシッと指さしてきたので「人を指ささないで」と注意する。
「はい」と素直に引っ込めてくれた。
「そのあたり詳しく話したいので、今日は一緒に帰りましょう。寄り道しちゃいますよ。篠宮さんは自転車通学ではないですよね?」
「なんで知っているの」
「当てずっぽうです」
「…………」
「では、参りましょう。わたし、小さい頃から夢だったんです。仲のよいお友達と寄り道して帰るのが。今日はその夢が叶うということで、もう涙で前が見えません」
くるりと方向転換して、るんるんと歩き始めた藍沢さんは出入り口のドアに鼻先をぶつけて「ふぎゃっ」と声をあげた。たしかに前が見えていないみたいだった。彼女も冗談ばかり言う子ではないみたいだけれど、仲の良いお友達になった覚えはない。
断る理由を作ることもできただろうに、私は彼女についていくことにした。どうせ家に帰っても暇をつぶすだけだから、とむしろ彼女との下校を正当化してしまう。私にとっては夢でもなんでもないけれど、たまには誰かが隣にいる帰り道もそう悪くないはずだから。たまにはね。
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