花笑みのトラ  

よなが

放課後の図書室にて

 はじめはトラでした。柄にもなく。

 

 わたしは中学生のときも演劇部に所属していました。二年生の夏休みを費やして書き上げたのはオリジナルの演劇台本。感涙必至の大舞台を夢見ていたのです。台本作りの師であった先輩にさっそく読ませて差し上げました。期待以上に彼女は涙し、その異常な量の雫が池となり、海となり、わたしの部屋を大航海時代に突入させんとする勢いでした。

 これで彼女たち三年生の中学最後の公演、文化祭での演目は決まったのだと信じました。後は演者となる先輩方という大船に乗ってしまえばよいのだとも。そんなわたしに、彼女は首を横に振りました。静かに、澄んだ海の中でなびく海草のように。


 脚本担当志望で入部したものの、これまでろくに書いてこなかったわたしが、数学をはじめとする成績下降気味の教科の宿題から逃避しつつ、書き上げた台本。かつてない大海原を頼りない小舟で追い求めた宝は偽物だったのでしょうか。いいえ、そうではないのです。その先輩は、これはあなたのとっておきにしなさいとアドバイスしてきたのです。これを世に出すのはまだ早いのだと。

 わたしの台本を読む前に、受験勉強で忙しくて全然遊びに行けないよぉとぐちぐち話しておきながらしっかりと小麦色に焼けた肌の彼女が真剣に言うので、わたしはそのボロボロの宝の地図みたいな根拠に欠ける言葉、その掠れた涙声にいちおう従うことにしたのです。敬意はそれほどなくても情けはあるのです。

 

 それから中学生のわたしにとって三度目の春がやってきた頃に話は飛びます。先輩たちの最終公演が悲劇ならぬ悲惨に幕を閉じ、その影響で最悪のムードが漂い、暗雲立ち込めて久しい部内。そこに一筋の光をもたらさんと、わたしは例の台本に手をだすことにしたのです。

 その台本をして、演劇部にかつて微々たるほどにあったかもしれない沽券や矜持といったものを取り戻し、ならびに新入生の勧誘を果たすべく動き出したのでした。名誉挽回、汚名返上、起死回生の一手でありました。

 わたしの灯したセントエルモの火によって我らが演劇部は雷鳴轟く雲を払いのけ、どんな高波さえものともせず、いよいよ公演に臨んだのです。

 その結果たるや、まさしく全生徒が泣いた―――というのは、いささか誇張ではありますが、上等なハンカチーフの即売会をその場で行えば、わたしたちは多くの金貨を得ることができたでしょう。

 感動は必然、喝采は当然。わたしたちの舞台は観衆を虜にして、大成功を収めたのです。わたしの書いた台本、その筋書きは実のところありふれていますが、しかしだからこそ万人の心を揺るがしました。こうしてそのオリジナルの悲劇は演劇部の宝となったのです。おそらくは。


 かくして私はトラと呼ばれることになりました。そうです、悲劇(tragedy)から取られたのです。トラだけに。

 小学生の頃から、ごく一部の人間を除き、苗字に「さん」をつけてのみ呼ばれてきた、すなわち畏怖されてきた女の子であるわたしにとって、はじめてのあだ名でした。それはわたしの功績を讃え、敬慕し、崇める呼称に違いなかったのです。

 そうです、わたしの天下がやってきたのです。しかしなんということでしょう、天下は三日も続きませんでした。


 頭の中に年中ラフレシアでも咲かせているような女子生徒、演劇部員の一人がぽつりと口にしたのです。トラというには、あまりに小柄で可愛さがあり過ぎるので、より適切な呼称に変更すべきだと。

 彼女のわたしへの評価、その前者は客観的事実であり、高校生になった今なお平均身長に届かぬことは甚だ残念ながら否定できません。対して、後者については同性の口にする可愛いなんて、はっきり言ってまるで信用できませんから、皮肉の一つであったのでしょう。いずれにせよ、彼女の発言にどういうわけか部員たち皆が賛同し、新たな呼び名を議論し始めたのです。

 いやにトラに詳しい一人の部員がいました。彼がまず部員たちに伝えたことは、現存しているトラが、ベンガル、アムール、アモイ、インドシナ、マレー、スマトラ、この六種に分けられることでありました。

 そうしてアムールをもじったアムちゃん派とマレーをもじったマレちゃん派との論争が勃発したのです。わたしはごく少数のベンちゃん派を真っ先に征討し、この意味のない闘いに終止符を打たんと奔走しました。

 

 狩りは思わぬ結末を迎えます。わたしは茶トラと呼ばれることになりました。

 見てくれのいい男子に対しては常ににゃんにゃん♪と猫を被っている、見てくれの悪いとある女の子の、何気ない一言によって決まったのです。茶トラでいいじゃん、と。同じ猫科だからちょうどいい、と得心する周囲にわたしは訴えました。あなた方は動物園に行き、トラと題された檻の中に道端で遭うような猫が居座っていてもいいのかと。あるいは逆に路地裏を徘徊するのが、野良猫から獰猛な虎になってもかまわないのかと。

 その頃の彼らがたとえば『山月記』でも一読していれば、結果は違ったかもしれませんが、わたしの訴えは猫の毛についた蚤のような扱いを受けたのでした。

 

 とはいえ茶トラの天下は三週間も続きませんでした。

 なぜかわたしの(あだ名の)影響で茶トラを飼い始めた女の子がいたのですが、その猫が不慮の事故で亡くなってしまったのです。それはひたすらに悲しい出来事でした。そして彼女は例の劇、まさに演劇部の快進撃においてはヒロインを演じていました。可憐な彼女の素晴らしい演技に魅せられ、入部してきた生徒もわんさかいました。そうした彼らが率先して、わたしの呼称が不謹慎であると主張しのです。やがてわたしは再び、苗字に「さん」をつけられて呼ばれるようになったのです。

 

 そうして中学最後の公演が近づいた頃、わたしは軽トラと呼ばれました。

 年中、廊下を走り回っているような男の子たちによってつけられた蔑称でありました。わたしはべつに一緒になって走り回った覚えなどありません。

 その軽自動車に区分される小型トラックというのはある意味でトラよりも恐ろしく、人類の築いた文明の賜物であります。最大積載量は三百五十キログラム以下で、近頃は四輪タイプが主でありますが、かつては三輪タイプが主流であったことが調べるとわかりました。

 

 しかし軽トラの天下は三日も続かせませぬ。

 わたしは可及的速やかに事態の収束に乗り出しました。血を流す覚悟で臨んだ闘いは、運よく、汗と涙のみが流れるだけで決着がつき、わたしが演劇部を去るという形で幕を閉じたのです。

 舞台に立たない一介の脚本家ごときでありましたわたしは、彼らの最終公演を観ることなく受験勉強に専念し始めました。かつてわたしを慕い、賛美さえした人々は既にわたしの顔も名前も記憶から消去してしまったようでした。

 時は流れ、卒業式を迎えました。わたしは独りで学校の中庭へと赴き、花壇の前に佇みます。桜の木もありましたが、卒業式の日にはまだ咲いていないのです。名ばかりの園芸部員や花の名前をろくに知らないアラフォー厚化粧女教師の園芸部顧問に代わって、わたしが密やかに手入れをしてきた花々を前に、一人、思いを馳せました。

 ほんの少しの後悔と新たな決意。白、黄、赤、紫。色とりどりのフリージアを慈しみながら。





「――――高校生になったら、わたしのことをこの美しい花を慈しむように『ふーちゃん』と愛しげに呼んでくれる友達を作ろう。そうして新たな物語を書き始めようって。そう決めたのです。どうですか?」


「私に訊いているの?」


「もちろんです、篠宮さん」


 私は惑う。目の前にいるのが同じクラスの女の子であるのは知っている。そして彼女とは高校に入学して二か月経とうしている現在、一度だって話したことがないのも紛れもない事実だった。座席にしたってすぐ隣や前後ではない。


「どうですかって言われても」


 困る。よくわからない。


「ですから、わたしのことを『ふーちゃん』と呼んでかまわないと申し上げているのです。どうぞ。さぁ、いますぐに」


 話の中身、その口調に不釣り合いな無表情で彼女は。

 私はこの状況を整理する必要性を感じた。

 ところは図書室。時間は放課後の午後五時過ぎ。夕暮れ。

 図書委員として私は受付カウンターの内側の椅子に腰掛けている。水曜日の放課後担当の委員はもう一人いるはずなのに、まだ一度も出会ったことがないのはどうしてだろう。しかるべき相手に抗議すべきなのだろうが、そうするほうが億劫なので一人でこなし続けていた。

 蔵書数の少なさと更新頻度の低さだけが理由ではないのだろうが、担当時間内の利用者数が両手の指の数を越えた覚えのない図書室だ。

 それとも、私が担当する日のみが特別なのだろうか。だとしても不満があるわけではない。楽な仕事であるに越したことはないのだ。

 部活に入らず、いたずらに人と関わらず、図書委員として貸出・返却等の業務を担う者でありながら、カウンターでぼんやりと、ゆるゆると呆けて過ごすのも悪くない。退屈をつぶす手段は部屋の中にいくらでもある。とはいえ、もとより文学少女とは言えない私は活字を目にしたくない日だってあるのだけれど。

 そうだ――――。 

 今さっきまで、いつもどおり馬鹿みたいに喚く運動部連中や吹奏楽部が鳴らす楽器の音を、耳に入れるか入れないかしながら、私はうとうとしていたのだ。

 そしてその意識は、勢いよくスライドされたドアの音によって、正常を通り越し、かき乱されることになったのだ。そうして入ってきたのが今、目の前にいる一人の女子生徒。本を持たずにカウンターに近づき、座る私を見下ろす小柄な彼女。両耳が隠れる、肩にかかる長さの髪は黒。今月から切り替わった真新しい夏服のブラウス。その白さが夕の色を受けて映える。整った顔立ちに何の表情も浮かばせず、彼女は私の名前を確認してから、出し抜けに語り始めたのだった。長々と。

 

 そんな場面だ。整理は完了した。だが、混迷を抜けられはしなかった。

 逢魔が時と言うにはどうにも闇夜の先触れを感じさせない、静穏な茜色の空間で彼女は私を見つめていたのだった。

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