第4話

 兄達が出掛けてから一時間程読書をしていたサラだったが、ふと何かを思い出したように立ち上がった。机に近付くと引き出しを開けて白い紙と黒い紙を十数枚ほど取り出す。それから白い紙には朱墨で異国の文字を、黒い紙には金泥で魔方陣をさらさらと描いた。寄ってきた黒猫が机に飛び乗り、サラの描いた札を見て呆れたような声を出す。

「君って人間で言うところの罰当たり……いや、無節操……かな?」

「そうですか?」

「そうでしょ。だって君が描いたこっちの札は異国の祓い人が使う術だろう?それでこっちは悪魔信仰の人間が使う黒魔術だ。教義も理念もあったもんじゃないな。一つの鞄に聖典とエロ本入れて持ち歩いてるくらい不謹慎だよ」

「……」

 サラは顎に手をあて、首を微かに傾けた。           

 よりによって高位悪魔に慎みとは何たるかを説かれるとは。

「んー……鞄にその二冊を入れて持ち歩くのは不謹慎というより不用心かもしれないですね。しかし私が思うに、頭の中に聖典とエロ本と悪意と善意を詰め込んだのが人間という生き物なのでは」

「なるほど?」

「そういう闇鍋な所が面白いし、だから愚かだったり尊かったりするのでは」

「へぇ、君はそんな風に思うんだ?」

「まぁ……閣下にとって人間は食料ですから内面はあまり関係ありませんか」

「そんなことはないさ。崇高な魂が地に堕ちた時が一番美味しいのだから、中身はとても大切だよ。輪廻の輪を噛み砕くあの食感がとてもいい。君もそうだったろう?」

「さぁ。私は人の魂は食べなかったので」

「ああ……そうだったね。信じられない。君は魔界で唯一、魂を食べない悪魔だった」

 サラの前世、眠気や怠惰を司る女悪魔ブーシュヤンスターは眠っている人間に更に眠気を吹き込み、怠け者にしてしまう能力を持っていた。魂を食べるのではなく、怠惰に転がり落ちる瞬間に弾ける罪悪感を餌にしていた。

「魂アレルギーで……」

「その可愛い小さな口で下品に魂を食らうところが見たかったのに」

 くっ、と彼が嗤った。

 ……アスモデウス。

 七つの大罪、色欲を司る大悪魔。その名に恥じぬ巨大な魔力。

 何の前触れもなく彼が声に魅了の力を含ませ、その声がサラの鼓膜を震わせた瞬間、頭がくらくらして気が付けば床に仰向けに倒れていた。はらはらと宙を舞った札が落ちてくる。

 カーペットが受け止めてくれたおかげでどこも痛くはないが平衡感覚が失われた身体は暫く立ち上がれそうになかった。

「……」

 サラは前世の記憶と知識を引き継いではいるが魔力に関しては残滓と呼べるものが残るだけの只の人間でしかない。かつて友人であった時には何ともなかったアスモデウスの魔力が今のサラにとっては強力な毒だ。

 諦めて天井を見つめるしかないサラの視界の端に艶やかな黒い毛並みが映った。

「身体が痺れてるんですけど~……」

「可哀想に。でも俺は優しいから君に四つん這いになって足を舐めろなんて言わないよ。そのままでいい」

 猫が器用に髪を掻き分けて耳を噛んでくる。水音が響き、甘い毒を間近から注ぎ込まれたかのように脳みそが揺れた。

「う……」

「消滅寸前の君の口に、幼い魂を入れたんだ。食べやすいかなと思って。でも君はすぐに吐き出してしまった。だから俺がそれを噛み砕いて口移しで飲ませてあげたんだよ?」

 黒猫の声が聞こえる度に力が抜けて、視界に白い靄がかかっていく。

「あら、それはお手数をおかけしましたぁ……」

「覚えてないかな。君が飲み込もうとしないから何度も舌で喉奥まで押し込んであげた。君は眠っていたけれどその度にえずいて、子供みたいに嫌嫌って首を振って、眉間に皺を寄せて目尻に涙を浮かべてた。無意識に俺の舌を噛んできたんだ」

「えーと……ごめんなさい、で合ってます?返事」

「どうして謝るの?あの時の君はとても可愛かった」

「……施虐狂者サディストだぁ」

「結局君は飲み込まなかったけどね。もしかするとあの時無茶したのがトドメの一撃になって君は死んでしまったのかも」

「……それはまぁいいですけど。どのみちあの時は魔力が枯渇していて遅かれ早かれという状態だったので。他の悪魔は知りませんが、私は充分永く生きたので生への執着はありませんでしたよ」

「俺がいたのに?」

「……っ」

 ガリっと耳朶を噛まれて思わずぎゅっと目を瞑った。

「もし次にそんな酷いことを言われたら、君の眼球に爪を立てて流れた血を舐めとってしまうかもしれない」

 怖いことをさらりと言いながら金緑の瞳がこちらを見下ろしている。数え切れない程の人間と悪魔がこの瞳に恋をしたことだろう。抗いがたい魅力を放つ宝石は、しかし誰のものにもならないし、傷付くこともない。けど……なんだろう?今は憂いを帯びて、とても繊細な光を宿している気がした。それを見ているとサラはアスモデウスに確かにとても酷いことをした気持ちになってきた。

 ……確かに自分たちは友人だった。

 彼が気まぐれに顔を見に来にきてはベッドに潜ったままの自分と他愛ない話をした。あの時間がサラは好きだった。彼もそうだったのだろうか?サラが思っていたより?

 自分が死んでいなくなることはアスモデウスにとって大したことではないと考えていたけど。何の相談もなくサラが死を選んだことを喉に引っ掛かった小骨みたいに不快に感じて、そんな気持ちを三百年抱かせていたなら……大変申し訳ないことをしてしまった。

「アスモデウス様」

「んー?」

「ごめんね」

「何が?」

「何だろう……謝るのも傲慢な気がするんだけど、でももし私が死んでから三百年の間に少しでも寂しい瞬間があったのなら……ごめんねと思って」

「君が本当に俺に謝罪したいのなら、教えて欲しいな」

「……?」

「聖人の居所」

 サラは美しい瞳から目を逸らすことなく、きょとんとした表情になった。

「聖人……ですか?」

「人間の魂を喰らわなかった君がどうやって生き永らえていたのか。それは君が特別な魂からエネルギーを得ていたからだ」

「閣下、誤解です。私は勤勉な人間を二度寝させるだけの悪魔ですよ」

 焦った顔を見せるサラにアスモデウスは妖艶に笑った。

「君はね、俺が知る中で最も嘘つきな悪魔だから油断ならない」

「……」

「いつか伝承になるような聖人の誕生を未然に防ぎ、その魂を堕落させて輪廻の輪から外すこと……それが魔界にとってどれほど重要な事であるか知らないはずはないね?君は聖人となる魂を検知するすべを知っていた。その魂の輝きを得ていたから君は永く生きられた。君はただ勤勉な人間を寝坊させただけと言うが、その人間が聖人なら?もし寝坊しなければ戦争を終結に導く英雄になったかもしれない、神の御告げに殉じ伝説になったかもしれない……」

 再び、誤解です閣下~と言おうとして止めた。彼はすでに確信しているし、サラにはそれを否定するための証拠を示せない。

 やはりサラには四肢を投げ出して虚空を見上げることしかできないらしい。

 その時にわかに屋敷の中が騒がしくなってきた。

 何かが割れる音、男達の怒鳴り声、近付いてくる焦った足音。

「……」

 サラは芋虫みたいに指先を這わせて、先程床に落ちた札を探した。くしゃっとした感触に指が当たると、さっと札を掴んで空へ放った。それはたちまち人形ひとがたに膨れ上がると、シンフィールド家のメイド服を纏った女性へと姿を変えた。颯爽と音に向かって走り出そうとするメイドを呼び止め落ちた札を全て拾ってもらい、白い札を同じようにメイドに変えた。黒い札は口に挟みフッと吹き飛ばすと、まるで意思を持っているかのようにスーっと部屋から飛んでいった。

「あの札の効果は?」

「あれは空間の認知を歪めるもので……まぁ悪い人達が真っ直ぐ私の部屋まで来られるように誘導するものです」

「悪い人?」

「今日強盗が押し入ると占いで出たものですから……」

「ああ……だから記念日なんて言って使用人達を追い出してたんだ。ふふ、占いまで出来るんだ?というか来ることが分かっていたなら屋敷から退避していればよかったのに」

「そうすれば彼らは別の屋敷に押し入るだけでしょう。強盗に拐かされたなど令嬢にとっては一生付いて回る醜聞だろうし、まぁ私が適任かなと」

「君も今はご令嬢のはずだけど」

「『七回婚約破棄』の前では霞むでしょう。私にとっては今更どうってことのない醜聞です。……おっと、来たかな」

 床を踏みつけるような粗野な足音が迫ってくる。令嬢が床に寝ていては不自然極まりないし、アスモデウスに向かって拘束を解いてほしいと訴えようとした時、聞き覚えのありすぎる、しかしここにいるはずのない声を聞いた。

「サラ!」

「……お兄様?」

「サラ!無事か!?何で倒れてるんだ、具合悪いのか!?」

 部屋に飛び込んできた兄を見てサラは思わず固まってしまった。

「……お兄様、出掛けたはずでは?」

「何となく胸騒ぎがして予定を切り上げてきた。そうしたらガラスが割れる音がして……、どうして誰も駆け付けないんだ」

「それは……」

 普段サラの世話をしてくれているメイド達には用事を言い付けて町に行かせたし、それ以外の使用人はサラの使った札の効力でこの部屋に辿り着けないからだ。

「とにかくこの屋敷に押し入った連中がいるみたいだ。立てるか?」

「……いえ。あの、腰が抜けてしまって」

「分かった」

 頷いたトビアがサラを抱き上げる。

「え、お兄様。私の事は気になさらず、先にお逃げ下さい」

「無茶言うな」

 サラを抱えて部屋を飛び出したトビアだが、今この屋敷の通路は制限されている。サラの術のせいだが、普段通れる廊下を認知出来ないのだ。

「それにしてもどうやって敷地内に侵入できたんだ。成金らしく防犯には気を付けていたはずだが」

 それは多分誰かが手助けしたから……。人の知恵など意に介さぬ、人ならざる者の入知恵があったからだろう。黒猫の姿をした悪魔とか。

「……」

 いずれにせよ、この件はサラの制御できる範囲を越えてしまった。兄が向かう先から複数の足音が聞こえた時、サラは微かに溜め息を吐いた。

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