第3話
左手の薬指には血が滲んでいた。血が指の付け根に沿って垂れて、赤い環となっている。サラは素早く血を拭うと繊細なレースの施された黒い手袋をはめてから扉に向かった。
黒猫が再びベッドに戻り、柔らかなシーツの上で寝そべるのが見えた。
「お待たせしました~」
「ああ、サラ。部屋で寛いでいる時にすまない」
「いいえ。あら、お客様ですか?」
兄の肩の向こうに人の気配を感じてサラは瞬きした。トビアが笑顔で頷く。
「うん。大学の友人なんだ。これからも時々家に来るだろうから顔を見せておいた方がいいと思って」
「そうですか。こんにちは。いつも兄がお世話になっております~。サラ・シンフィールドと申します~」
「はじめまして」
ぺこりと頭を下げたサラの耳に届いたのは揚々のない生真面目な印象の声だった。顔を上げると黒縁眼鏡の奥にある理知的な碧眼と視線が交わる。蜂蜜色の髪の整った顔立ちの青年がじっとこちらを見ていた。
「サラ、彼の名前はアザリアだ。少し……少し?いやかなり無愛想なんだが根はいい奴なんだ」
兄トビアが快活に笑いながらシンプル過ぎる人物紹介を口にする。まぁ彼にかかれば、この世のほとんどがいい奴なのだから他の説明はいらないのだろう。
「はじめまして、アザレア様」
「貴女がサラ嬢ですか。お噂はかねがね伺っております」
噂ね。どの噂だろう。ろくでもない噂しかないと思うけれど。
「朝露から生まれた妖精のように愛らしい方だと」
「ん?」
いやぁ、どう考えても世間に蔓延しているのは『七回婚約破棄の悪魔憑き娘』だと思う~。しかし常識的な人物ならそんなことは当然本人の前では口にしない。アザレアは常識人で、人の傷口に塩を塗りつけるのが趣味のどこぞの悪魔とは違うようだった。
「妹君と君はあまり似てないな」
アザレアがトビアに言うと、兄は自慢気に胸を張った。
「そうだろう。サラは曾祖母の銀髪を受け継いでいるんだ。このご先祖様は若い頃天使に求婚されたこともあると言われたほど美しい人だったんだ」
そう言ってにこにこと笑うトビアの栗色の髪と薄茶色の瞳は確かにサラとは全く違う。彼は両親どちらにも似ていて、母親譲りの愛嬌のある顔立ちと父親の人懐っこい笑顔を受け継いでいた。
「ああ、ところでサラ。俺たちは今日これから町へ行くんだが、サラも一緒に行かないか?」
「今からですか?」
「最近、全く外出してないじゃないか。サラは昔から面倒くさがりだけど、この所益々肌も白くなって腕も細くなって、冬の時期のオコジョみたいだ。可愛いよ。けど兄としては心配だ」
「あはは」
サラは思わず笑ってしまったけどトビアの目は真剣だった。兄は婚約破棄して間もない妹の心中を慮っているらしい。
「ありがとうございます。ご心配おかけして申し訳ありません。ですがお兄様の仰られた通り、私は前から出不精でしたよ。気が塞いでいるから出掛けないわけではありません。でも心配してもらえて嬉しいです~」
「出掛けない?」
「実は私は今日珍しく用事がありまして」
「うん?用事?」
「はい。お兄様は今日が何の日かご存じですか?」
「いや、すまん。知らん」
「ふふ~今日は実はお父様とお母様の初デート記念日なんです」
「へぇ。気まずい日だな!」
「えぇー……我々家族の始まりの日かなって。お祝いしたらいいかなって」
「おお、感性の違いだな。いいと思う」
「はい。それで屋敷の皆さんにお手伝いいただいて準備を進めている最中です。花束とケーキとご馳走を用意してもらって、私は飾り付け担当です」
「俺は?」
「町へ出掛けられるそうです」
「いや、そうなんだが」
「お兄様が次代を担う者として見識を広められること、心身ともに健やかに成長されることが両親への一番の贈り物となるでしょう。今日も一日、元気にお過ごしください」
「うん、分かるよ。とても重要なことだな。それはそれとして俺も一緒に祝いたい。仲間に入れてくれ」
「では二人におすすめの本を選んできてあげてくださいませ。お父様もお母様も読書家ですから」
「分かった」
にっこり笑うサラを見下ろして、トビアが手を伸ばしてくる。それからわしゃわしゃと頭を撫でられた。今朝メイドが完璧に整えた髪は大変乱れたことだろう。
「お前が笑っていることが一番の贈り物だよ」
慈雨のような優しく沁みわたる声で兄が言った。
「あ、すまん。髪が変になった」
「そうですねぇ」
「あーまたマリアンヌに怒られる。サラの髪に触るとめちゃくちゃ機嫌が悪くなるんだよな」
マリアンヌというのは昔からサラのお世話をしてくれているメイドの名前だ。彼女はサラを完璧な淑女にすることに情熱を傾けていて、それを乱すと雇い主であっても怒られる。
「……失礼」
その時、控えめな声とともに伸びてきた手がサラの髪に触れた。顔を上げるとトビアの隣に立っていたアザレアが冷静な表情でこちらを見下ろしていて、手早くサラの髪を整えるとすぐに手を引っ込めた。
「わぁ、すみません」
「君は器用だな!ありがとう」
「いや……」
「よろしければアザレア様も是非ディナーにお越し下さい。きっと父母も喜びます」
「……」
それには答えず、金髪碧眼の青年はサラの背後に目を向けた。
「あの猫は」
その視線はベッドで横たわる黒猫に注がれていた。
「はい」
「君の飼い猫か?」
「いいえ。高貴な野良猫です」
「そうか」
「撫でますか?」
その刹那。
どこから発せられたものであろうか。稲妻のような緊張感が大気中を駆け抜け、瞬時に霧散した。トビアが首をかしげた。
「何か今……揺れたか?地震?」
「私は何も感じませんでした~」
「……気のせいか。じゃあ……まぁ、とりあえず出掛けてくる。出来るだけすぐ戻るようにするよ」
「いえいえ、ごゆるりと。夜までに戻ってきてくだされば結構ですよ」
サラは笑って、兄とその友人に手を振った。
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