第2話

 シンフィールド家は海運業により一代で財を成した所謂成金ではあるが、シンフィールド夫妻は朗らかで嫌味な所がなく遣り手の商売人というよりは、明日にも詐欺にあって全財産を奪われそうな雰囲気を持っていた。

 そして実際幾度となく騙されているのだが、騙された先で良い縁を得て更に事業が拡大するという不思議な幸運に恵まれた人達でもあった。

 夫妻を知る人々は、この二人はお人好しで危なっかしく、しかし見ているとどうにか助けになりたいと抱かせる人柄ゆえに幸運を呼び込むのだろうと納得したが、シンフィールド家の繁栄を羨む口さがない人々からはこう言われた。

『まるで悪魔の力を借りたかのような幸運じゃないか』

 そして必ずこの台詞が続く。

『悪魔に捧げる対価は、娘の良縁らしい。その証拠にサラ・シンフィールドはこれまで七度婚約して、七度婚約破棄されているじゃないか』と。


 サラが何気なく化粧台を覗き込むと、鏡の中の黒猫が美しくも不吉な紫色の宝石をその愛らしい手で弄んでいるのが見えた。背後を振り返るのと同時にベッドから落ちた宝石がサラの足元まで転がってくる。恭しい手付きでそれを拾いじっと眺めた。

 一見アメジストのように見える。

 吸い込まれそうな深い紫の中心部は黒色に近いのに光の加減なのか表面の一部分だけが濡れたように青く煌めき、まるで傍若無人な悪魔に引きちぎられた宵闇が元の世界に帰りたいと泣いているかのようだ。

「綺麗だろう?」

 サラは瞬きしてベッドを見つめた。そこには落ち着き払った様子の黒猫が香箱座りしていて、甘い猛毒のような声はその猫の口から紡がれたものだった。自室には一人と一匹以外の姿はなく、その麗しい声を聞いた者はサラの他にはいなかったが。

「や、綺麗ですけどー……まぁ、とりあえずお返しします」

 そっと黒猫の前に置くと彼はまた爪で引っ掻くようにして弄び始める。

「あんまりねぇ雑に扱うと傷が付きますよ」

「もうこれ以上ないほど傷付けてあげたよ?だからこそ美しい、

 眺める金緑の瞳には満足げな光が宿っていた。どうやら本当に気に入っているらしい結晶の正体は彼の言う通り宝石などではなく……人間の魂だ。

 悪魔と契約し、願いを叶えた人間の末路。彼か、彼女か、魂だけになってしまっては生前の姿はもう分からない。分かるのは未来だけ。あの魂はこれからアスモデウスに愛でられて、撫でくりまわされて、味わわれて、それから腹におさめられるだろう。

 噛み砕かれて、二度と輪廻の輪に戻ることはできない。

「ある音楽家の魂だよ」

 サラの表情をどう解釈したのか、黒猫が口を開いた。

「才能はあったが彼の目指す至高の領域に辿り着ける程の才能はなかった。だから手伝いを申し出たんだ。君の一番大切なものを捧げてくれるなら望みのものをあげよう、とね」

「お手本のような悪魔的誘惑ですねぇ」

「彼は喜んでそれを捧げた訳ではない。欲望と誠実さを天秤にかけ、血を吐くほど懊悩していた。深い苦悩と絶望が彼の魂を成熟させ、狂気によって輝く様はあまりに美味しそうで何度も齧りそうになってしまったほどだ。さて、彼は願いを叶える為に俺に何を差し出したと思う?」

 かつてはサラも悪魔だったのだから正解はすぐに頭に思い浮かんだ。ただ同時に人の身体のどこかにある心という場所で、ハズレだったらいいなと願った。

「妻子の命だよ」

 あっさり伝えられた言葉はサラが想定していた答えと同じだった。最愛の人の命は悪魔との取引で使う極々一般的な供物といえるだろう。

「そうして契約は履行され、彼は理想とする音楽を書き上げた。めでたしめでたしという訳だ」

「その人は美しい音楽を誰に聴かせたかったんでしょう」

 ベッドから降りた黒猫がサラに向かってしなやかに跳んだ。爪を隠した柔らかな足がサラの膝を踏み、金緑の瞳が間近から見上げてくる。

「美しい妻は常に夫を支え、貧しい暮らしに不平不満を訴えたことなど一度もなかった。幼い娘は父親の膝の上でピアノを聴くのが大好きで、頬擦りされると笑い声をあげて喜んだ。彼もその光景を何より愛していたよ」

 黒猫がペロリとサラの頬を舐めた。

「至上の音楽を書き上げた後、床に折り重なるように倒れた妻子を見て、彼は自身の凶行を思い出した。罪に震えながら……その場で首を掻き切って死んだ。めでたし、だ」

「確かに悪魔から見ればハッピーエンドですね」

「かつては悪魔、今は人間である君は彼の人生にどんな感想を抱く?」

 ベッドに置き去りにされた、音楽家だったという結晶に目を向けるが見えるのは罪深い魂だけで、粉々に砕け散った彼の心はもうどこにも残っていなかった。

「ふむ……。音楽家の選択に感想は特にありませんが」

「そう?」

「先程の閣下の説明に興味深い部分がありましたね」

「へぇ?どこが?」

「『才能はあったが彼の目指す至高の領域に辿り着ける程の才能はなかった』の所です。閣下が齧りたくなるほどの才能の持ち主なら、きっといつかその領域に辿り着いたことでしょう。正確には『才能はあったが彼の目指す至高の領域に辿り着ける程の才能はなかった』ですよね。意図的に言葉を隠すのはまさに悪魔的所業で、流石できる悪魔の営業力は違います~」

 その音楽家が悪魔の囁きによってではなく自らの力で至上の音楽に触れることが出来たなら、きっとその楽譜は神を喜ばせる音色を奏で、後の世まで語り継がれる名曲となったことだろう。しかし悪魔の力を借りて書き上げた彼の曲はきっと演奏する者の精神を壊し、聴く者の心を狂わせる魔曲となったはずだ。

 つまりアスモデウスの行いは天界の力を削ぎ、魔界を勢いづかせ、ついでに閣下の腹も膨れる一石三鳥の振る舞いであったということだ。

 ふと鋭い爪が頬に触れた。面白がる口調の中にやや冷酷さを秘めてアスモデウスが言う。

「君は本当に悪魔らしくないね」

「もう悪魔じゃありませんからねぇ」

「そういえばこの家にまつわる噂を聞いたよ。君の合縁を供物に商売を成功させているんだって?すごいじゃないか。人間の娘にとって一度の婚約破棄でも大事件だろうに、それが七回とは」

「あら。お聞きになりましたか。私の華麗な婚約破棄奇譚を」


 一人目は貴族の次男坊。メイドと駆け落ちした為、婚約破棄。

 二人目も貴族の三男。隠し子がいることが表沙汰になりサラの両親が激怒。婚約破棄。

 三人目は貴族ではなく商人だった。事業は順調だが趣味のギャンブルに金をつぎ込みすぎて破産寸前だったことが発覚、その上シンフィールド邸から宝石を持ち逃げしようとしている所を見つかり婚約破棄。

 四人目から六人目も似たようなもので、金目当て、多情、そのどちらも……といった人間が続いた。

 直近の七人目は教師だった。貴族でも資産家でもないが、貴族の屋敷に家庭教師として訪れていた彼と、商談に赴いた父が出会って意気投合、縁談の運びとなった。実直な性格で生徒や同僚に慕われる男性……というのは表向きの姿で、実はこれまで何人もの女性を手にかけてきた連続殺人犯シリアルキラーだったことが判明……サラの目の前で逮捕された。


「……しかしねぇ、閣下なら分かるでしょう。我が父母がそんな人間ではないことは。むしろ子供達を溺愛している人達ですから婚約破棄の度に憔悴してますよ。彼らの成功は人徳ゆえで、私の不運は前世での悪徳ゆえ。誰のせいでもありませんね」

「俺の知る限り、君が悪徳に励んでいる様子はなかったけどね。寝てばかりだった、君は。文字通り、『死ぬ程』だ」

 ふふ、とサラが笑う。

「惰眠を司る悪魔としては誇らしい最期でしょう。大往生です」

 本当にサラの胸に去来する感情の中に後悔という成分は一ミリも含まれておらず自然と溢れた笑みだったのだが、不意に指先に走った痛みに顔をしかめた。

 見ると黒猫がサラの指に小さな牙をたてている。

「何ですか?」

「動かないでね」

 黒猫がそう言った途端、サラの身体は自由がきかなくなった。痛覚は残っているけれど、指一本も動かせない。

「声は出していいよ。痛い?」

「……」

 痛い。針に刺されるような痛みは不快で、だけど叫び声をあげる程ではない。黙っていると一際深く、指の付け根辺りを噛まれた。

「……」

「ああ、血が出てるね。舐めてあげる」

 ザラザラの舌が今度は手の隅々まで舐めあげてきて、流石に声を上げざるを得なかった。

「猫とはことごとく可愛い生き物のはずでは?」

「可愛いだろう?」

「いや、こんな十八禁オーラの猫いない……」

 視線だけ動かすと黒猫が熱心にサラの左手の薬指を噛んでいるのが見えた。

「八個目の婚約指輪をあげる」

「それはどうもありがとう……」

「本当だよ?人間界の身分なんて幾らでもあるし、どうにでもなる。貴族でも実業家でも、君の両親の気に入る顔で挨拶に行くよ」

「両親が望んでいるのは身分ではなく、内面ですのでね」

「七回見誤っておいて?」

「人がいいので」

たちが悪いな」

 指が濡れるのを感じながら、好きなようにさせていると扉の向こうから兄の声が聞こえた。

「サラ、いるか?」

「はい。います。あ、いますけど、ちょっと待ってください」

 閣下、と小声で呼び掛けると、ふっと身体に力が戻る感覚があって自由に動かせるようになった。



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