女悪魔が人間に転生したら友人だった悪魔が堕落させようとしてくる

のむらなのか

第1話

 眠気と怠惰を司る女悪魔、ブーシュヤンスター。


 でした、私。かつて。


 私の仕事は、日の出とともに起きてくる勤厳な人間の枕元に忍び寄り、そっと囁くこと。


『起きる時間にはまだ早いですよ』


 そうして眠気を吹き込んでさらに眠らせ、怠け者にしてしてしまう。


 ……でもねぇ、ちょっと考えてみて下さいな。怠惰を司る悪魔が勤勉家でしょうか。絶対違うでしょ。ぜったい仕事サボるでしょ。というかサボらない訳ないでしょ。


 ……まぁ、そんなこんなで仕事をサボり続けた私は当然人の魂を食いっぱぐれ、上司からクビを言い渡され、それでもグーグー寝ていたら……身体が重くて動かなくなって、目蓋が縫い合わされたみたいに開かなくなって、意識が闇に溶けて……。


 気付けば、暗くて狭いところにいた。


 そこはろくに身動きがとれないほど窮屈。けど息苦しさは感じない。ならば窮屈ではなく『包み込まれている』という表現を使った方がしっくりくるのかもしれない。

 温かくて、守られているような安心感があって……こんな寝心地のいい布団があるのかと驚いていたら俄に周囲が騒がしくなってきた。

 え~何何?と思っていたら……急に布団を追い出された。何度経験しても布団を剥ぎ取られるあの不快感に慣れるつもりはない。


(ああ……!そんな無体な仕打ち……!)


 至高の布団を失い、流れ着いた先は……とにかく眩しかった。

 というか、うるさい。

 誰だろうか、このけたたましい泣き声は。


(ちょっとお静かに。安眠妨害ですよ)


 そう言おうとして……自分の喉から押し出せた言葉といえば。


『ほぎゃ、ほぎゃ、ほぎゃあぁぁ』


 ん???


 ……んんんーーー???


 何度か口を開くものの、結果は同じ。自分の口から声は出れど、言葉は出ない。

 ……つまり?

 さっきからうるさいのは……私?けたたましい泣き声は私?


 ……あら。


(ごめんなさい)

 謝罪も言葉には出来ないのだけれど、心から申し訳なく思う。

 ここがどこかは存じませんが、こんな騒音がよろこばれる場所はどこにもないだろう。いくら魔界広しといえど。


 その時、ふわりと身体が持ち上げられた。

 浮遊感。なのに大樹に身を任せているかのような安心感。知らないはずなのに何故か懐かしい匂いと、温かい手のひら。

(眩しい)

 ずっと暗い所で微睡んでいたから、眩しくて目が開けられない。けれど閉ざされた目蓋の向こうに光を感じる。

 光の中から声が降ってきた。


『神よ……感謝します。こんな可愛らしい天使を私達のもとへ遣わせてくださって……』



(んんんーーー?)



 「怠惰を司る女悪魔、ブーシュヤンスター……。資産家シンフィールド家の末娘サラとして転生の瞬間であった……」

「なるほど?」

 生い立ちを語るブーシュヤンスターを……いや、サラ・シンフィールドを、一人掛けのソファーに座った男が頬杖をついて眺めていた。

 月明かりだけがこの部屋の照明。だというのに男は光り輝いて見える……この世の者とは思えぬほど妖しく美しい男。

 まぁ実際、この世の者ではない。


『アスモデウス』


 それが彼の名だった。

 サラがまだブーシュヤンスターとして生きていた頃、彼は私を友人と呼んだ。彼は高位の悪魔だから自分なんかを視界に入れる必要はなかったのだけれど、このヒトは多分変わった悪魔だったんだろう。もしくは高貴な身分の御方のちょっとした気紛れと息抜きに自分はちょっど良かったのかもしれない。

 ……まぁ彼の事情や内心はよく知らないが、とにかく自分達は友人同士だった。


 しかし問題は今、彼が自分をどう思っているのか?ということである。

 あちらは悪魔で、こちらは人間。

 悪魔は人を誘惑して、甘やかして、踏み荒らして、堕として、汚して……やがて魂を啜るのだ。濁った魂は彼らの好物だから。

 そして悪魔は人の魂を美味しくするのに労は惜しまない。


 ……さて、彼は私のもとへ何しにきたのだろう。


「君の生い立ちも興味深いが……それは追々話そう。今はただこの再会を祝福しようか」

 アスモデウスが口を開いた。

 落ち着いた柔らかな声は不思議なことに、とても誠実に聞こえる。悪魔的ではない、まるで良き隣人のような声。

「そうですね~。アスモデウス様、お久しぶりです~」

「……」

 アスモデウスがゆっくり立ち上がり、ベッドサイドに腰をおろしていたサラに近付いてくる。

滑らかなシーツの上に置かれた自分の手。その上にアスモデウスの片膝が乗った。

 グーッと体重をかけられて、シーツが掌の形に沈む。

「本当に嬉しい?また俺に会えて」

「勿論」

 ニコニコと答えると、彼も微笑んだ。

「君がいなくなって三百年経ったんだ」

「三百年……」

 それは長い年月を生きる悪魔にとっては瞬き一つの間でしかないだろう。しかし人間として転生したサラにとって悪魔として過ごした日々は随分昔のことに思える。サラは懐かしい気持ちを素直に言葉にして相手に差し出した。

「会いに来てくださってありがとう、アスモデウス様。貴方のその、気に入らないことがあるとすぐに女を殴りそうなDV顔がとても懐かしいです。……あ、痛い!どうして!?」

 にこやかな表情を崩さないまま、今度はサラの鼻をつまみ上げ捻ってくるアスモデウスに思わず抗議の声を上げた。

「誉めましたよぅ。悪魔にとって悪徳こそ誉れでしょう」

「君は相変わらずだね」

「相変わらず?」

 どういうことだろう。随分様変わりしていると思うが。悪魔から人間に転生したのだから、むしろ変わってない所などない。実はこれまで何度か、人間に取り憑いた悪魔と街中で擦れ違ったこともあるがサラに気付いた悪魔はいなかった。

 だというのにアスモデウスは懐かしさを含んだ視線をサラに向けてくる。

「相変わらず奇妙な形の……奇妙な色の魂だ」

 悪口めいたことをさらりと口にした後、芸術品のような指がサラの頬に触れた。ひんやりとした手で両頬を包み込まれる。見上げていると、ゆっくりアスモデウスの顔が近付いてきた。

 鼻先と鼻先が触れ、それから額がくっつく感覚。グリグリと押されて、バランスを崩して後ろにひっくり返り、それでもまだマットレスに押し付けるように。

 鼻と鼻でキスをして、額を重ね、互いの頬をくっつけて、触れていないのはもう唇だけ。

 まるで人喰い虎にじゃれつかれている気分だ。

「気分しだいで頭蓋骨を噛み砕かれそう。遊んでるつもりでうっかりグチャグチャの肉片にされそう。でも例え私がベッドの上で死体に変わっても『おや?』と一言残念がっただけで一切の興味を失いそう~。でもそれが悪魔という生き物~」

「君ってよく喋るねえ」

「萎えました?」

「確認してくれる?」

「オーケー。局部出していただけます?」

「セクハラだよ?」

「え、こっちが?……え?こっちが?」

「ブーシュヤンスター……いや、サラと呼ぶべきかな。悪魔ぼくに禁忌はないけれど、人間きみは窮屈な法に縛られる立場だろう。気を付けなさい」

 え、こっちが?

 悪魔に倫理観を説かれるという奇妙な体験に首をかしげていると、アスモデウスはふっと笑った。

「君は昔のままだ。何も変わってない。嬉しいよ、憎らしいほどに」

「……」

 嬉しいと、憎らしい。

 一文にぶち込んでいたけれど、そんな境地があるものかしら。

 アスモデウスこそ相変わらず複雑な感情の持ち主である。

 このヒトとは友人であったけれど、

 一緒にいて心地好いとも感じるのだけれど、

 理解者であったことは一度もなかった。

 お互いに、相容れない領域を持っている。

 ぼんやりしていると、ふと身体が軽くなった。アスモデウスがやっと退いたのだ。

「ん、帰られます?」

「嬉しい?」

「絡みますねぇ。寂しいですよ」

「……」

 不意に訪れた沈黙をサラは不思議な確信を持って受け止めた。

 自分達の間にあった何かが今、終わりを迎えようとしているのだ。この三百年間、細く細く繋がっていた糸が切れる。

 サラはベッドに仰向けになったままアスモデウスを見上げ、静かに尋ねた。

「……アスモデウス様。私達はまだ友人同士でしょうか」

「違うかな」

「そうですか」

「君、人間になっちゃったから」

「そうですねぇ」

「だから友人じゃなくてさ、ご主人様になってよ」

「……ん~?」

 切れた糸が漂い、予期せぬ風が吹いて妙な所に繋がった。

「はい?」

「人間になったんだから、君は俺と契約して使役することができる」

「そうですね?」

 正しい手順を踏めば人間は悪魔を召喚し、契約を交わすことができる。その契約をもとに悪魔を僕とすることもできる。


 但しその代償は大きい。


 どれほど美しい容姿で、甘露のような言葉を耳に流し込まれても、決して頷いてはいけない。

 悪魔が人間の願いを叶えた時、契約は終わる。支払わなければならない対価は……


 魂だ。


「君のそばにいて俺がずっと守ってあげる。君の願いも全て叶えよう」

「貴方のお手を煩わせてまで叶えてほしい願いなんてないですよ、私には」

「本当に?」

 瞳の奥を無遠慮に覗き込まれ、低い声に脳味噌をかき混ぜられて、心の中を踏み荒らされる、そんな心地がした。

「……」

 サラが口を開きかけた時、コンコン、と扉をノックする音が聞こえた。

「サラ?大丈夫か?」

「……お兄様?」

 扉の向こうに来ているのはサラの兄、オリヴィエのようだった。

「さっきから話し声が聞こえるが、まさかこんな夜更けに誰か来ている訳ではないだろう

?」

 来てます。とも言えず、「大丈夫ですよ~」と返事を返す。しかし兄は納得して立ち去りはしなかった。

「……実は強盗が押し入っていて、お前にナイフを突き付けてそう言わせているだけかもしれない。心配だから中を確認させてくれ」

 昔から想像力豊かな兄である。しかも恐ろしいのがその突飛な想像があながち遠くもないという所だ。心配性が過ぎるのか……変に勘が鋭いのか……。

「はいはい、お待ちくださいね」

 何気ない風を装った返事を扉に向かって投げた後、サラはアスモデウスに向き直った。

「アスモデウス様」

「うん?」

「お聞きの通りですので、即刻出ていっていただけます?」

「どうしようかな」

「どうしようかな?」

「困ってるなら契約してあげようか。君を煩わせる全てものを俺が遠ざけてあげよう」

「サラ?」ともう一度兄の声。

「心配性のあのお兄さん、こんな夜遅くに君が男を部屋に連れ込んでいると知ったら卒倒するんじゃないかな?」

「……」

 確かに。

 もし兄がサラの寝室に見知らぬ男がいたと知ったら……あの人は顔を青くしたり、赤くしたりするんだろう。そして、すごく動揺しながら……こちらの話に耳を傾けようと努力するのだろう。

 その光景が安易に想像できてしまって、サラは微かに笑みを溢した。

 その時。

 耳元で吐息のように小さな声が聞こえた。

「……気が変わった」

「え?」

 アスモデウスはじっとサラを見つめていた。

「やっぱり今は助けない。君が俺に助けてって懇願するまで、俺は気長に待つことにするよ。多分そっちの方が、ここで契約するより何倍も楽しい」

「足元にすがりついて土下座させたいんですか」

「うん」

「なるほど……」

 アスモデウスが艶やかに微笑んでいるので、サラも穏やかに笑ってみせた。



 ガチャ、と鍵の開く音。

「サラ。大丈夫か……って、……猫?」

 オリヴィエが室内を覗き込むと、細い雨のような銀糸の髪を肩に垂らした妹が寝間着姿で立っていた。

 その胸元には黒猫が一匹抱かれている。 

 夜目にも艶めくその毛並み。翡翠と金が混じったような不思議な色の瞳。

「美しい猫だな。迷い猫か?それにしては随分懐いているが」

「昔からの友人です。久しぶりに会ったんですけど、私の事を覚えてくれていたみたいで。この子と二人で月見をしておりました。話も弾みまして~」

「その猫と喋っていたのか?」

「はい」

「ふむ……。確かに佳い月夜だな」

「心配していただいてありがとうございます。大丈夫です」

「そうか。楽しく月見をしている所、騒いですまん。けど夜は冷えるからもうお開きにして暖かい格好で寝なさい」

「はい、おやすみなさい。お兄様」

「おやすみ」



 立ち去る兄を見送った後もしばらく立ち尽くしていたサラだったが、突然指の股にザラリとした感触を感じて身を固くした。

「……何でしょう」

 腕の中に視線を落とすと、黒猫が指をペロペロと舐めていた。

「……」

 クッ、と猫が笑った。

 口の端を少し上げる笑い方だった。

 猫はそんな風に笑わない。

「アスモデウス様」

 黒猫に向かって呼び掛けるも、返ってくる言葉はない。

 そして優雅に床に降り立った黒猫が当然のようにサラのベッドに潜り込むのを見て、サラは長い溜め息をついた。

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