薬師川 夏芽
僕は伸びをする。寝てたら日向が動いちゃった。
いそいそと日向に足を運ぶ僕の目に、肩掛け鞄の紐をぎゅっと握る女の子が映る。見慣れない制服。俯いてて表情がわかんないや。どうしたの?何か嫌なことでもあった?僕を見て驚いた女の子はフフッと笑う。
「こんなところに、こんな可愛い子がいたんだ。たまには寄り道もいいかもね。」
いつもは寄り道なんてしないってことだよね?どうして寄り道したの?質問攻めしてみる。でも女の子は微笑ましそうに僕を見るだけ。あぁもうっ!
「……話、聞いてくれるの?」
ベンチに座って隣を叩いたら女の子はやっと反応する。そんな何も受け付けないみたいな、寂しそうな目してたら話を聞かずにはいられないじゃないか。僕、薄情な人間じゃないもの。
「じゃあ……失礼して…。」
ストンと腰を下ろした女の子は静止する。僕の心配をよそに、ホッと息を吐き出した女の子は話し出す。
「私……頭悪いの。物覚えは悪いし、耳からの情報は覚えるどころか理解できないことだってあって…。授業についてくのにも精一杯。でも、頭が良い友達と一緒のクラスでありたいから、特待生を落とすわけにはいかないから、いつも勉強漬け。みんなが楽しそうに騒いでる昼休みも、十分休みも、放課後だって。そのおかげで成績は上位にキープできてるんだけどね?」
この子の学校は成績別でクラス分けがされてる…ってことなのかな?成績別じゃなかったら勉強して成績が良くなっても、頭のいい友達と絶対クラス同じになるなんて保証ないもんね。
「と言っても親には足りないって、もっと上位になれって言われてるんだけど。」
それは大変だ。休息はちゃんと取れているかい?
「それで、今日の昼休みにね、隣の席の人たちがいつにも増してうるさくって…。トランプで遊んでたの。先生が前に、教室は勉強する場所なんだからうるさければ注意しなよって、そう言ってたのを思い出して私、注意したんだよ。そしたらなんて言ったと思う?」
女の子は声を振るわせる。
「私のこと、いい子ちゃんだって。いい子ちゃんぶって点数稼ぎして。ウザいんだって。目障りなんだって。煩いって。そう言われて…。私、何も言い返せなくて…っ!」
女の子は顔を手で覆ってしまうから、声がくぐもる。
「どう、すればいいのかな?ねえ、私は間違ってる?私の考えは、私のやってることは間違ってる?何もかもわかんなくなって、勉強の手を止めると親が変わらず言うの。何してるのって。
あぁ…どうにもできない自分が恨めしい。慰めてあげたいのに、抱きしめてあげたいのに、声は出ないし僕は汚いし…。
リリリリリと鳴る電話の音に僕は耳を立てる。あ、そっか。すっかり忘れてた…。案内するのが僕の役目なのに。
ベンチから降りる僕に夏芽ちゃんは顔を上げる。泣いてはいなかった。ただ、目は何も映してはいなかった。こんなになるまで夏芽ちゃんを追い詰めた人間に怒りを覚えながら、僕は電話ボックスに駆け寄った。
「あだ、ダメだよそんなことしちゃ…。入り、たいの?あ、ちょっとっ…!」
夏芽ちゃんが開けてくれた扉から中に入って受話器を落とした。頭の中にリーンと大きな音が響き渡る。
「あ〜…もう。こんないたずらしちゃダメでしょ?」
夏芽ちゃんは呆れ気味に電話ボックスの中に入って、受話器を
『もしもし。』
夏芽ちゃんは驚いて受話器を落とす。ゴムが跳ねて窓にコツンコツンと音を立ててぶつかった。
『もしもし、
「私……と、同じ苗字…?」
僕は理解する。きっと彼女なら。
夏芽ちゃんは僕を睨みつけると受話器を取った。僕のせいじゃないってぇ。
「もしもし。突然のお電話すみません。間違えてかけてしまったみたいで…。」
電話の向こうの女性が息を呑むのが聞こえる。
『……今、だったんだ。』
「え…?」
『すみません。独り言です。』
女の人は恥ずかしそうに笑う。
『あのよかったら、少し時間いいですか?』
「え、いや、あの……え、えっと…。」
『おばさんの独り言だと聞き流してくださっていいですから。ね?』
夏芽ちゃんは散々悩んだ結果、ゆっくり頷く。
「わ、わかりまし、た。」
『ありがとう。さっそくだけど、今、辛い?』
「え…?」
狼狽える夏芽ちゃん。知らない人から急にそんなこと聞かれたらびっくりするよね。
『大丈夫。あなたなら大丈夫。だから自分を信じて』
「…るさい…うるさい!」
僕は飛び上がる。び、びっくりした…。受話器を握りしめる夏芽ちゃんは真っ暗な目で叫ぶ。
「辛いって何?大丈夫って何?自分を信じる?自分が一番わからないのに?!私がこんっなに考えても全くわからないこと、私のことなんて何も知らないあなたにわかるわけない!!」
夏芽ちゃんの小さな息遣いが小さな空間に充満する。
「あなたにはわかんないよ。私が苦しいことなんて絶対に。どこにいても息苦しくて、どこにいても押しつぶされそうになる。息の仕方を忘れて、空気がなくて、息ができないの。沼の底にでもいるのかってくらい辺りが真っ暗で、冷たくて、痛いの。重力が私をいじめたいのか、人より確実に強いの。押し潰してきそうな重力に、歩くのもやっとなの。それなのに誰も辛いなんて言わせてくれない。そしたら…気づいたら楽しいも好きも嫌いも『わからなくなった。」』
「え…?」
『辛くて悲しくても涙なんて出なくて、出てくるのは笑顔だけ。偽物の笑顔貼り付けて、友達の話しに頷くのが日課。』
「な、なんで…?」
驚きが隠せない夏芽ちゃん。ほら、受話器落としちゃいそうだよ〜。
『知ってるよ。……ずっと見てきたんだから。』
「み、見てきたって……」
『夏芽は……助けてほしい?』
「助けて、くれるの…?」
どうして名前知ってるのかって聞かないんだね。それだけ動揺してるのかな?
「………もし、本当に…助けてもらえるのなら……助けてほしい、です。」
女の人はクスッと笑う。
「な、何がおかしいんですか!」
『何もおかしくなんてないよ。……ただ、懐かしくて。』
夏芽ちゃんは首を傾げる。まだ気づかないかぁ。
『私の言葉、聞いてくれる?』
「………わかり、ました……で、でもっ!ほ、ほんとに助けてくれるんですか…?」
『まぁ……それはあなた次第じゃないかな?』
「ど、どういう」
『あなたを助けるのは、あなた自身だから。』
「わ、私…自身…?」
『そう。あなたを助けられるのはあなた自身しかいない。どんなに…人の手を借りても完全に救われることはないから。』
しばらく沈黙が夏芽ちゃんを貫いた。女の人の言葉を噛み締めてるみたいだ。
『……だから、どうか自分の中の自分の言葉に耳を傾けて、信じて、慰めて、時には嫌って。一緒に生きてごらん。』
「でも私…!」
『大丈夫。ずっと夏芽ちゃんを見ていた私が断言するから。もし、ダメだったら私のこと引っ叩いていいから…なぁんてね。』
女の人は可笑しそうに笑った。
『頑張ってね。私、未来で待ってるから。』
「あ、ま、」
ツーツーという音が虚しく鳴る。夏芽ちゃんはしばらく突っ立って、変わらず寂しそうな背中を僕に向けて帰って行く。
心配、か…。……でも僕は断言できるからそんなことない、かな。あの子はちゃんと自分を信じて歩いて行ける。もうここには来ない。だって
あの声の女の人は未来のあの子だもん。
「あの時の女の人はきっと『私』だった。」
あの時は隠して、いないように扱っていた“私”。ねえ、お姉さん。私、今なら私がちゃんと私だって。そう言える。好きも嫌いも、楽しいも悲しいも、ちゃんとわかる。…あ、あの時は……ごめんなさい。お姉さんの方が私をわかってたのにね。それと……ありがとう。今でも辛いことなんて沢山ある。でもその時は、お姉さんの言葉思い出して頑張ってる。…頑張れてるよ。
「頑張る」なんて言葉大っ嫌いだったんだけどな。変なの。
「おっと…。」
鞄の中の携帯が鳴る音。取り出してみると、非通知…?私は恐る恐る電話を取る。
「もしもし。」
……応答がない。いたずら電話とかかなと思いながら、一応もう一度。
「もしもし、薬師川です。」
『私……と、同じ苗字…?』
……あぁそうか…。そういうことか。
『もしもし。突然のお電話すみません。間違ってかけてしまったみたいで…。』
電話の向こうの女の子は早口でそう言う。私は思わず言葉をこぼす。
「……今、だったんだ。」
『え…?』
驚く女の子に私は恥ずかしくなって笑った。
「すみません。独り言です。」
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