その夜出会った殺人鬼

 普通のアパートに普通より少し質素な暮らしをしている社会人6年目の僕。学生時代の成績も普通、給与も普通、強いて言うなら──仕事内容が少し精神的なダメージになっているということくらいだ。だがそれも、自ら状況を変えるだけの度胸と覚悟はない。だから、いたって普通の僕の生活は、何も変わらず続いていた。

 普通の大学を卒業して、このまま普通に働いて、特に友達も恋人もできないまま1人静かに人生を終えるところを想像すると、気が重いと言う他にない。

 だからその夜の帰り、いつもは通らない暗い裏道を歩いてみたのはほんの好奇心だった。この逃げ場も変哲もない日常に少しの変化をもたらしてくれることを期待して。あるいは自分が何をしたところでなにも変わらないのだと諦観したくて。

 普段は人っ子1人通らない、消えかけの街灯と十三夜の月の光だけが頼りの、暗い夜道を覗いた。静まり帰った空間に足を踏み入れようとすると、道の先に、淡い月光に照らされた長い髪を持つ女性の後ろ姿が、夜に白く浮かび上がって見える。かすかに話し声が聞こえることから、どうやら、その先にいる中年男性と話をしているようだった。

 ──その瞬間。鋭い刃物の音がした。僕が身構える間もなく、──女性の先で、ざくりとなにかが倒れた。

 非常事態であることは分かっているのに、僕の足は、その場に縫い付けられたように一ミリたりとも動かなかった。

 草陰から長身の2人組が飛び出して、女性に、正確には女性の足元に倒れるなにかを手際良く処理し始める。僕は浅い呼吸を繰り返す心臓に手を当てて、こんな目立つ道の真ん中にいてはダメだと悟る。

 忍び足で進み、あともう何歩かで明るい道路に出られそうだというところで、──履き慣れた革靴がコツンと音を立てた。

 振り返らなくても背に感じる、痛いほどの視線。恐怖で震える全身を叱咤しても、この状況を切り抜けるための策は見つからない。


「ねえ、お兄さん。──今、何か見た?」


 後ろから掛けられた澄んだ声。恐々と振り向くと、完璧に整った顔の美しい女性が、血で濡れたナイフを僕の首筋にかざしていた。

 何か言わなければと思うのに、喉はカサカサに乾燥して声が出ず、ただ無意味に口を動かすことしかできない。


「見たわよね? うん、良いわ。ついでだから、貴方も楽にしてあげる」


 問題ないわよね? とあくまで僕の視線を捕らえたままで問う彼女に、仕事を終わらせた2人組が静かに歩み寄る。


「あ、あ」

「可哀想な、不運な人。今日、私のこの高潔な仕事の邪魔をしなければ、貴方は明日からも変わらずにいられたのに」


 紅いルージュを引いた彼女の唇が、暗闇に映えている。それはこの状況に半ば諦めているから出てきた感想だった。人並みに辛いことはあれど平穏だった今までの日々が、走馬灯のように思い出される。


「死ぬ前に、最後にやりたいことはある?」


 なぜか、極限まで追い込まれたこの状態で、その彼女の問いかけだけはクリアに聞こえた。咄嗟に口から飛び出したのは。


「君と、付き合いたい」


 この場面にはちっとも似つかわしくない、気の抜けたような、平和ボケした言葉。

 だが。


「そう。じゃあ叶えてあげる」


 そう言って、彼女は僕にナイフを持っていない方の手を差し出した。


*  *  *


 彼女は『セイ』と呼べと僕に言った。本当の彼女の名前は『星』と書いて『すたあ』と読むのだそうだが、「誰がこんなメルヘンなだけのキラキラネームを貰って喜ぶと思ったのかしらね」と、彼女はその名を嫌っているようだった。

 セイはいわば『義賊』だと言った。裏社会を牛耳り、人を騙し殺める殺人鬼たちを成敗しているのだと。

 もちろん、僕はそれがほとんど嘘だと気づいていた。だがだからといって、セイを止めることは出来なかった。セイの機嫌を少し乱せば、この皮の首一枚繋がった僕の命はあっという間に失われる。僕がこの隠れ家に連れて来られてからもセイは他人を殺め続けているようで、それはもはや彼女の日課であるようだった。

 セイが不在の間、僕は監視カメラの取り付けられた独房のような部屋で、しかし拘束はされず暇を持て余していた。最初にざっと家の紹介をされた時、ここと同じような部屋がいくつかあったが、何の目的に使うための部屋なのかは明白だ。

 スマホは取り上げられているので、職場に休む旨の連絡を入れることも出来ない。結果として無断欠勤が続いてしまい、上司や同僚たちには申し訳ない思いが募る。


「レン、ただいま‼︎」

「おかえりなさい、セイ」


 玄関先まで迎えに行くと、帰ってきたばかりのセイがぎゅうと抱きついてくる。これも僕とセイの日課。僕が命乞いをするために言ったあの言葉を、彼女は『恋人同士がすることをしたい』と解釈したようだった。ちなみに、僕の名前は『レン』ではない。彼女が僕をそう呼んでいるだけだ。


「お風呂、沸かしておいたよ」

「ありがと! 今日はちょっと手こずっちゃったわ」


 両手を差し出すと、あは、と軽く笑って玄関に放り投げていた黒いコートを預けるセイ。そこにべったりと付着している血糊を見ても、もう僕は驚かない。


「ご飯は買ってきたから、あとで一緒に食べましょ?」


 彼女は家では包丁を持たない。前にキッチンを覗かせてもらったが、多分この家には家事用の刃物は置いていない様子だった。それが僕が現状この家で平和に暮らせている理由だ。


「それでね、レン、相談があるんだけど」

「なあに?」

「その……明日、デートに行かない?」


 照れくさそうに少し上目遣いで僕を伺う彼女は、どう見てもあの日と同一人物には思えない。

 そして、僕に拒否権はないし、別に異論もない。


「うん、行きたい」

「じゃあ、決まりね」


  *  *  *


 久々に外の空気を吸った気がした。セイの家に軟禁されていたこの二週間はやはり長かったのだと感じる。

 来たのは近くの遊園地だ。セイは終始僕の手を繋いで離さず、チケットを買うのも写真を撮る時もずっと繋いだままだった。彼女は街を歩いているだけで誰もが振り返る絶世の美女だから、園内を歩いている間じゅうずっと僕は他の客からの攻撃的な視線を受け続けていた。


「今日は楽しかったわ! ありがと、レン」

「僕もだよ」


 日が沈み空高く上る月の光が降り注ぐ中、僕はセイの上気した頬に優しく口づける。それから、この月夜の雰囲気に流されて、僕らは2、3回、唇を合わせるキスをした。

 セイの綺麗な顎の輪郭をなぞる。セイがくすぐったそうに笑う。


 手を絡めあったまま裏路地へ入ると、ふと、セイが纏う空気が変わる。そこには煙草をふかす若い女性がいた。


「レン、ちょっとこれ、持っててね」


 そう言ってセイは僕に手荷物を押し付けると、仕事用のスマホを取り出してどこかに電話をかける。相手は大方あの日の2人組と同じ類だろう。

 預けられたセイの鞄には、プライベート用のスマホが入っていた。見たところ僕のものと同じ機種で、操作性には困らなそうだった。

 セイはまだ電話で喋っている。彼女の視線は背後の僕ではなく目の前の女性に向いていた。

 

 鞄の中でスマホを操作し、『緊急通報』で『110』をダイヤルする。


 応答したオペレーターに、マイク口を近づけて今の僕の状況と、届く郵便物で知った彼女の家の住所を伝える。おそらく今この場に来てもらっても、既に掃除された後だろうから意味は薄い。

 ほとんど質問には答えられなかったが、彼らが駆けつけてくれることを願って通話を切る。それはセイが振り向くタイミングとほぼ同じだった。


「すぐ来れるっていうから、待ってましょ」

「う、うん」


 応える声が震えたが、セイが気に留める様子はない。彼女は服の袖から取り出したサバイバルナイフを手で弄んでいる。心臓の音がうるさい。

 その場は10分もしない内に片付いた。目の前で人が死ぬのを見るのは分かっていても慣れない。

背後で手早く作業をする2人組を尻目に、セイが歩き始める。


「帰ったらご飯にしましょ」

「うん。でもセイ、先お風呂に入ったら?」

「うーん? 今日はそんなに汚れなかったけど、まあそうね。レンがそう言うなら」


 このある意味変化に富んだ、セイとの日常。それに、今日終止符を打つのだ。


「こんな時間に、珍しいわね」


 帰宅して突如鳴ったインターホンに、セイが顔をしかめる。


 ──セイに『お迎え』が来たのだ。


「……貴方が、呼んだのね」


 屈強な警察官に連行されるセイを見た時、僕の胸に浮かんだのはこれで解放されるという安心感と──彼女に対する罪悪感だった。

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