第2話 裏—夏

 

「愚かだ。何もかも」


 ルフェル・ヴァールハイトはそう吐き捨てた。

 彼はかつて、この国の英雄と称えられた。

 この国を守るため、愛する人の側に居るため、彼は命を懸けた。

 だが、結果はこの有様だ。








 アイリーンと初めて会ったのは、もうかれこれ4年は前になる。

 彼女はその時既に、悪女と呼ばれていた。


『思ったより普通だ』

 それが初めてアイリーンに会った時の感想だった。



 しがない田舎の男爵家の三男として生まれた彼は、運よく授かった剣の才能を活かし、王宮騎士団の騎士として働いていた。

 才能はあるけれど、地位はない。

 彼を一言で表すなら、それに尽きる。

 その日も騎士団の鍛練で、彼よりも高位の家柄の騎士と対戦していた。

 たとえ実力が相手より優っていても、高位の相手には勝つことは出来ない。

 それが暗黙の了解だ。

 とは言ってもそれは鍛錬中の対戦の話であって、いざ実戦になれば関係がない。

 それ故、誰しもがルフェルの実力はよく知っていた。


『そろそろ負けよう』

 対戦で加減をするのは相手に失礼だ。

 いくら最後には手を抜くと言っても、全力で戦うことにしている。

 だがとどめは刺さないよう調整し、最後にふっと力を抜いて相手に主導権を渡した。



 その時、周囲が騒々しくなった。


 互いに打ち合いをやめ、騒動の中心を見てみると、そこにはアイリーンが居た。

 気まぐれで騎士団の鍛練を見に来たようだった。


 情けないことに、騎士たちは震え上がっていた。

 かつて騎士の1人が「汗が汚らわしい」という理由だけで、処刑されてしまったことがある。

 それだけではない。

 アイリーンに目をつけられた騎士は誰1人、生きて戻ることはなかったのだ。


 ルフェルもアイリーンを警戒していた。

 大した運動にはなっていないので汗はかいていないが、因縁を付けられぬよう手早く身なりを整える。

 しかし、どういう訳かアイリーンはルフェルの方に歩み寄り、彼をじっと見つめると、口を開いた。


「あなた、さっき何故急に手を抜いたの?」

「……いいえ。あれが私の実力です」


 ルフェルは内心驚きながらも、表情には出さないよう答えた。

 背中に冷や汗が流れる。

 アイリーンに対し、嘘をついてしまった。

 とはいえ、表向き「実力主義」と謳う騎士団の不文律を晒すのは、騎士団の恥部を晒すようなものだ。

 それにあからさまに「手を抜いた」と言うのは、対戦相手を馬鹿にする行為だ。


「そう……。あなた、明日からの旅行について来なさい」


 アイリーンはそれだけ言うと、踵を返して去っていった。

 ルフェルは今度こそ驚き、思わず口を開けて惚けてしまった。

 一体何を言われたのか。

 どうしてなのか。

 何も分からないまま、翌朝、彼はアイリーンと共に避暑地へと向かうことになった。


 彼が出発する時、騎士たちは皆同情するような視線を向けた。

 きっと、彼はもう帰ってこられないだろう。

 誰もがそう思った。



 そんな彼らの心配を他所に、旅程は滞りなく進んだ。

 予想に反してアイリーンは何も我儘を言わなかったし、使用人をいびるようなこともなかった。


 けれどある時、事は起こった。

 アイリーンが急に、ルフェルだけを連れ森の中を歩きたいと言い出したのだ。

 馬車の中ばかりで息が詰まる。

 気分転換がしたいと。

 この辺りは景色がいい訳でもなく、狼が出ることもあり危険で、王女であるアイリーンが散策するには適さない。

 そう周りが説得しても、彼女は聞かず、そのまま歩き出してしまった。


 一介の騎士にすぎないルフェルは、ただアイリーンの言葉に従うしかなかった。


「どこまで行かれるのです、殿下」


 思ったよりもアイリーンがどんどんと森の奥に進んでいくため、ルフェルは不安になりそう尋ねた。

 すると、アイリーンは足を止めずちらりとルフェルに目をやると、再び前方に目を向けながら言った。


「そうね、あと20フィートくらいかしら」


 やけに具体的な数字にルフェルは不思議に思ったが、それから暫くして、彼女の目指していた場所が分かった。



 そこには、寂れた村があった。

 村と言うよりも、幾つかの家が集まっただけの集落という方が正しいだろうか。

 確かに誰かが生活していた名残があるのに、どうにも人気がない。

 アイリーンは迷いなく、しっかりとした足取りで村の中を進んで行った。

 まるで、来たことがあるかの様だった。


「来たことはないわよ。地図を見ただけ」


 ルフェルの考えを悟ったように、アイリーンは言った。

 ルフェルは混乱していた。

 目の前の悪女が何を考えているのか、何が目的なのかさっぱり分からない。

 しかし不思議と、噂の様な恐ろしさは感じなかった。

 考えてみれば当然だ。

 彼女の顔にはまだ、成人したばかりの少女の面影が残っているのだから。


 ルフェルが思いを巡らせていると、彼女は一つの家の中に入った。

 至って普通の民家の様であるが、人影はどこにも見当たらない。


「これから地下に向かうわ。たぶん2、3人の見張りと戦闘になるはず。あなたなら問題なく倒せるでしょう」

「見張り……? 一体ここに何があると言うのです?」

「行けばわかるわ。大丈夫。あなたが戦う者たちは、到底生きる価値のない者ばかりよ」

「それはどういう……」


 ルフェルが言い終わる前に、アイリーンは民家の奥へと向かった。

 キッチンに入り、アイリーンが何やらきょろきょろと見回す。

 そして一つの戸棚に目をつけた。


「これを動かして」

「殿下……一体何を……」

「良いから。早くして」


 ルフェルは溜め息を吐くと、渋々言われた通りに棚を横に動かした。

 すると、そこには地下へと続く階段があった。


「音を立てないように」というアイリーンの指示に従って一歩一歩階段を降りていく。

 すると、思わず鼻を塞ぎたくなるような悪臭と、数人の男たちの声が聞こえてきた。


『早く上に上がりてえな。臭くてたまんねぇよ。あー酒が飲みてえ』

『この商品出したら、また纏まった金が入るんだ。辛抱しろ』


 声から2人の男が居るようだ。

 ルフェルは壁に張り付き、様子を伺おうと覗き込む。

 するとそこには、目を疑うような光景が広がっていた。



 長方形の、さほど広くない部屋の一面に鉄格子がはめられ、男たちは鉄格子の前で剣や斧を持ちながら座っている。

 鉄格子の奥には、十数人の子どもたちが詰め込まれていた。

 悪臭の正体は、子どもたちの排泄物や彼ら自身の臭いのようだった。

 横になるスペースなどありはしない。

 文字通り、子どもたちが押し込められている。

 まるで、家畜のように。



 あまりに。

 あまりにも惨い。



 かつてこれほどまでに劣悪な環境を見たことがあるだろうか。

 一体ここで何日間過ごしているのだろう。

 既に諦めてしまったのか、誰一人助けを求めたり、声を上げる様子はない。

 皆、体を寄せ合って震えているだけだ。


「この子どもたちは、一体……」

「人身売買の商品よ。この村は商品の受け渡し場所で、今は人は住んでいないわ。元居た人々は殺されたの」

「まさかそんな……」


 この国で人身売買が禁止されて久しい。

 過去から現在にかけて、かなり厳しい取り締まりが行われており、売買組織はほぼ壊滅したと言われていた。

 それなのに……まさかこれほどまでの人数を集めている大規模な組織が残っていたとは、夢にも思わなかった。



 ルフェルは、心の中に怒りの炎が燃え上がるのを感じた。

 こんなことは、最早人間のすることではない。


 アイリーンに言われるまでもなく、ルフェルは自ら剣を抜いた。

 そして無言で、1人に斬りかかった。


「うわぁっ! なんだお前は!」


 残された男は慌てて剣に手をやるも、それを抜く暇などなく、ルフェルに斬り捨てられた。


「あら。戦闘にすらならなかったわね」


 アイリーンは少し離れた所でその一部始終を泰然と眺め、機嫌良さそうに呟いた。



「殿下は……この子たちを逃す為に、ここまで来られたのですか」


 悪女と名高い彼女とは全く結びつかない帰結だが、状況を見るにそうとしか考えられない。

 ルフェルは、大きな驚きと幾ばくかの期待と尊敬をもって、そう尋ねた。


「いいえ、まさか」


 アイリーンは可笑しそうに目を細めて、首を振った。


「そんな事しないわ。あの子たちは、わたしのものにするのよ」


 そう言って、不敵な笑みを浮かべた。


「……どういうつもりですか」

「あなたは知らなくても良いことよ」


 アイリーンはルフェルの前を素通りし、床に骸となって寝転ぶ男たちには目もくれず、鉄格子の中の子どもたちに対峙した。


「いい? あなたたちはこれから、わたしのものよ。あなたたちをここから出してあげる。逃げても無駄よ。ここは深い森の中。一番近くの村まで、大人の足でも1日はかかる。今のあなたたちでは、生きては辿り着けないわ。生きたいなら言うことを聞きなさい。これから荷馬車に乗って町に行くわ。そこでわたしのために生きなさい」


 決して大きな声ではないが、よく通る美しい声でアイリーンは言った。

 子どもたちの目には、警戒、恐怖、不安とあらゆる色が揺れている。

 けれど誰も何も発しなかった。

 今よりももっと酷い状況になるかもしれない。

 今の状況より悪いことなどないかもしれない。


 子どもたちの命運は、全てアイリーンが握っていた。



 ルフェルは思う。

 アイリーンの言うことは正しい。

 健康な時ならまだしも、彼らは決して健康とは言い難い状況だ。

 更にこの森には狼も出る。

 子どもの足で長時間歩いて、無事とは思えない。


 アイリーンが何を考えているのか、どこに連れて行こうとしているのか、分からない。

 けれど今ここで子どもたちを解き放つのが、得策でないのは確かだ。

 とりあえず、荷馬車まで連れて行こう。

 そうルフェルは考えた。


 ルフェルは出来るだけ穏やかな、優しげに見えるよう意識して、子どもたちに笑いかけた。


「大丈夫だ。安心していい」


 嘘だ。

 ルフェル自身、本当はどうなるか分からない。

 けれど、今の子どもたちを動かすには、偽りでも希望が必要だ。


 ルフェルのその言葉に、少しだけ子どもたちの間の空気が緩んだように感じた。

 ルフェルが床に寝転んでいる男の胸元を探り鍵を取り出すと、鉄格子の扉を開いた。

 子どもたちが外に転がり出てくる。

 上手く立てず、ぶるぶると震えている子も多い。

 横になることも足を伸ばすことも出来ない状況だったため、関節がおかしくなっているのだろう。

 改めて、こんなことをする人間に怒りが湧いてくる。


 ルフェルは子どもたちを急かさぬようゆっくりと歩みを進め、子どもたちは互いに体を支えながら移動する。


 そんな彼らを気にせず、アイリーンはスタスタと前を進んでいく。

 そして村から出て森を少し進むと、開けた場所に出た。


「あれよ」


 アイリーンの言葉に目をやると、確かに幌付きの荷馬車があった。

 この大きさなら、足を伸ばして座ることはできそうだ。

 折り重なれば横になることも出来るかもしれない。


 幌の中を覗くと、パンの入った籠と毛布が置いてあった。

 それに気付いた子どもたちは、我先にとパンを手に取った。

 アイリーンは、それを顔を顰めて見ていた。

 汚い食べ方だと考えているのかもしれない。


 御者台から、1人の男が降りてきた。

 ルフェルはその顔を見て驚いた。

 見知った顔だったからだ。


 男は、ルフェルがよく行く酒場の常連だ。共に酒を酌み交わしたことも何度かある。

 ルフェルよりも幾分か年上の髭面の男で、かつては腕の立つ傭兵だったが、怪我で辞めたと言っていた。

 男はアイリーンと短い会話を交わすと、子どもたちを皆荷台に上げ、御者台に乗り込んだ。


「まっ待て! 子どもたちをどこに連れていくつもりだ!?」

「海辺の町。俺が育った所だよ」


 男は穏やかな笑みを浮かべると、馬を蹴り出発した。


 ルフェルは一瞬呆気に取られた後、慌ててアイリーンに尋ねた。


「彼らは!? これから彼らはどうなるんですか!?」

「言ったでしょう? 彼らはわたしの為に生きるの。心配しないで。もう、飢えることも傷付くこともないから」


 そう言ってアイリーンは、初めて、美しく清らかな顔で笑った。


「さあ。帰りましょう」


 アイリーンはまたもやルフェルを無視してどんどんと進んでいく。

 ルフェルは迷った。

 アイリーンに付いて行くか、あの馬車を追いかけるべきか。

 けれどどうしても、彼らに悪いことが起きるようには思えなかった。

 何故なら、アイリーンの眼差しが、慈しみに溢れていたから。



 ルフェルは黙ってアイリーンの後を追うことにした。


 アイリーンの背中を見つめながら、歩を進める。

 迷うことのないしっかりとした足取り。



 アイリーン・ミステアシュテント。

 彼女は、本当に悪女なのだろうか。

 彼女の目的は、一体何なのだろうか。

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