第2話 未練を聞こう
ここは、天使と悪魔が住む世界――天魔界。
「世界」と言っても、特別な空間が広がっているわけではない。人間が住む世界と同じ空間の中で、人間の目には見えない世界が存在している。
かつてどこか遠くで生まれた天使と悪魔は、人間が各地へ布教をするように、世界中へ広がった。その地域にもともといた神や神獣、精霊や妖怪たちと、時に争い、時に隠れ、時に共存しながらも、彼らは自分たちの居場所を見つけていった。今では、ほとんどの地域に天使と悪魔は住んでいるという。
この日本にも、オレが生まれるずっと前に天使と悪魔はやってきた。もともといた神様たちと折り合いをつけながら、『魂の未練を晴らす』という役割を持つことになったらしい。雲の上に居場所を見つけ、地獄にあった三途の川を天魔界へ引っ越しさせたという。
他の地域のことはよくわからないけれども、ここではそうやって、天使と悪魔は役割を果たしながらひっそりと暮らしている。
天使と悪魔の関係も、大昔は争いが絶えなかったそうだけど、今は平和になりつつあるという。少なくともこの日本の天魔界は平和そのもので、天使と悪魔が同じ場所でともに暮らしているのが当たり前の光景だ。
とまぁ、歴史のことはあんまり詳しくないからここらへんにして。
オレは玄関のドアを開ける。日の光が射し込み、部屋の隅々を明るく照らした。
「うぅ……寒っ」
まだ太陽は昇り始めたばかりで春の朝はまだ寒い。身震いをしながら、翼を広げて飛び立った。白い翼が風を切る。
目指すは天魔界の東を流れる、三途の川。
「あらライスちゃん、おはよう。今からお仕事?」
向かっている途中に、すれ違ったおばさんが声をかけてきた。知り合いの天使のおばさん。その場で止まってホバリングしながら返事をする。
「おはようございます。あの、ちゃん付けはやめてくださいよ。これでもオレ、この前十四歳になったんですよ?」
「ふふっ、まだまだ子どもじゃない。若いのに朝早くからお仕事なんて、偉いわねぇ」
「稼がないと、暮らしていけませんからね」
そう言って肩をすくめてみせる。
天使と悪魔に任せられた『魂の未練を晴らす』という役割は、天魔界では一つの仕事として位置づけられている。お店のコックやパティシエ、鍛冶職人と同じで、『未練晴らし』という一つの職業。未練を晴らせた魂の数で給料が決まる完全歩合制。一方で就業時間はなく、登録さえすればいつでも仕事ができる。それが、この仕事の短所と長所。
「それじゃあオレ、行ってきますね」
「あっ、待って。これ、ライスちゃんにあげるわ。よかったらおやつに食べて?」
「いいんですか! ありがとうございます!」
紙に包まれたお菓子をもらいテンションが上がる。
おばさんと別れて、オレは三途の川へと翼をはためかせた。
しばらくすると雲の端が見え、その手前に三途の川が見えてきた。川幅は両手を広げて二つ分ほど、深さはオレの
その中流あたり、大きな岩が川の端に横たわっていて、その上にひとりの悪魔が座っている。
オレは身体を起こし、翼を羽ばたきながら下へと降りていく。
「カイー! ごめん、遅くなった」
岩は大きいといっても丸っこくてひとり座ればいっぱいだ。オレはカイの前で飛びながら止まった。羽ばたく風でカイの短い黒髪が揺れる。黒い翼を
「遅い」
不満いっぱいの声。まぁ、いつものことだけど。
「だからごめんって。ほら、まだ寒いでしょ? なかなか起きれなくって」
「おれはもう家に帰って飯を食う時間だ。お前の生活習慣におれを付き合わせるな」
「そんなー」
天使と悪魔では生活の時間がずれている。天使は朝型だし、悪魔は夜型だ。ちょうど太陽と月が反対になっているように。それでも、早朝と夕方は生活時間が
「あ、じゃあお詫びにこれ、半分こして食べよ? さっき知り合いのおばさんにもらったんだ」
オレはポケットからお菓子を取り出した。このまま入れていても
「わぁ、桜まんじゅうだ! はい、カイ」
半分に分けて、片方をカイへ差し出す。カイはおまんじゅうを睨んで、それからオレに睨んで言う。
「小さいのを半分だけもらってもな」
「半分もあるじゃん! そんなこと言うなら、あげないよ?」
言った途端、手の上からおまんじゅうがひったくられる。カイは何も言わずにそれを口の中へ放り投げた。オレも一口食べる。甘いあんこに、少ししょっぱい桜漬けが利いていて美味しい。
「そういえば、今年はまだ咲いてないね」
「行くぞ」
「あっ、待ってよ、カイ」
カイは岩から川の向こう岸へと飛び降りた。オレも川を飛び越えて、地面に降りる。カイの後を追って、川原を上流へと歩いてく。
白と黒の翼が同じように揺れる。天使の翼はふっくらふわふわ~としているのが特徴だ。それとは逆に悪魔の翼はシャキッと鋭くて、冷たく黒光りしている。それにカイの翼は、頼りになるというか強いものを感じる。
するといきなり、カイが止まった。オレも慌てて止まり、カイの見ているほうを見る。
川の手前で、小さな魂が浮いていた。
「お前が行け」
カイがそう言って一歩後に引く。
「うん」
魂に近づき、そっと触れる。するとそれは人間の形に変わっていく。小さな女の子。七、八歳だろうか。こんな子がここに来るのは珍しい。
「ここは?」
女の子が泣きそうな声で
「ここは三途の川の手前だよ。死んだ者が来る場所」
「あたし、しんじゃったの?」
「……うん」
「この川は三途の川って言って、ここを渡ると審判の塔っていうところに着くんだ。そこには、大天使様か大悪魔様がいらっしゃって、君が天国へ行くべきか、地獄に行くべきかを教えてくれる」
「じゃあ、この川をわたればいいの?」
女の子は目の前に流れる川を指差した。
「一人で渡れる?」
「ううん」
女の子は首を横に振りながら、手で目にたまった涙を
「だよね。未練のある者はこの川を渡れないんだ」
「みれん?」
「心残りのことだよ。死んじゃう前にやっておきたかったこととか、心配だったこととかある? それを解決するのがオレとか、あと、あいつとかの仕事だから」
カイのほうを指差してみせた。カイはいきなり振られて、ちらとこっちを見たけど、すぐに目をそらして川を見る。オレと女の子はまた向き直った。女の子の目にはまだ涙が残っている。
「あたしね……」
たどたどしい声で女の子が話し始めた。
「お花をみたかった、とおもうの……」
お花、か。珍しい未練だな。
「どんなお花?」
「わからない……」
「そっか」
死んでしまうと生きていた時の記憶はどんどん失っていく。たとえ大切なことであってもなくても。だから記憶が完全になくなってしまう前に、オレたちは未練を晴らさないといけない。
「それじゃあ、ちょっとごめん」
オレは女の子の額に手を当てた。
「君の記憶をみせてもらうね」
そう言って目を閉じた。女の子の記憶が頭に流れ込む。
家の中、親のこと、小学校、病院……。
記憶が終わり、目を開けた。
「大体わかったよ。ありがとう」
女の子はきょとんとした顔でこっちを見ている。
「ここで待ってて。君の見たいものを持ってくるから」
今回は連れ回すよりも、ここで待ってもらうほうがいいだろう。女の子がこくりと頷く。オレは手を振って、雲の端へと歩き出した。カイが後ろからついてくる。
「長い」
「そうかな? オレはいつもあれくらい説明してるよ」
雲の端は川と隣り合わせになっているから十歩ほどで着く。下には広がっているのは、人間界。
「よーしっ、ひと仕事してくるぞ!」
そう言って、雲から飛び降りた。翼を広げて、宙を舞う。
こうしてふたり、人間界へと降りていった。
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